お家騒動(おいえそうどう)とは、
本項では1.について記述する。
概要
古来より、君主とその一族、家臣など、立場のある人物の勢力抗争は珍しくなかった。
家督を継ぎ、いよいよ我が世の春が来たとはっちゃける無能な君主、無能な君主を排斥して新たな君主を立て道を正そうとする忠臣、逆に君主を傀儡化して実権を掌握しようとする佞臣、便乗してうまい汁を味わおうとする輩、目障りな有力者を排除して自らの権力を強化せんとする君主など、バリエーションは様々。
勿論それぞれの立場から騒動を見ると、また違ったものが見えてくる場合がある。これらは時代設定や登場人物の名前を変え、歌舞伎や講談の題材として取り上げられ、人口に膾炙している。
江戸時代以前でも、家督争いや内紛は多かった。しかし往々にして血で血を洗う実力行使によって解決が図られており、著名な所では足利氏の「観応の擾乱」、大友氏の「二階崩れの変」あたりが知られる。
しかし元和偃武により戦国の世が終わると、大名家は江戸幕府が定めた武家諸法度に基づき、問題を解決せざるを得なくなったのである。仕方ないね。
最もよく知られるのは以下の3つである。これを「三大お家騒動」と呼ぶことも。
......4つあるけど詳細は後述。
加賀騒動
享保8年(1723年)、第五代藩主・前田綱紀の隠居に伴い、息子の前田吉徳が第六代藩主となる。
吉徳は自身の権力を強化せんと考え、かねて気に入りの家臣・大槻伝蔵を取り立てて重用、財政改革に取り組んだ。しかし財政改革は思うように効果を上げなかった。
にも関わらず、吉徳による大槻の厚遇は深まるばかり。これに不満を覚えた門閥派・保守派の家臣の不満が募り、遂に吉徳の長男・前田宗辰に対し、大槻を非難する弾劾状を差し出すまでに至った。
延享2年(1745年)、吉徳の死去を受けて宗辰が第七代藩主となる。後ろ盾を失った大槻は宗辰から蟄居を命ぜられ、3年後には私財没収の上で越中五箇山に流刑となった。
しかし宗辰は病に倒れ、弟の前田重煕が第八代藩主となる。ところが延享5年(1748年)、藩主・重煕および養母・浄珠院の毒殺未遂事件が発生した。調査の結果、奥女中の浅尾による犯行と判明し、厳しい詮議の結果、主犯は吉徳の側室・真如院である事が明らかとなる。更に真如院の部屋を捜索すると、なんと大槻との不義密通を示す手紙が発見された。
寛延元年(1748年)9月、騒動を知った大槻は蟄居先で自害。翌年には禁固刑にあった浅尾と真如院も誅殺され、その後も粛清の嵐が吹き荒れた。
ただし一説には加賀騒動は存在せず、大槻を佞臣に仕立て上げる為の陰謀だったという説もある。
後にこれを題材とした歌舞伎『加々見山廓写本』(かがみやまくるわのききがき)、人形浄瑠璃『加々見山旧錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)などが発表された。
伊達騒動
仙台藩第三代藩主・伊達綱宗は祖父・政宗譲りの道楽者として知られ、その遊興は留まる所を知らなかった。叔父である一関藩藩主・伊達宗勝による諫言も聞き入れられず、遂に万治3年(1660年)、21歳の若さで強制的に隠居させられる。第四代藩主には当時わずか2歳の嫡男・伊達綱村が就任する事となった。
……というのが前提で、別にこの辺りは騒動でも何でもない。
俗説では綱宗は吉原三浦屋の高尾太夫を身請けしようとして断られた為、縛り上げて吊るし斬りにしたという話もあるが、あくまでもそれは俗説とされている。多分。
かくして藩主となった綱村だが、幼い事を理由とし、大伯父・宗勝や、奉行・奥山常辰らが実権を掌握していた。これに便乗する形で台頭した奉行・原田宗輔(原田甲斐)は、自らに諫言してきた里見重勝を無嗣断絶に追い込むなど、専横を行った。
これに対し、宗勝派と対立する伊達家一門の伊達宗重は「自らの所領紛争において不利な裁定を下された」とし、宗勝派の専横を幕府に上訴することとなった。
一方で寛文6(1666)年には当時8歳の綱村に対する毒殺未遂が発覚するなど、不穏な動きも記録されている。
寛文11年(1671年)、江戸表の老中・板倉重矩邸にて、伊達宗重、柴田朝意(反宗勝派)、原田宗輔(宗勝派)らが審問を受ける事となる。一度目は何事もなく終わり、二度目の審議は大老・酒井忠清邸に場を移して行われた。
ところが柴田が審問を受けている最中、控え室で原田はやおら宗重を斬殺。戻ってきた柴田と斬り合いとなり、互いに負傷。両者ともに混乱した酒井家家臣らに討ち取られるという、前代未聞の流血沙汰となってしまった。
関係者の死を受け、綱村は幼少の為お構いなしとされるが、事もあろうに大老の邸宅で刃傷に及んだ原田家は断絶、一族の男子は皆殺しとなった。更に騒動の大元となった宗勝や後見人らも咎めは免れ得ず厳しい処罰を受け、一関藩は改易という極めて重い処分が下される事となった。
後にこれを題材とした歌舞伎『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)や、小説『樅ノ木は残った』などが発表された。後者は悪人とされてきた原田宗輔が主人公で、幕府による藩取り潰しを阻止する為に命を賭けた忠臣として描いている。
黒田騒動
福岡藩第二代藩主・黒田忠之は、「今世の張良」と称された祖父・黒田孝高(黒田官兵衛)や、関ヶ原の戦いで第一功となった父・黒田長政とは異なり、狭量で粗暴な性格だった。長政は世継ぎとして相応しくないと考え、三男・長興に家督を譲ろうとする。
この時忠之に送られた書状は「百姓になるか、関西で商人になるか、僧侶になるか」を迫る、大変厳しいものだった。しかし忠之の後見役・栗山大膳(栗山利章)は長政に対し、家臣の子弟を集めて血判状を送ってまで忠之を擁護。この嘆願が受け入れられ、長政は栗山を後見役に頼むと、家督を忠之に譲り死去した。
ところが忠之は藩主就任早々、譜代の家臣団との間に軋轢を生じさせる。栗山は諫言をしたためた書を忠之に送るが、「深酒をしないように」など子供に向けたような内容であった為に忠之は激怒。
忠之は栗山とも距離を置き、自らにおもねる家臣のみを重用、更に太平の世に逆行するかのように軍拡を行うなどの暴挙に出始めた。早々にこれらの不行跡は幕府の知る所となり、咎めを受けるに至っている。
ここに至り栗山も腹をくくり、寛永9年(1632年)に「忠之が幕府転覆を企てている」と幕府に上訴し、大騒ぎとなった。翌年、第三代将軍・徳川家光が直々に双方の主張を聞いた上で裁きを下す。
まず忠之に対しては領地召し上げとし、直後に「祖父と父の功により」福岡藩を安堵。この裏には徳川家康が関ヶ原の戦いの後に長政に与えた「子々孫々まで罪を免除するお墨付き」の存在も大きく影響している。
一方で「大膳は狂人である」とした黒田家の言い分が通り、騒動の責を追って栗山は陸奥盛岡藩預かりとなったが、同時に忠之が取り立てた側近・倉橋十太夫も高野山に追放された。
この時栗山は藩祖・黒田如水所用の兜を持参しており、これは現在でも盛岡市に所蔵されている。
他の二つのお家騒動とは異なり、幸い死者は出ていない。しかし大大名の治める藩が危うくお取り潰しになる可能性、最終的に将軍自らの裁定だった事などから、衝撃が大きい事件であった。
黒田騒動に関して、森鴎外は小説『栗山大膳』を発表。他にも滝沢康彦の小説『主家滅ぶべし』、歌舞伎『御伽譚博多新織』(おとぎばなしはかたのいまおり)など、この事件を題材とした作品が存在する。
仙石騒動
案外地味な黒田騒動に代わり、三大お家騒動に数えられる事もあるため記述する。
但馬国(現在の兵庫県)出石藩にて勃発した騒動。
第六代藩主・仙石政美の代、逼迫した藩の財政を立て直すべく改革が始まる。筆頭家老・仙石左京(久寿)は人件費の削減、産業の振興を掲げる一方、勝手方頭取家老・仙石造酒(久恒)は質素倹約令を打ち出す。
政美は左京を支持して権限を強化。これをかさに左京は御用商人からの租税の値上げ、御用商人以外の締め出し、更には藩士の俸禄(給料)の一部を強制的に借り上げるなどの強硬策に打って出た。ところが成果が上がらず、更に藩士や商人から反発の声が多数上がった為、左京の政策は失敗と見なされて停止。代わって造酒が復権して、藩政を執る事となる。
しかし文政7年(1824年)、政美は参勤交代の途上で急病に倒れ、28歳の若さで病死。子がいなかった事から、隠居していた先代藩主・仙石久道は会議を開き、これに参加する為に左京がまず江戸に赴いた。この時左京が実子・仙石小太郎を同伴させた事で、後継として推すのではないかと考えた造酒は実弟の酒匂清兵衛を江戸に遣わし、会議を監視させる。だが会議の結果、第七代藩主は政美の幼い弟・仙石久利に決まり、杞憂に終わった。
その後造酒派は藩の実権を掌握し、左京は一転して疎んじられる事となった。だが家臣の重用の偏りから諍いが起き、造酒と清兵衛が隠居を余儀なくされると、左京はこれに乗じ一気に返り咲き。再び藩の財政の改革に入り、更に小太郎の嫁に幕府筆頭老中・松平康任の姪を迎えた事で、盤石の体制となる。
造酒派の重臣は先々代藩主・久道に諫言するが聞き入れられず、かえって蟄居・追放を命じられた。
追放された河野瀬兵衛は江戸に赴き、天保4年(1833年)、久道夫人・常真院に上書を提出する。左京の財政策によって江戸表で困窮した生活を送っていた彼女はこれを信じ、夫に訴えた為に瀬兵衛の上訴が発覚。天領(幕府直轄地)に逃げた瀬兵衛は、左京派の追手に捕らえられた。本来天領での捕縛には幕府の許諾が必要だったが、かねて左京が懇意の松平康任によってもみ消され、更に瀬兵衛の協力者・神谷転は危機感を覚えて出家していた所を、松平のつてによって南町奉行所に捕縛される。
ところが、これがとんでもない悪手だった。
というのも神谷が身を寄せていた寺・普化宗一月寺は寺社奉行に対して「僧侶は寺社奉行の管轄下にあり、町奉行に捕縛の権限はなく違法である」と訴えたのである。かねてより幕府の庇護下にあり、普化宗の触頭(宗門のトップ)にして「関東総本山」を称する古刹からの抗議には、無視できない重みがあった。
訴えを聞いた寺社奉行・脇坂安董は、当時松平と権力を争っていた老中・水野忠邦に事の成り行きを報告。水野は松平を失脚させる為、両者は「左京が仙石家を乗っ取ろうとしている」として第十一代将軍・徳川家斉に言上したのである。
更に常真院は実家の姫路藩邸に赴き、藩主・酒井忠学の妻にして家斉の娘・喜代姫にも事の次第を話していた。娘を経由して騒動の次第を知った家斉は、騒動を裁定する為に評定所を開き、責任者に脇坂を任命する。1年後の天保6年(1835年)、調査取り調べの末に裁定が下された。
仙石左京は主家乗っ取りを企てたとして打ち首獄門となり、鈴ヶ森刑場に首を晒された。左京の子・小太郎は八丈島へ流罪となり、途上で病死。その他多数の重臣が重罰を受け、左京派は壊滅した。
幼少を理由に、藩主・久利に対する直接のお咎めはなかったが、これが原因で出石藩は5万8千石から3万石に減封という厳しい処分が下る。
老中・松平康任は失脚、隠居を余儀なくされ、神谷捕縛に加担した南町奉行・勘定奉行も不行跡を咎められて失脚。これにより水野忠邦が台頭、老中首座として天保の改革へと乗り出すが、それは別の話となる。
その後も出石藩には両派の遺恨が残り、文久2年(1862年)に藩主・久利による親政開始まで泥沼の政争が続いた。
現代のお家騒動
有名なところでは
- 格闘技「極真空手」創始者・大山倍達の死に伴って起きた後継者争いおよび分裂。
- 出版社「角川書店」にて1992年に起きた、当時の社長と副社長(社長の実弟)の対立による副社長追放。このときに副社長が設立した会社がメディアワークス。「角川春樹事務所」の記事も参照。
- 1970年~1980年代から2000年くらいまでの阪神タイガースのフロント。ほとんど毎年のように起こしていた。
- ゲーム会社「エニックス」出版部門の幹部社員らが、複数の漫画家をエニックスが出版する漫画雑誌から引き抜いた上で独立、新雑誌を立ち上げた騒動。マッグガーデンや一迅社はこの騒動から生まれた。「エニックスお家騒動」の記事も参照。
- 布製鞄店「一澤帆布工業」の相続問題に端を発した裁判およびブランドの分裂。
- 2012年4月に行われた、歌手・小林幸子の所属事務所「幸子プロモーション」の社長と専務の解雇。これが元で小林氏は当時のレコード会社から契約解除され、紅白歌合戦に4年間出場できなかった。
- 家具販売会社「大塚家具」におけるオーナー父娘の経営権争い。
- ゲーム会社「コナミ」におけるクリエイター・小島秀夫の役員解任および退社。小島氏は後にスタジオ「コジマプロダクション」を設立した。
- 芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」における副社長とチーフマネージャーの対立。これが原因でSMAPが解散した。
などが挙げられる。
関連項目
- 10
- 0pt