ダニエレ・ロマニョーリ
とは、MotoGPの車両整備員である。
2008年と2009年にヤマハワークスでホルヘ・ロレンソチームの監督を務めた。
2011年から2014年までカル・クラッチローのクルーチーフを務めた。
2015年以降は、ダニロ・ペトルッチのクルーチーフを務めている。
1966年1月13日に、イタリア・マルケ州ウルビーノ
で生まれた。
5歳の時に父親の影響でバイクに乗り始めて、バイクレースを楽しむようになった。父親に連れられて、ウルビーノ周辺のサーキットに出かけてレースをした。地元のウルビーノだけではなく、ペーザロ
、リッチョーネ
といったところにも子供向けの小さなサーキットがあったので、そこに行った。
ちなみに、ペーザロやリッチョーネのすぐそばにはミサノサーキットがある。おそらく、ミサノサーキットで行われるレースにも観戦しに行ったものと思われる。
レースを続けることは早い段階で諦めたが、メカニックとしてレースの世界に関わりたいと思うようになった。学校で電気工学を勉強し、学校を卒業したらMBAに入団した。ダニエレを教えていた学校の先生がペーザロに住んでおり、同じペーザロに拠点を持つMBAの首脳と知り合いだったので、そのツテで入団できた。
MBAとは、Morbidelli-Benelli-Armiの略で、イタリア・ペーザロに本社を持つオートバイメーカーのモルビデリ社
が作ったレース専門企業のことである。Benelliとは、イタリア・ペーザロに本社を持つオートバイメーカー・ベネリ社
のことで、モルビデリ社と協力関係にあった。ちなみにarmiとはイタリア語で「兵器」という意味である。(参考資料
)
MBAでは、学習の一環として、エンジンの点火をコンピュータで電子制御する装置を開発していた。その装置はパオロ・カゾーリ
の乗るバイクに載せられた。パオロ・カゾーリがMBA製エンジンのバイクに乗っていたのは1984~1987年で、その最終年の1987年の出来事である。
こうした、エンジン内部の点火をコンピュータで電子制御する技術を、いろんなチームに売り込んだという。売り込み先のチームの1つはマッテオーニ・レーシング
だった。このチームは元ライダーのマッシモ・マッテオーニ
が率いるチームで、ダニエレの実家から近いエミリア・ロマーニャ州
に本拠地があった。ちなみにマッテオーニ・レーシングは1999年にエミリオ・アルサモラ
という世界チャンピオンを輩出している。
また、センプルッチ・アンガイア・レーシング
というチームにも売り込んだ。このチームは、上田昇
が現役最終年の2002年に所属していたので、日本人にもなじみがある。
そうしていると、ジャンカルロ・チェッキーニ
という名物メカニックに気に入られ、バラバラに分解されたマシンを組み立てる練習をさせてもらい、メカニックとして働くことができるようになった。
この記事
によると、ジャンカルロ・チェッキーニとは、大ベテランのメカニックで、MBAに所属していたこともある。
1992年にセンプルッチ・アンガイア・レーシング
へ入団し、125ccクラスに参戦するエツィオ・ジャノーラ
のメカニックになった。
1993年は同じチームの250cc部門に移り、カルロス・チェカ
のテレメトリースタッフになった。テレメトリーとは、走行情報の収集・分析をする係のこと。この当時のバイクレース業界において、テレメトリーは全く新しい技術であり、ダニエレも学習の連続だったという。
1994年はGIVIレーシング(デイトナ・ピットレーンというチーム名でも呼ばれる)に所属した。250ccクラスではカルロス・チェカ(ゼッケン23)と一緒になり、テレメトリースタッフとして働いた。125ccクラスでも上田昇(ゼッケン5)のチームのテレメトリースタッフとして働き、上田のランキング2位獲得に貢献している。
この記事
を開くと、画像がどんどん切り替わっていく。そのなかに、ゼッケン23番のマシンとともに映るカルロス・チェカの画像と、ゼッケン5番のマシンとともに映る上田昇の画像がある。そのどちらの画像にも、ライダーのすぐ隣にダニエレ・ロマニョーリが映っている。
1996年までGIVIレーシングに所属し、1997年はマッテオーニ・レーシングに所属して、青木治親とエミリオ・アルサモラの2人の世話をすることになった。2人とも250ccクラスに参戦し、ホンダのNSR250に乗っていた。
1999年はリエージュ・コンペティション・チームに所属した。このチームはベルギーのリエージュ
に本拠地があり、創設したのは元・MotoGPライダーのベルギー人であるオリヴィエ・リエジョワ
が率いていた。そして、1999年からベネトン・プレイライフ(ベネトン
はイタリアの服飾メーカーで、Playlifeというブランド名を所有している。1990年代はF1チームも持っていた富豪企業)がスポンサーに付き、125ccクラスの中で最も有力なチームになっていた。ライダーはマルコ・メランドリ
と東雅雄
で、マルコがランキング2位、東がランキング3位となっている。ダニエレは、この両者のテレメトリースタッフとして働いた。
2002年は、最大排気量クラスに4ストローク990ccエンジンが参加可能になった記念すべき年である。この年、ダニエレはヤマハワークスに雇われることになり、テレメトリースタッフとして腕を振るうことになった。
最大排気量クラスのワークスチームというのはMotoGPスタッフの誰もが憧れる職場なのだが、ダニエレは10年ほどの日時を要して、ついにその場所に辿り着いたのである。
2002年から2004年まで、カルロス・チェカがヤマハワークスに在籍していたので、そのチームに入り、テレメトリースタッフとして働いた。
2005年から2007年までは、コーリン・エドワーズのクルーチーフを務めた。
2005年を圧勝したヴァレンティーノ・ロッシは、「MotoGPでやり残したことは少ない。F1に転向するかも」としばしば口にしていた。
このため、ヤマハワークスは2006年の早い段階からヴァレンティーノ・ロッシの後釜を探すことになった。その候補として上がっていたのがホルヘ・ロレンソだった。2006年の前半戦において、まだホルヘ・ロレンソは250ccクラスでチャンピオンを獲得していなかったので、かなり思い切った抜擢となる。
ホルヘ・ロレンソとの交渉は順調に進み、2006年9月に日本のツインリンクもてぎで「2008年からヤマハにワークス待遇で入団する」という契約を交わした。
当初、ヤマハの首脳陣は「2008年はヤマハワークスにヴァレンティーノ・ロッシとコリン・エドワーズ。新しく立ち上げたワークス級チームにホルヘ・ロレンソ」という構想を立てていた。ところが、スポンサーが見つからなかったので、その構想は流れてしまい、「2008年はヤマハワークスにヴァレンティーノ・ロッシとホルヘ・ロレンソ」という体制を選択せざるを得なくなった。
2007年中頃、ヴァレンティーノ・ロッシに「2008年はチームメイトにホルヘ・ロレンソが入る」と伝えると、ヴァレンティーノは明らかに困惑した顔をした。ヴァレンティーノは、チームメイトにホルヘを迎えることを嫌がっていたのである。
ヴァレンティーノの気分を損ねないようにするにはどうしたらいいか、ヤマハワークス首脳陣たちは考えた。その結果出てきたのは、「ヤマハワークスを2つのチームに分ける」という案だった。ヴァレンティーノのチームと、ホルヘのチームに完全分割してしまうのである。
この案が了承され、ヴァレンティーノのチーム監督にはダヴィデ・ブリヴィオ、ホルヘ・ロレンソのチームにはダニエレ・ロマニョーリが抜擢されることになった。
ここまでの流れは、ヤマハワークス内情本
の48~58ページに記されている。
2008年からダニエレ・ロマニョーリはチーム監督として懸命に働いたのだが、このとき衝突した相手がクルーチーフのラモン・フォルカダだった。
どうにも意見が合わず、2009年シーズン末にダニエレ・ロマニョーリは「チーム全体を管理する役割ではなく、以前のようなテレメトリーの専門職に戻りたい」と言い残し、ヤマハワークスの監督職を辞任することにした。
ちなみに、ホルヘ・ロレンソチームの監督後任として、ウィルコ・ズィーレンベルグが就任している。
2010年は、Tech3というプライベートチームのMoto2部門に入った。そこで、ラファエレ・デ・ローサ
というイタリア人ライダーのクルーチーフになった。先ほどの発言では「クルーチーフよりもさらに格下のテレメトリー専門スタッフになりたい」といったのだが、結局はクルーチーフに就任した。
いずれにせよ、ヤマハワークスのチーム監督から、プライベートチームのMoto2部門のクルーチーフになったので、お給料は大きな減額となったと思われる。人間誰しも出世の階段を駆け上がることを夢見るものだが、なんと出世の階段を降りたのである。
2010年カタルーニャGPのMoto2決勝で、ラファエレ・デ・ローサのチームメイトである高橋裕紀が優勝した。そのときの動画に、ちらっと映っている。(画像1
、画像2
)
2011年のTech3の最大排気量クラス部門には、カル・クラッチローが入団してきた。ダニエレは、Tech3の首脳であるエルヴェ・ポンシャラルに、カル・クラッチローのクルーチーフ就任を打診されたので、それを受け入れた。
カル・クラッチローは2010年までスーパーバイク世界選手権で走っており、そこではドイツ人のクルーチーフと組んでいた。カル・クラッチローはそのドイツ人クルーチーフをTech3に連れて行きたいと言っていたのだが、エルヴェ・ポンシャラルはそれに反対し、カル・クラッチローに対してダニエレ・ロマニョーリを勧めた。
エルヴェの起用は見事にはまり、ダニエレとカルは息ぴったりとなった。
ダニエレはカルに対して「ブレーキングも、立ち上がりの際の加速も、乱暴だ。ホルヘ・ロレンソの走行データを見て、ホルヘ・ロレンソの走りを真似ると良い。ヤマハのマシンを速く走らせるにはそれが一番だ」と忠告し、カルはその勧めに従った。すると、2012年からカルの成績が上向いていった。
(※ここまでの資料・・・記事1
、記事2
)
2014年から、カル・クラッチローはドゥカティワークスに移籍することになった。このとき、カルはダニエレを連れていくことをドゥカティワークスに提案し、ドゥカティワークスもそれを了承している。Tech3からドゥカティワークスへ、2人揃って移籍することになった。
2014年はドゥカティワークスで戦うことになったが、カル・クラッチローは大苦戦した。序盤7戦でノーポイント4回で、シーズン途中にチームLCR(ホンダサテライト)への移籍を決意することになった。
できればチームLCRにもダニエレ・ロマニョーリを連れて行きたいのだが、チームLCRにはクリストフ・ブルギニョン
という巨漢のクルーチーフがいる。クリストフを押しのけてダニエレを無理矢理移籍させるのは難しい情勢だったので、カル・クラッチローとダニエレはここでお別れということになった。
2015年からは、アンドレア・イアンノーネがプラマックレーシング(ドゥカティサテライト)からドゥカティワークスにやってくることになった。イアンノーネは、プラマック・ドゥカティで一緒だったマルコ・リガモンティ
を引き続きクルーチーフに起用することを求め、ドゥカティワークスもそれを了承した。
このため、ダニエレはプラマックレーシングに移ることになった。そして、ダニロ・ペトルッチのクルーチーフを務めることになった。
2015年当時のダニロはプラマックレーシングの中ですら2番手という扱いだったが、順調に成績を上向かせていった。そして2018年6月にはドゥカティワークスとの契約を勝ち取った。
2019年からダニロはドゥカティワークス入りしたが、それに伴ってダニエレもドゥカティワークス入りした。
お喋りな性格で、イタリアのテレビ局に出演しては聞きごたえのある中身の濃い話をしてくれる。イタリア語で喋っている動画
がある。
ひょうきんな性格の持ち主である。2019年イタリアGPでダニロ・ペトルッチが優勝したとき、チーム関係者として表彰式に参加したのだが、そのときも、はしゃいだ感じで登場している。
1996年頃生まれの娘と、1998年頃生まれの娘がいる。
ライダーが走っているとき、ピットウォールスタンド(メインストレートとピットレーンの間に立てられる小屋。通信機器が備え付けられている)まで行ってそこで走行情報を見るタイプの人と、ピットの中にそのまま残留するタイプの人がいる。ダニエレ・ロマニョーリは後者のタイプである。
このインタビュー
では日本メーカーとイタリアメーカーの違いを語っている。「日本人は物事を単純化する点では最高だ。彼らが作り出すものは非常に単純明快だ。単純明快なので、まことに整備しやすいバイクである。しかし、日本人と付き合うときは忍耐が必要だ。日本人は改革するのが遅い。その点ではドゥカティは優れている。ドゥカティは改革の速度が速すぎるぐらいだ」と語っている。
子供の頃はジャコモ・アゴスティーニのファンではなく、無冠の帝王だったレンツォ・パゾリーニ
のファンだった。また、30台の頃はヴァレンティーノ・ロッシとマックス・ビアッジがイタリア国内で人気を二分するようになったが、このときはマックス・ビアッジを応援していた。国内一番人気の存在よりも、二番人気の存在を応援する傾向があり、天邪鬼(あまのじゃく)なところがある。
(Tech3時代の動画 バイク整備の説明をしている)掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/08(月) 12:00
最終更新:2025/12/08(月) 12:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。