1 1番乗り
2010/04/15(木) 20:38:38 ID: l7Dqa7uQ8+
君が後北条氏なら、は後梶原氏といったところか。
だがの場合、実際に梶原氏の末裔に当たったか?
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2 ななしのよっしん
2010/04/15(木) 20:50:40 ID: l7Dqa7uQ8+
調べが、末裔というのはたぶん誤りだった。

宗」という名前の人物は2人いるんだった…
時代の梶原景時子供、すなわち梶原に1人
2人がこの記事の人物。
よってたぶん関係ないな…

しかし、逆に言うと本当に後梶原氏と言えるということだ。
ただ、梶原景時の子孫は戦国時代に存在したが…
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3 ななしのよっしん
2012/08/16(木) 19:57:02 ID: aV3UZNRQqY
海賊衆なのに、北条滅亡時にわざわざ高野山まで氏直に同行したのか
その後帰農したって事は、それだけ後北条…氏直にほれ込んでたのかねぇ
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4 ななしのよっしん
2015/11/02(月) 23:14:55 ID: WCWeK3fNYz
>>3
紀州出身だし、見ず知らずの異に行くというよりは、
高野山はしみのある隣だったんじゃないか。

名君に知己の恩を受け、遠く関東で自身の才を存分に発揮し、名君の遺児にも忠義を全うし、
見るべき程のものを見届けた上で、最期は故郷に帰農。

とても幸せ人生と思う。自分もかくありたい。


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5 ななしのよっしん
2016/10/18(火) 19:17:10 ID: 9gKJZJ+Wlt
>>2
讃岐梶原氏ていうのがいるらしいしそれの傍流が紀伊に土着した…とかあったりして
の字入ってるし全くの関係ではないと思うんだけどどうなんだろ
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6 ななしのよっしん
2016/10/25(火) 15:36:24 ID: QkmNR8navP
>>3
もともとホームグラウンドは紀伊
傭兵みたいな形で雇われて北条に属していただけで
紀伊関東を行ったり来たりしていて
北条領内に土着していたわけではない。
雇いが滅んだから地元に戻っただけ。
まあ氏直に地元帰ってからも送ったりしてるし
仲は良かったんだろうけど
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7 ななしのよっしん
2017/04/12(水) 14:59:19 ID: j9+BJU4aSY
傭兵運を兼業した当時の海の男だね
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8 源右衛門
2018/05/02(水) 22:27:20 ID: LNVy822V15
梶原景宗を語れる場所があって嬉しいです。
はこの梶原景宗の一族になります。
宗嫡男の兼宗は討死したとありますが、嫡男兼宗と当のご先祖が同じでないかと調べています。
根拠は、当のご先祖が梶原衛門なのですが、
この衛門北条滅亡後は、石田三成の尾頼忠のところに身を寄せ、関ヶ原戦いで西軍敗北後は、戸田左門預かりとなります。西軍敗北後、尾頼忠妻子を連れて逃げるところを捕えられたようです。
本来、打ち首にされるところだと思いますが、梶原一族の代表者として衛門家康の前に連れ出され、元北条梶原ということで家康に認められて戸田左門預かりになっています。この時いっしょに梶原衛門の一族も戸田預かりになっていまして、その中には、柔術の制剛流の祖、梶原衛門もいます。
この直の文書にも戸田預かりのことが同様に記載されており
祖父北条氏直梶原景宗梶原兵部通とあります。
方に捕まった際に代表者として衛門が引き出されていますので
梶原兵部通が衛門ではないか、さらに、
北条古文書には
北条軍は梶原備前守と子の梶原兵部大輔を先鋒として~
と記載のある
梶原兵部大輔梶原、兵部、さらには衛門が同一人物ではないかと考えています。
ご先祖の衛門の妻は豊臣秀次の側室の多羅尾でして
戸田預かり後は戸田から養子をもらっています。
その後、正式に姫路本多忠政に仕官するのですが(奉行)
衛門の妻(多羅尾)の堂高次の側室となり
3代当高久、高通を生んだことから
縁戚関係でに仕え、その後家老職を代々賜ることになります。
衛門以外の梶原一族は、衛門に仕官するときに
本多に一族は仕えています。(奉行500石)
本多政長の時代まで仕えたようですが、衛門以外の一族は
本多政長時代に人となっています。
この時代は本多でのお家騒動があり、大和郡山ということで奉行としての役割もなかったことからだと思います。
本多人後は、一族は衛門同様にに仕官しています。
普請奉行として600石。
梶原景宗の嫡男の直系かどうかは定かではありませんが、このように北条軍であった梶原は存続しております。
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9 ななしのよっしん
2018/06/04(月) 01:48:31 ID: EdszTmtFMP
>>5
梶原ってそれこそ全あちこちに子孫が散らばっていたんだしそのうちのひとつじゃないかな
ただ詳しい系図とまではわからんけど
讃岐にしろこの一族やたらに縁がある
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10 源右衛門
2022/08/18(木) 21:08:31 ID: LNVy822V15
和歌山県図書館に「南紀士姓旧事記」の「紀伊地士武功覚書」に
梶原氏は大崎住居、領地は大崎今高七十石之処にへ共、辺故、運上過分に有、
先祖梶原下野より処へ流され参由・・・」
というのを見つけました。
梶原景時が先祖と書かれていますね。
下野
下野は確か梶原景時の6男の則の居があったとされるので、梶原景宗梶原則の子孫?
下野より処へ流され?
流される理由があった?
流れ流れ転々として紀伊に辿り向いたのか?
もっと調べれば系図が出てくるかもしれませんね。
時が討伐されてから宗まで400年ですが、
古文書はあるところには残っていますからね〜

豊臣秀吉の紀州攻めで梶原景宗は広に移り、その後、北条氏康臣となったようです。

梶原景宗の嫡男が兼宗、兼宗は討死していますので
衛門が兼宗長男
柔術の制剛流の祖、梶原衛門(尾柔術師範150石)が次男
ではないかと最近は考えています。

ちなみに
梶原衛門長男で代々家老で2,000石
通称 明治まで継承
衛門の次男が代々衛門名乗り
普請奉行 600石

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11 源右衛門
2022/08/19(金) 00:20:09 ID: LNVy822V15
大河ドラマ鎌倉殿の13人」で八田知家がでていますが、
梶原衛門過去帳を見ていると八田婚姻した衛門を見つけました。
代々衛門を継承していますので、どの衛門がどの衛門で子でと分からなくなります。
なぜか過去帳には通称しか書かれていないのです。
古文書から次、政と年代で実名と称号しました。
この八田もおそらく八田知家の子孫なんだろうなぁと
想像を巡らせてしまいます。

代々家老梶原はこちらはや他の家老との婚姻です。
ちなみに初代出雲婚姻し、一時、上野家老を務めた時期があり、その際に堂姓を賜わるのですが、梶原姓を名乗ることを許されています。
このことからも梶原景時の子孫である誇りからではないかと想像していましたが、
紀伊地士武功覚書」に先祖梶原時とあるのは
大きな発見でした。
梶原家紋は「並び矢」
衛門家紋は「丸に違い矢」です。
で今でも年賀状は毎年交わしています。
というか、ご先祖を調べる中で交流を始めたのですがね。
梶原景宗藤堂高虎を題材に大河ドラマでやって欲しいですね〜
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