古沢政生 単語

フルサワマサオ

1.3万文字の記事

古沢政生exitとは、かつてヤマハに所属していた技術者である。

古澤政生と書くのが正式な名前だが、常用漢字を用いた古沢という表記が多く、表記揺れが起こっている。

2003年から2010年まで、MotoGPにおけるヤマハレース活動の揮をとっていた。

現在京都府内に住み、隠退生活を送っている。
 

概要

ヴァレンティーノ・ロッシが「フルサワサンはバイクのことを本当によく知っている」と信頼していた人物。ロッシと古沢さんの対談動画もあるexit

ピットで黒いサングラスを付けていた姿exitは貫たっぷりであった。

2002年まではレースについては素人で、レースを観戦したことすらなかった。

2003年から2010年までヤマハMotoGPの中心人物だった。とはいえ、2006年2007年MotoGPからすこし離れていた。彼が離れた途端にヤマハが負けるようになり、ロッシが「フルサワを呼び戻せ!」と猛クレームを付けたという。

2010年シーズン末をもって引退し、2011年4月ヤマハを定年退職した。趣味をやりたいから引退した。バイクスノーモービルexit全地形対応車(ATV)exitマリンジェットexit釣り、彫刻、絵画、漫画・・・趣味が多い。マツダ・ロードスターという白いオープンカーexit改造して遊ぶのも趣味の1つ。ヤマハのRZ250exit(自身が設計に関わったバイク)も好き放題に改造する。レースなどやっていると趣味の時間が全になくなってしまう。



2011年オランダGPに、奥様和服姿でピットに来ており、表式の直後に映像に映っていた。

ちなみに古沢芸術美術に傾倒しているであるらしく、奥様書道と生けプロ息子さんが数寄屋exit(「すきや」と読む。茶室のこと)を作る大工さんが美容師である(この記事exitが資料)


ヤマハを退職した後は京都に引っ越された。2013年10月にヴァレンティーノ・ロッシが京都に行き、古沢さんご夫妻と会っているexit

ドゥカティフィリッポ・プレツィオージexitとはメーカーの垣根を越えた友人で、何回か会っている。「ドゥカティに来ませんか」とも誘われたらしい。
 

性格

率直

回りくどい言い回しを好まず、率直に物言いする。

『経歴』の項の中段あたりに、100人をえる部下とそれぞれ個別に面談をしたときのことが書かれている。古沢さんは部下に対して「君のやり方は間違っていた。だから10年、ヤマハは時間を駄にしてきたんだ」とキッパリはっきり率直に物を言っていた。そのため部下の一部から嫌われ、陰口をかれたこともあったらしい。

このように、キッパリはっきりと物申す、というのはいかにも科学者気質と言える。
 

正直

古沢さんは実で実直、率直で正直であり、からも好感を持たれる素晴らしい人格の持ちである。

・・・ただし、初めてレース興味を持ったのが52歳という方なので、レース業界に染まった人なら決してやらないようなことをポロッとやってのけることがある。

2010年にはメディアに対して「ロッシとロレンソのどっちかを取れと言われたら、ロッシを取りますexit」と正直に言ってしまっている。リン・ジャーヴィスexitがいつもやっているようにメディアの取材なんぞ適当にあしらっておけば良いのに、古沢さんはメチャクチャ正直に社内方針を喋ってしまうのである。

2012年7月には、日本人ジャーナリスト西村章さんの取材に対し、フィリッポ・プレツィオージと密会したことをあらいざらい正直に言ってしまっているexit。「イタリアにはパン工場を見学しに行きました」とかなんとか適当なことを言って、ドゥカティの体面を傷つけないように配慮すれば良かったのに、古沢さんは正直に喋ってしまうのである。※ちなみに、フィリッポ・プレツィオージは「驚きましたよ・・・フルサワサンが喋っちゃうとは思いませんでしたexit」と語っている

何十年もレース業界で生きているとメディアを煙に巻くことばかり考えてしまうものだが、古沢さんはそれとはちょっと違う人なのであった。
 

経歴

小倉生まれ、空手に打ち込む

1951年2月17日福岡県小倉現在福岡県北九州市小倉北区exit)で生まれた。

ちなみに、ヴァレンティーノ・ロッシ誕生日2月16日で、一日違いである。

中学生の時からバイク好きで、14歳の時に学校先生からバイクを購入している。今ならどう考えても違法なのだが、古き良きおおらかな時代だったのである。


高校生時代は航空工学興味があったので、航空工学を学ぶため東大工学部受験しようと思っていた。ところが古沢受験生時代は1969年2月で、学生紛争exitっ盛りの頃であり、東大入学試験すら行うことができなかった。仕方ないので東大受験を諦め、地元の九州工業大学に行き、そこで機械工学を学ぶことにした。

古沢本人は、学生時代は勉強よりも遊ぶことが好きだったと語っている。

ちなみに古沢は本人の言うとおり体育会系の人で、高校の頃に水泳をやっていたが、それに加えて空手をするようになった。大学に入ってから空手に打ち込むようになり、2年の時に黒帯を取得した(初段以上の有段者になった)。大学の時に出た大会で、自分が初段なのに相手が四段だったが、見事に打ち負かすことができて、嬉しい思い出となった。ヤマハに就職した後も空手を続け、子供への導も行っていたという。


※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba104106ページ、88ページCrash.net記事exit
  

航空機業界を諦めてヤマハに就職する

大学にいた頃も航空工学への憧れがあり、航空機産業へ就職しようと思っていたが、日本航空機産業はGHQアメリカ軍体とした占領軍)によって解体させられて弱体化しており、いい就職口がなかった。

そのころ日本バイク産業は世界を席巻する地位を築き上げていた。もともとバイクを乗り回していた古沢は、バイク産業に興味を抱くようになり、ヤマハ発動機に就職することを決めた。ちなみに、古沢が就職した1973年当時のバイク業界は、ホンダが業界1位ヤマハが業界2位という序列になっていた。「業界1位ホンダを負かすことができれば、面いだろう」という理由でヤマハ入りを決めたという。


※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba108ページ
 

会社で数学とコンピュータを学ぶ

就職したての1973年のころ、バイクの振動問題に取り組む部署に回された。振動問題を解決するに当たって数学の重要性を理解するようになり、会社に勤めながら2年間ほど数学勉強した。

さらには、仕事を口実に電子工学の本を読むようになり、CAE(computer aided engineering コンピュータで予測しつつ設計すること)exitに強い興味を持つようになった。これは1950年代に米国ボーイング社が開発した手法である。

CAE導入のため、渡して本格的に学習することも検討したが2年もかかるため上に反対された。しかしり強く交渉し、「4~5ヶの研修なら、許可してやる」と上に言われたので、1981年に渡し、オハイオシンシナティにあるSDRC(Structural Dynamics Research Corporation。2001年にドイツのシーメンス社に買収された)exitという企業に出向し、RZ250というバイクの振動問題を解決するための研修をした。

数学コンピュータというのは、その後の古沢人生において、大いなる助力となった。

※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba107108ページ
  

バイク部門のトラブル解決役の仕事をこなしつつ、振動解析のソフトを開発する

1973年の就職から1990年代初頭まで、古沢政生はヤマハ発動機の中でバイクに関する仕事をしていた。フレームの設計、エンジンの設計などなんでもやったという。

古沢が設計したバイクの1つは、RZ250exitという2ストロークである。

優秀な人なので、トラブルが起こったときの解決役として、色んな部署に送り込まれていた。

バイクに関してなら何でも出来る人なのだが、技術者として最も手柄を立てたのが、振動解析の仕事だった。振動解析のソフトウェア開発し、外にも売り込みに行ったが好評だった。1989年には米国で1本1万ドルで販売、結局150本売れて、150ドルの売り上げになった。

この世に存在する機械というものには振動が付きものである。機械を製造する企業にとって、振動解析のソフトウェアは重宝するものだった。特に、自動車企業によく売れたという。

振動解析のソフトの売り上げは1円たりとも古沢の収入にはならなかったが、自分の部署の研究開発の予算になった。この時代の150ドルは大きかった。研究には予算が要るのだが、古沢の部署は予算潤沢ではなかったのである。

※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba96ページcrash.net記事exit
 

スノーモービル部門に異動して手柄を立て、オートバイの部署に舞い戻る

1992年のある日、振動解析ソフト販売の海外出張から帰ってみると自分のに他の人が座っている。「古沢君、キミは異動になったんだ」と上にいきなり告げられた。ここらへんの「いきなり異動を命じられる」というのは、いかにも大企業らしいところである。

スノーモービルexit部門に移った古沢は、得意のコンピュータで、設計の効率を改善した。古沢にはスノーモービルの設計が上手くいっていないように感じたのである。

スノーモービル部門に移って気付いたことは、部署内の連絡が不十分だと言うことだった。このため古沢は色々工夫して、連絡が円滑に行われるようにした。当時のスノーモービル部門は、北海道士別市この場所exitにあるテストコースへの出張が多かったが、その出張の実態を上把握できないという欠点があった。このため古沢は、部下にデジタルカメラを持たせ、活動報告の撮をさせ、パソコンとモデムを使って電話回線を通じて士別市から磐田市の本社まで画像を送らせるようにした(いわゆるパソコン通信である)。インターネットい時代において、最先端の情報通信技術を取り入れたのである。

そういう工夫をしながら、古沢自らエンジンやシャーシの設計を見直した。1996年にはチーム監督としてスノーモービル世界選手権に出場までしている。

こうしてスノーモービル部門で頑っていると、2001年にRV事業部長へ昇格した。RVとはRecreation Vehicle(娯楽用乗り物)の意味で、スノーモービル全地形対応車(ATV)exitを含んでいる。


2001年5月にはようやくMC事業本部に戻ることになった。MCとは、Motorcycleオートバイ)からMとCを取った略称で、MC事業本部はオートバイを取り扱うヤマハ発動機の中核部署である。

2002年は、MC事業本部の技術開発室で、開発仕事をしていた。

※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba97~100ページRacers vol.14exit_nicoichibaの5ページ
  

人生で初めてレースを観戦する

2003年まで、古沢オートバイレースに関して全く興味も関心もかった。オートバイレースを観戦したこともかった。オートバイレース部門に対しては、次のような印を抱いていたという。

レース興味を持てなかったのは、そこで仕事をしている人のやり方にどうにも納得できないものを感じていたからです。レース関連の人たちは、なんだかわけのわからないことに膨大な予算を投入して湯のように金を浪費しているようにしか見えなかった。自分はいつも研究開発の予算確保に々としていた」

そんな気持ちがあったところに、自分の率いる技術開発室の作り上げた技術が、MotoGPマシンで使われたと聞いた。そこで、人生で初めてレースの観戦をすることにした。それは、2003年4月6日日本GPだった。袋井市の自宅からスバル銀色のレガシィexit)に乗り、鈴鹿サーキットまで行く。このときの古沢レース部門に所属していないのでパドックにもピットにも入れない。普通の観戦券を持ってスタンドに座った。

午前の走行朝のウォームアップ)が始まっても、古沢は白いと感じず、退屈していた。「そのうち、白く感じるかな」と思って観戦を続けていると、なんとヤマハ所属のアレックス・バロスが転倒した。この転倒は、左膝靱帯を痛めるもので、長期にわたってアレックス・バロスを苦しめるものとなった。

そして午後2時になって、最大排気量クラスの決勝レースが始まった。そのレースの中で、加藤大治郎が大転倒を喫し、ドクターヘリ四日市市三重県立総合医療センターに運ばれていった。

初めて観たレースで、深刻な転倒事故が2つも続いた。このときから古沢は「レースバイクの挙動について、もっと学ばなければならない」と考えるようになったという。

この日本GPで、ヤマハ勢は不振に終わった。日本メーカーにとって鈴鹿サーキットは日ごろからテストを繰り返していて走行データ豊富にあり、極めて有利な場所である。それなのにヤマハは最高位が8位で、新参者海外メーカードゥカティに3位と5位を奪われるという悪夢のような結果だった。それどころか、アプリリアのコリン・エドワーズが7位に入っている。

これにより、ヤマハ社長MotoGPの総責任者を交替させることを決意した。その後任として、古沢政生に白羽の矢が立ち、古沢もあっさりと承諾した。

このとき、MotoGPの総責任者になることを依頼されてすぐ承諾した人物がおらず、古沢だけが二つ返事で承諾した。も、劣勢のMotoGP活動に関わりたくなかったのであろう。


※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba15ページ、91~95ページ135ページ
 

2003年にMotoGP総責任者に就任 人事に手を付ける

2002年頃にMC事業本部の技術開発室のリーダーになり、2003年5月1日MotoGP責任者を兼ねるようになった。

このとき、古沢ヤマハの問題がはっきり分かった。部署間の連絡が全くもって不十分だったのである。

開発部門と、MotoGP開発部門が全く連携していなかった。情報共有もしようとしていなかった。開発部門は4ストロークエンジンバイクを作り慣れているので、MotoGP開発部門は開発部門のところへ行って教えを乞いにいけばいいのに、全くそうしなかったという。

嫉妬心や保身というものが、両部門にあったのかもしれない。


このため、古沢は部下全員と会うことにした。1人につき15分の時間を割り当て、100人をえる部下全員と面談をするのである。

「君のやり方は間違っていた。だから10年、ヤマハは時間を駄にしてきたんだ」などとキツイことを単直入にずけずけ言ってのけたので、技術者達の反感を相当に浴びたらしいが、それでも古沢は面談をこなし、部下達の意識を変えることに努めた。

それに加え、人的資の再配置を進めた。適材適所して、人の入れ替えを行っていったのである。こうした人事異動は、スノーモービル部門で散々経験したことだった。そのときの経験が生きたのである。


面談を繰り返すうちに、古沢ヤマハ技術者の覇気が乏しいと感じるようになった。1993年から2002年まで10年連続で負け続け、2003年はさらに落ちぶれている(2003年ヤマハ営の最高成績が3位、表台獲得は3位1回のみ)。彼らに覇気を与えるため、何か活性剤を入れなければならない。

そこに「ヴァレンティーノ・ロッシを獲りに行きましょう」と進言してきたのが、チーム監督ダヴィデ・ブリヴィオだった。

古沢は、ヴァレンティーノ獲得の資金が膨大な物になると予想し、ダヴィデの進言に対して即答できかねたが、最終的にはダヴィデの進言に従い、ダヴィデを中心にヴァレンティーノを引き抜くことにした。

ダヴィデは引き抜きの名人なので、とうとうヴァレンティーノ獲得を成功させてしまった。この引き抜きがヤマハ躍進の原動力となった。

ヴァレンティーノ獲得のためにはずいぶんと金がかかった。梶川隆 専務(次期ヤマハ社長に内定)exit古沢は次のようなやりとりをしたという。

ヴァレンティーノ・ロッシがウチに来るのかね。それは素晴らしい

古沢「彼は年棒1,000万ドルを2年要しています」

「・・・この話はかったことにしよう」

古沢「しかし、々は勝たねばなりません」

「・・・しょうがないな」

古沢「交渉の際、金額の理解に行き違いがありました。ロッシ側はドルではく、ユーロで払えと言っています。つまり年棒1,000万ユーロを2年要しています」

2003年7月1日において1ドル119円、1ユーロ137円。1,000万ドルより1,000万ユーロの方が価値が高く、円換算にすると1.15倍になる


「・・・この話はかったことにしよう」

古沢「しかし、々は勝たねばなりません」

「・・・しょうがないな」

どうだろう、この緊迫感のある会話。梶も古沢政生も、巨額のお金を動かすストレスと戦ったのである。

ヤマハ発動機は、2005年に創業50周年の節を迎えることになっていた。その2005年には是非ともMotoGPチャンピオンを獲得したい、という思惑があった。そのため、古沢の要があっさり通っていった。

2003年古沢が動かしたお金の総額は6,000万ユーロに上ったという。このページexitには2003年ドルユーロの変遷が書かれており、それを参考にするとだいたい1ユーロ130円と思っていいだろう。つまり、78億円ほどを動かした。こんな巨額の予算を扱ったことは古沢にとって人生初めての経験だった。


※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba135136ページ138145ページ、179~183ページ
 

マシンに手を付ける

マシンに対しても、古沢は手を付けた。

2003年マシンの走りを見ると、何かがおかしい。古沢考察を重ね、「マシン根本であるエンジンに問題がある」と破し、そのため、エンジンで最も重要な部分であるクランクを改善しようと考えた。そこで導入したのが、クロスプレーン・クランクシャフトexitである。

クロスプレーン・クランクシャフトを使うと不等間隔爆発エンジンビッグバンになる。

ちなみに、2003年以前までずっと使っていたのはシングルプレーン・クランクシャフトで、こちらは等間隔爆発エンジン(スクリーマー)という。

クロスプレーン・クランクシャフトシングルプレーン・クランクシャフトの違いについては、この本exit_nicoichibaの31ページイラスト解説がある。



また、4バルブシリンダヘッドエンジンにしようと考えた。長らくヤマハは5バルブシリンダヘッドエンジンを使っていたので技術者達の抵抗・反論が強かった。そこで古沢が持ち出したのは、得意のコンピュータであった。CAE(computer aided engineering コンピュータで予測しつつ設計すること)exit技術者達に説明をしていった。当時のヤマハMotoGP部門はCAEにあまり触れておらず、新しい方法を導入したのである。


2004年初頭のテスト古沢は四種類のエンジンを持ち込んだ。

古沢政生は内心、一番上の「クロスプレーン・クランクシャフト 4バルブシリンダヘッド」で間違いない、と思っていたが、やはりライダーが決めるのが一番良い。そこでヴァレンティーノ・ロッシに乗ってもらった。やはり、ヴァレンティーノも古沢と同じく「クロスプレーン・クランクシャフト 4バルブシリンダヘッド」を選んだ。

2005年には、前年までのカムチェーンに代えて、カムギトレインへの変更を果たした。この変更も古沢が提唱した。

こうした技術革新が身を結び、2004年のヴァレンティーノは9勝、2005年は11勝を挙げ、大成功を収めた。


※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba148160ページ288ページロッシのコーナーリング本exit_nicoichiba91ページロッシ自叙伝exit_nicoichiba191~194ページ
  

2006年と2007年はMotoGPからすこし距離を置く

勝の2連覇を果たした後、2006年2007年の古沢政生は少しMotoGPから距離を置くことにした。そうして、研究開発仕事を進めることにした。研究開発こそが古沢にとって本当にやりたがった仕事であり、なおかつ、ヤマハ社内での評価も高い仕事だったからである。

ところが2006年2007年ヴァレンティーノ・ロッシはいずれもチャンピオンを逃してしまった。2006年は僅差のランキング2位2007年126ポイントも離されたランキング3位になった。

このためヴァレンティーノ・ロッシヤマハに対して「フルサワを呼び戻せ!」と猛抗議し、結局古沢2008年からMotoGP仕事重を増やし、開発重を減らしたのである。

※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba246ページ252ページ322ページ ロッシのコーナーリング本exit_nicoichiba93ページ
 

2008年と2009年は現場復帰、電子制御の開発が進み連覇

2008年2009年ヴァレンティーノ・ロッシが連覇を果たした。

この2年の躍進の原動力は、アンドレア・ズーニャという天才技術者が構築した電子制御である。アンドレア・ズーニャは古沢政生が引っってきてじっくり育成した人物である。

また2007年から燃料が21リットルとかなり少なくなった。古沢エンジン技術者に対して「可な限り、エンジン内部のロスを減らし、少ない燃料でもパワーが出るようにせよ」と示を出し、技術者達もその示にしっかり応えた。


※この項の資料・・・ ロッシのコーナーリング本exit_nicoichiba94ページ
 

2010年をもって引退

2010年限りで、ヴァレンティーノ・ロッシヤマハを退団し、ドゥカティワークスへ移籍することが決まった。

2011年2月17日に古沢政生は60歳になり、定年退職してもいい年となる。それゆえ、2010年をもって古沢政生も引退することにした。ヤマハ発動機社長からも慰留があったが、丁重に断った。

しかし、ヴァレンティーノ・ロッシヤマハに残留した場合は、あと2年だけ残留するつもりだったという。

※この項の資料・・・crash.net記事exitmotorionline.com記事exitヤマハワークス内情本exit_nicoichiba67ページ
 

京都で隠退生活を送る

引退した古沢政生は、袋井市から京都市へ転居した。

もともと古沢芸術興味があり、「レオナルド・ダ・ビンチが好き」「絵を描くことは昔から好き」「アメリカ合衆国出張したときボストン美術館に寄って浮世絵を見た」「レースの合間に美術館へ行く」などと語っている。そのため、さまざまな彫像・美術品・建築物が存在する京都に惹かれたのだろう。

京都で、振動解析のコンサルタント企業を設立している。そのウェブサイトこちらexitである。この技術者紹介サイトexit自己紹介もしている。

※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本exit_nicoichiba106ページ
  

ヤマハワークス在籍時代の部下

1957年頃生まれ。

1986年に、MC事業本部に属するMS開発に入った。MC事業本部Motorcycleオートバイ)からMとCを取って名付けられた部署で、オートバイを扱うヤマハ中枢の部署。MS開発Motor Sportsモータースポーツ)からMとSを取って名付けられた部署で、ヤマハの二輪レース活動を仕切っている形の部署。「中枢の部署の中の、形部署に入った」という意味になる。

MC事業本部」も「MS開発」も、ヤマハ技術者の肩書きによく出てくる名前である。このページexitにも、あるいはこの記事exitにも、技術者の肩書きにそれらの名前が付いている。


長らくヤマハテクニカルスタッフマシンのことをすべて理解したうえでライダーの相談に乗る人。マライダーの不不満を整理して、開発部門に伝える)を務めていたようで、1990年代前半はウェイン・レイニーを担当していた。

2003年5月の時点でMotoGPから離れていたが、古沢政生により呼び戻された。


古沢政生退任後は、ヤマハの総監督という立ち位置だった。2015年鈴鹿8耐のヤマハワークスピットにも来ていた。

2017年で60歳を迎えた。

ヤマハの公式サイトの記事はこちらexitレースが終わるごとにベン・スピーズexitに呼ばれ、長々と愚痴を聞かれて、それを受け止める・・・そういう立ち位置の人だったことがよく分かる。

2012年ベン・スピーズトラブルにたびたび見舞われ、惨憺たる結果に終わっていた。本人は必死に頑るのだが、死神にとりつかれたのか、トラブルが続いたのである。

ちょうどそのイタリアGPでヤマハ本社からやってきたある人に「ラグナセカで100%の走りをしないのなら、もう二度と姿を見せるな」と言われたという。その人はヤマハの偉い人で、レースに対する情熱の熱きあまりつい言ってしまったようだが、さすがにベン・スピーズも頭に来たらしい。2012年シーズンをもってヤマハを離れると表明した直後、Crash.netに向けて暴露しているexit

ただ、そんなベン・スピーズも、中島さんには感謝の言葉を述べている。「ヤマハの95%の人は自分に良くしてくれた。ナカジマも親切にしてくれた。嫌なのは上層部の1人だけだったexit

ちなみに余談ながら、2012年ベン・スピーズの災難はヤマハ離脱を決めた後も続いた。

これについてジェレミー・バージェスコメントベン・スピーズが葬儀屋を開いたら、誰も死ななくなるだろうexit

ジェレミーは笑い話にしているが、シャーシ破損だのスイングアーム破損だのというのを見ると笑えない。絶対に破損しては困るような部品が破損している。ベン・スピーズに文句を言ったヤマハ最上層部の人は、装束を着るべきであろう。
 

ヤマハ開発の中心人物。技術者としての専門分野はシャーシである。ちなみに、「ヤマハはシャーシが良い」という評判が高い。

1953年8月26日生まれ。1976年ヤマハへ入社し、すぐにレース部門に所属した。現役時代のケニー・ロバーツ・シニアエディ・ローソンと一緒に仕事をしている。

1984年から1993年頃まで約10年間、MotoGPを離れ、TT-F1などのレース開発を担当した。

2003年5月の時点でMotoGPから離れていたが、古沢政生により呼び戻された。

2004~2012年の間は、ピットにいる姿や、スターティンググリッドで心配そうにしている姿をたびた際映像に映されていた。

2013年8月26日に定年を迎えた。どうやら再雇用されたらしく、コーポレートコミュニケーション部の所属になり、歴史あるレース車両の維持管理を担当しているexit

2018年8月26日に65歳となり、ヤマハ卒業となった。


この本exit_nicoichibaの58~83ページで現役時代の秘話を色々喋っている。ケニー・ロバーツ・シニアエディ・ローソンの文句を浴びつつ仕事をしていたという。

この本exit_nicoichibaの53ページで、ヴァレンティーノ・ロッシにちょっと面いことを暴露されてしまっている。
 

ヤマハ開発の中心人物。技術者としての専門分野はエンジンである。

ヤマハは、1993~1996年の四年間、V10気筒のエンジンを作ってティレルというF1チームexitに供給していた。そのときのエンジン開発の一員だった。

ヤマハトヨタと資本関係を持っており、トヨタF1参戦するときには技術協力をする。トヨタF1参戦したのは2002年から2009年のことだが、その最初期にさんも手伝いをしており、トヨタ技術者との人脈を持っている。

2003年10月1日からMotoGPエンジン開発にまわり、古沢政生の部下となった。ヤマハワークス内情本exit_nicoichibaにもしばしば名前が出ている(243~245ページ、249~252ページ255256ページ

2015年頃にはすでにヤマハワークスの中で開発責任者になっていた。その当時はヴァレンティーノ・ロッシホルヘ・ロレンソの共存時代だったが、ホルヘ・ロレンソに「ツジはチームのところに来ない。ヴァレンティーノのところにばかり行く」と文句を言われている。

雑誌インタビューにも頻出する(記事1exit記事2exit記事3exit記事4exit

2019年現在ヤマハワークスの総責任者という立ち位置になっている。

カメラを持ってウロウロしている姿がしばしば撃されている(画像1exit画像2exit)。何を盗撮するつもりであろうか・・・
  

ヴァレンティーノ・ロッシ引き抜きを導した功労者である。2010年シーズン末、古沢政生やヴァレンティーノ・ロッシと同時にヤマハを退職していった。
 

振動解析のソフトを作って発表したら古沢政生に名を覚えられ、ヤマハに入社した。電子制御の分野の天才で、2008から2010年までのヤマハ三連覇に多大な貢献をした。
 

2001年ヤマハワークスプロジェクトリーダーになっていた。古沢政生とは、2003年2004年の2年間仕事をした。2004年シーズン末にヤマハを退職し、カワサキに引き抜かれていった。2019年現在カワサキバイクレース活動における中心人物である。
 

関連商品

ニコニコ市場は2023年11月に終了しました。 ヴァレンティーノ・ロッシ写真がデカデカと表に掲げられているが、本の中身は20032010年ヤマハワークスの内情を綿密に記すものである。古沢政生さんが主人公の本と言っていい。
ニコニコ市場は2023年11月に終了しました。 ヴァレンティーノ・ロッシファン向けの本で、3分の1はヴァレンティーノのコーナーリング技術論が記され、3分の1は2001年から2009年までヴァレンティーノが跨がったマシン解説、最後の3分の1は付録みたいなもの。

89ページから95ページまで古沢政生さんのインタビューが収録されている。
ニコニコ市場は2023年11月に終了しました。 2004年チャンピオン獲得を特集した本。マシン解説がやたらと細かくて詳しい。2003年当時の混迷もしっかり記述されている。
ニコニコ市場は2023年11月に終了しました。 2005年頃に書かれたヴァレンティーノ・ロッシの自叙伝。2003年ヤマハ移籍の内情や、2004年シーズン前のテストにおける情報戦など、20032004年前半の出来事を詳しく著述している。

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