古沢政生
とは、かつてヤマハに所属していた技術者である。
古澤政生と書くのが正式な名前だが、常用漢字を用いた古沢という表記が多く、表記揺れが起こっている。
2003年から2010年まで、MotoGPにおけるヤマハのレース活動の指揮をとっていた。
現在は京都府内に住み、隠退生活を送っている。
ヴァレンティーノ・ロッシが「フルサワサンはバイクのことを本当によく知っている」と信頼していた人物。ロッシと古沢さんの対談動画もある
。
ピットで黒いサングラスを付けていた姿
は貫禄たっぷりであった。
2002年まではレースについては素人で、レースを観戦したことすらなかった。
2003年から2010年までヤマハのMotoGPの中心人物だった。とはいえ、2006年と2007年はMotoGPからすこし離れていた。彼が離れた途端にヤマハが負けるようになり、ロッシが「フルサワを呼び戻せ!」と猛クレームを付けたという。
2010年シーズン末をもって引退し、2011年4月にヤマハを定年退職した。趣味をやりたいから引退した。バイク、車、スノーモービル
、全地形対応車(ATV)
、マリンジェット
、海釣り、彫刻、絵画、漫画・・・趣味が多い。マツダ・ロードスターという白いオープンカー
を改造して遊ぶのも趣味の1つ。ヤマハのRZ250
(自身が設計に関わったバイク)も好き放題に改造する。レースなどやっていると趣味の時間が完全になくなってしまう。
2011年のオランダGPに、奥様が和服姿でピットに来ており、表彰式の直後に国際映像に映っていた。
ちなみに古沢家は芸術・美術に傾倒している家であるらしく、奥様が書道と生け花のプロ、息子さんが数寄屋
(「すきや」と読む。茶室のこと)を作る大工、娘さんが美容師である(この記事
が資料)
ヤマハを退職した後は京都に引っ越された。2013年10月にヴァレンティーノ・ロッシが京都に行き、古沢さんご夫妻と会っている
。
ドゥカティのフィリッポ・プレツィオージ
とはメーカーの垣根を越えた友人で、何回か会っている。「ドゥカティに来ませんか」とも誘われたらしい。
回りくどい言い回しを好まず、率直に物言いする。
『経歴』の項の中段あたりに、100人を超える部下とそれぞれ個別に面談をしたときのことが書かれている。古沢さんは部下に対して「君のやり方は間違っていた。だから10年、ヤマハは時間を無駄にしてきたんだ」とキッパリはっきり率直に物を言っていた。そのため部下の一部から嫌われ、陰口を叩かれたこともあったらしい。
このように、キッパリはっきりと物申す、というのはいかにも科学者気質と言える。
古沢さんは誠実で実直、率直で正直であり、誰からも好感を持たれる素晴らしい人格の持ち主である。
・・・ただし、初めてレースに興味を持ったのが52歳という方なので、レース業界に染まった人なら決してやらないようなことをポロッとやってのけることがある。
2010年にはメディアに対して「ロッシとロレンソのどっちかを取れと言われたら、ロッシを取ります
」と正直に言ってしまっている。リン・ジャーヴィス
がいつもやっているようにメディアの取材なんぞ適当にあしらっておけば良いのに、古沢さんはメチャクチャ正直に社内方針を喋ってしまうのである。
2012年7月には、日本人ジャーナリスト西村章さんの取材に対し、フィリッポ・プレツィオージと密会したことをあらいざらい正直に言ってしまっている
。「イタリアにはパン工場を見学しに行きました」とかなんとか、適当なことを言って、ドゥカティの体面を傷つけないように配慮すれば良かったのに、古沢さんは正直に喋ってしまうのである。※ちなみに、フィリッポ・プレツィオージは「驚きましたよ・・・フルサワサンが喋っちゃうとは思いませんでした
」と語っている
何十年もレース業界で生きているとメディアを煙に巻くことばかり考えてしまうものだが、古沢さんはそれとはちょっと違う人なのであった。
1951年2月17日、福岡県小倉市(現在の福岡県北九州市小倉北区
)で生まれた。
ちなみに、ヴァレンティーノ・ロッシの誕生日は2月16日で、一日違いである。
中学生の時からバイク好きで、14歳の時に学校の先生からバイクを購入している。今ならどう考えても違法なのだが、古き良きおおらかな時代だったのである。
高校生時代は航空工学に興味があったので、航空工学を学ぶため東大工学部を受験しようと思っていた。ところが古沢の受験生時代は1969年2月で、学生紛争
真っ盛りの頃であり、東大は入学試験すら行うことができなかった。仕方ないので東大受験を諦め、地元の九州工業大学に行き、そこで機械工学を学ぶことにした。
古沢本人は、学生時代は勉強よりも遊ぶことが好きだったと語っている。
ちなみに古沢は本人の言うとおり体育会系の人で、高校の頃に水泳をやっていたが、それに加えて空手をするようになった。大学に入ってから空手に打ち込むようになり、2年の時に黒帯を取得した(初段以上の有段者になった)。大学の時に出た大会で、自分が初段なのに相手が四段だったが、見事に打ち負かすことができて、嬉しい思い出となった。ヤマハに就職した後も空手を続け、子供への指導も行っていたという。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
104~106ページ、88ページ、Crash.net記事
大学にいた頃も航空工学への憧れがあり、航空機産業へ就職しようと思っていたが、日本の航空機産業はGHQ(アメリカ軍を主体とした占領軍)によって解体させられて弱体化しており、いい就職口がなかった。
そのころ日本のバイク産業は世界を席巻する地位を築き上げていた。もともとバイクを乗り回していた古沢は、バイク産業に興味を抱くようになり、ヤマハ発動機に就職することを決めた。ちなみに、古沢が就職した1973年当時のバイク業界は、ホンダが業界1位でヤマハが業界2位という序列になっていた。「業界1位のホンダを負かすことができれば、面白いだろう」という理由でヤマハ入りを決めたという。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
108ページ
就職したての1973年のころ、バイクの振動問題に取り組む部署に回された。振動問題を解決するに当たって数学の重要性を理解するようになり、会社に勤めながら2年間ほど数学を勉強した。
さらには、仕事を口実に電子工学の本を読むようになり、CAE(computer aided engineering コンピュータで予測しつつ設計すること)
に強い興味を持つようになった。これは1950年代に米国ボーイング社が開発した手法である。
CAE導入のため、渡米して本格的に学習することも検討したが2年もかかるため上司に反対された。しかし粘り強く交渉し、「4~5ヶ月の研修なら、許可してやる」と上司に言われたので、1981年に渡米し、オハイオ州シンシナティにあるSDRC(Structural Dynamics Research Corporation。2001年にドイツのシーメンス社に買収された)
という企業に出向し、RZ250というバイクの振動問題を解決するための研修をした。
数学とコンピュータというのは、その後の古沢の人生において、大いなる助力となった。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
107~108ページ
1973年の就職から1990年代初頭まで、古沢政生はヤマハ発動機の中でバイクに関する仕事をしていた。フレームの設計、エンジンの設計などなんでもやったという。
古沢が設計したバイクの1つは、RZ250
という2ストローク市販車である。
優秀な人なので、トラブルが起こったときの解決役として、色んな部署に送り込まれていた。
バイクに関してなら何でも出来る人なのだが、技術者として最も手柄を立てたのが、振動解析の仕事だった。振動解析のソフトウェアを開発し、外国にも売り込みに行ったが好評だった。1989年には米国で1本1万ドルで販売、結局150本売れて、150万ドルの売り上げになった。
この世に存在する機械というものには振動が付きものである。機械を製造する企業にとって、振動解析のソフトウェアは重宝するものだった。特に、自動車企業によく売れたという。
振動解析のソフトの売り上げは1円たりとも古沢の収入にはならなかったが、自分の部署の研究開発の予算になった。この時代の150万ドルは大きかった。研究には予算が要るのだが、古沢の部署は予算潤沢ではなかったのである。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
96ページ、crash.net記事
1992年のある日、振動解析ソフト販売の海外出張から帰ってみると自分の机に他の人が座っている。「古沢君、キミは異動になったんだ」と上司にいきなり告げられた。ここらへんの「いきなり異動を命じられる」というのは、いかにも大企業らしいところである。
スノーモービル
部門に移った古沢は、得意のコンピュータで、設計の効率を改善した。古沢の目にはスノーモービルの設計が上手くいっていないように感じたのである。
スノーモービル部門に移って気付いたことは、部署内の連絡が不十分だと言うことだった。このため古沢は色々工夫して、連絡が円滑に行われるようにした。当時のスノーモービル部門は、北海道の士別市のこの場所
にあるテストコースへの出張が多かったが、その出張の実態を上司が把握できないという欠点があった。このため古沢は、部下にデジタルカメラを持たせ、活動報告の撮影をさせ、パソコンとモデムを使って電話回線を通じて士別市から磐田市の本社まで画像を送らせるようにした(いわゆるパソコン通信である)。インターネットが無い時代において、最先端の情報通信技術を取り入れたのである。
そういう工夫をしながら、古沢自らエンジンやシャーシの設計を見直した。1996年にはチーム監督としてスノーモービルの世界選手権に出場までしている。
こうしてスノーモービル部門で頑張っていると、2001年にRV事業部長へ昇格した。RVとはRecreation Vehicle(娯楽用乗り物)の意味で、スノーモービルや全地形対応車(ATV)
を含んでいる。
2001年5月にはようやくMC事業本部に戻ることになった。MCとは、Motorcycle(オートバイ)からMとCを取った略称で、MC事業本部はオートバイを取り扱うヤマハ発動機の中核部署である。
2002年は、MC事業本部の技術開発室で、市販車の開発の仕事をしていた。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
97~100ページ、Racers vol.14
の5ページ
2003年まで、古沢はオートバイレースに関して全く興味も関心も無かった。オートバイのレースを観戦したことも無かった。オートバイのレース部門に対しては、次のような印象を抱いていたという。
「レースに興味を持てなかったのは、そこで仕事をしている人のやり方にどうにも納得できないものを感じていたからです。レース関連の人たちは、なんだかわけのわからないことに膨大な予算を投入して湯水のように金を浪費しているようにしか見えなかった。自分はいつも研究開発の予算確保に汲々としていた」
そんな気持ちがあったところに、自分の率いる技術開発室の作り上げた技術が、MotoGPのマシンで使われたと聞いた。そこで、人生で初めてレースの観戦をすることにした。それは、2003年4月6日の日本GPだった。袋井市の自宅からスバルの車(銀色のレガシィ
)に乗り、鈴鹿サーキットまで行く。このときの古沢はレース部門に所属していないのでパドックにもピットにも入れない。普通の観戦券を持ってスタンドに座った。
午前の走行(朝のウォームアップ)が始まっても、古沢は面白いと感じず、退屈していた。「そのうち、面白く感じるかな」と思って観戦を続けていると、なんとヤマハ所属のアレックス・バロスが転倒した。この転倒は、左膝靱帯を痛めるもので、長期にわたってアレックス・バロスを苦しめるものとなった。
そして午後2時になって、最大排気量クラスの決勝レースが始まった。そのレースの中で、加藤大治郎が大転倒を喫し、ドクターヘリで四日市市の三重県立総合医療センターに運ばれていった。
初めて観たレースで、深刻な転倒事故が2つも続いた。このときから古沢は「レース用バイクの挙動について、もっと学ばなければならない」と考えるようになったという。
この日本GPで、ヤマハ勢は不振に終わった。日本メーカーにとって鈴鹿サーキットは日ごろからテストを繰り返していて走行データが豊富にあり、極めて有利な場所である。それなのにヤマハは最高位が8位で、新参者の海外メーカー・ドゥカティに3位と5位を奪われるという悪夢のような結果だった。それどころか、アプリリアのコリン・エドワーズが7位に入っている。
これにより、ヤマハの社長はMotoGPの総責任者を交替させることを決意した。その後任として、古沢政生に白羽の矢が立ち、古沢もあっさりと承諾した。
このとき、MotoGPの総責任者になることを依頼されてすぐ承諾した人物がおらず、古沢だけが二つ返事で承諾した。誰も、劣勢のMotoGP活動に関わりたくなかったのであろう。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
15ページ、91~95ページ、135ページ
2002年頃にMC事業本部の技術開発室のリーダーになり、2003年5月1日にMotoGP総責任者を兼ねるようになった。
このとき、古沢はヤマハの問題がはっきり分かった。部署間の連絡が全くもって不十分だったのである。
市販車の開発部門と、MotoGPの開発部門が全く連携していなかった。情報共有もしようとしていなかった。市販車開発部門は4ストロークエンジンのバイクを作り慣れているので、MotoGP開発部門は市販車開発部門のところへ行って教えを乞いにいけばいいのに、全くそうしなかったという。
嫉妬心や保身というものが、両部門にあったのかもしれない。
このため、古沢は部下全員と会うことにした。1人につき15分の時間を割り当て、100人を超える部下全員と面談をするのである。
「君のやり方は間違っていた。だから10年、ヤマハは時間を無駄にしてきたんだ」などとキツイことを単刀直入にずけずけ言ってのけたので、技術者達の反感を相当に浴びたらしいが、それでも古沢は面談をこなし、部下達の意識を変えることに努めた。
それに加え、人的資源の再配置を進めた。適材適所を目指して、人の入れ替えを行っていったのである。こうした人事異動は、スノーモービル部門で散々経験したことだった。そのときの経験が生きたのである。
面談を繰り返すうちに、古沢はヤマハの技術者の覇気が乏しいと感じるようになった。1993年から2002年まで10年連続で負け続け、2003年はさらに落ちぶれている(2003年はヤマハ陣営の最高成績が3位、表彰台獲得は3位1回のみ)。彼らに覇気を与えるため、何か活性剤を入れなければならない。
そこに「ヴァレンティーノ・ロッシを獲りに行きましょう」と進言してきたのが、チーム監督のダヴィデ・ブリヴィオだった。
古沢は、ヴァレンティーノ獲得の資金が膨大な物になると予想し、ダヴィデの進言に対して即答できかねたが、最終的にはダヴィデの進言に従い、ダヴィデを中心にヴァレンティーノを引き抜くことにした。
ダヴィデは引き抜きの名人なので、とうとうヴァレンティーノ獲得を成功させてしまった。この引き抜きがヤマハ躍進の原動力となった。
ヴァレンティーノ獲得のためにはずいぶんと金がかかった。梶川隆 専務(次期ヤマハ社長に内定)
と古沢は次のようなやりとりをしたという。
梶川「ヴァレンティーノ・ロッシがウチに来るのかね。それは素晴らしい」
古沢「彼は年棒1,000万ドルを2年要求しています」
梶川「・・・この話は無かったことにしよう」
古沢「しかし、我々は勝たねばなりません」
梶川「・・・しょうがないな」
古沢「交渉の際、金額の理解に行き違いがありました。ロッシ側はドルでは無く、ユーロで払えと言っています。つまり年棒1,000万ユーロを2年要求しています」
※2003年7月1日において1ドル119円、1ユーロ137円。1,000万ドルより1,000万ユーロの方が価値が高く、円換算にすると1.15倍になる
梶川「・・・この話は無かったことにしよう」
古沢「しかし、我々は勝たねばなりません」
梶川「・・・しょうがないな」
どうだろう、この緊迫感のある会話。梶川隆も古沢政生も、巨額のお金を動かすストレスと戦ったのである。
ヤマハ発動機は、2005年に創業50周年の節目を迎えることになっていた。その2005年には是非ともMotoGPのチャンピオンを獲得したい、という思惑があった。そのため、古沢の要求があっさり通っていった。
2003年に古沢が動かしたお金の総額は6,000万ユーロに上ったという。このページ
には2003年のドル・ユーロの変遷が書かれており、それを参考にするとだいたい1ユーロ=130円と思っていいだろう。つまり、78億円ほどを動かした。こんな巨額の予算を扱ったことは古沢にとって人生初めての経験だった。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
135~136ページ、138~145ページ、179~183ページ
マシンに対しても、古沢は手を付けた。
2003年のマシンの走りを見ると、何かがおかしい。古沢は考察を重ね、「マシンの根本であるエンジンに問題がある」と喝破し、そのため、エンジンで最も重要な部分であるクランクを改善しようと考えた。そこで導入したのが、クロスプレーン・クランクシャフト
である。
クロスプレーン・クランクシャフトを使うと不等間隔爆発エンジン(ビッグバン)になる。
ちなみに、2003年以前までずっと使っていたのはシングルプレーン・クランクシャフトで、こちらは等間隔爆発エンジン(スクリーマー)という。
クロスプレーン・クランクシャフトとシングルプレーン・クランクシャフトの違いについては、この本
の31ページにイラストと解説がある。
また、4バルブシリンダヘッドのエンジンにしようと考えた。長らくヤマハは5バルブシリンダヘッドのエンジンを使っていたので技術者達の抵抗・反論が強かった。そこで古沢が持ち出したのは、得意のコンピュータであった。CAE(computer aided engineering コンピュータで予測しつつ設計すること)
で技術者達に説明をしていった。当時のヤマハのMotoGP部門はCAEにあまり触れておらず、新しい方法を導入したのである。
2004年初頭のテストで古沢は四種類のエンジンを持ち込んだ。
古沢政生は内心、一番上の「クロスプレーン・クランクシャフト 4バルブシリンダヘッド」で間違いない、と思っていたが、やはりライダーが決めるのが一番良い。そこでヴァレンティーノ・ロッシに乗ってもらった。やはり、ヴァレンティーノも古沢と同じく「クロスプレーン・クランクシャフト 4バルブシリンダヘッド」を選んだ。
2005年には、前年までのカムチェーンに代えて、カムギアトレインへの変更を果たした。この変更も古沢が提唱した。
こうした技術革新が身を結び、2004年のヴァレンティーノは9勝、2005年は11勝を挙げ、大成功を収めた。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
148~160ページと288ページ、ロッシのコーナーリング本
91ページ、ロッシ自叙伝
191~194ページ
完勝の2連覇を果たした後、2006年と2007年の古沢政生は少しMotoGPから距離を置くことにした。そうして、市販車の研究開発の仕事を進めることにした。市販車の研究開発こそが古沢にとって本当にやりたがった仕事であり、なおかつ、ヤマハ社内での評価も高い仕事だったからである。
ところが2006年と2007年のヴァレンティーノ・ロッシはいずれもチャンピオンを逃してしまった。2006年は僅差のランキング2位、2007年は126ポイントも離されたランキング3位になった。
このためヴァレンティーノ・ロッシがヤマハに対して「フルサワを呼び戻せ!」と猛抗議し、結局古沢は2008年からMotoGPの仕事の比重を増やし、市販車開発の比重を減らしたのである。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
246ページ、252ページ、322ページ ロッシのコーナーリング本
93ページ
2008年と2009年はヴァレンティーノ・ロッシが連覇を果たした。
この2年の躍進の原動力は、アンドレア・ズーニャという天才技術者が構築した電子制御である。アンドレア・ズーニャは古沢政生が引っ張ってきてじっくり育成した人物である。
また2007年から燃料が21リットルとかなり少なくなった。古沢はエンジン技術者に対して「可能な限り、エンジン内部のロスを減らし、少ない燃料でもパワーが出るようにせよ」と指示を出し、技術者達もその指示にしっかり応えた。
※この項の資料・・・ ロッシのコーナーリング本
94ページ
2010年限りで、ヴァレンティーノ・ロッシはヤマハを退団し、ドゥカティワークスへ移籍することが決まった。
2011年2月17日に古沢政生は60歳になり、定年退職してもいい年となる。それゆえ、2010年をもって古沢政生も引退することにした。ヤマハ発動機の社長からも慰留があったが、丁重に断った。
しかし、ヴァレンティーノ・ロッシがヤマハに残留した場合は、あと2年だけ残留するつもりだったという。
※この項の資料・・・crash.net記事
、motorionline.com記事
、ヤマハワークス内情本
67ページ
引退した古沢政生は、袋井市から京都市へ転居した。
もともと古沢は芸術に興味があり、「レオナルド・ダ・ビンチが好き」「絵を描くことは昔から好き」「アメリカ合衆国に出張したときボストンの美術館に寄って浮世絵を見た」「レースの合間に美術館へ行く」などと語っている。そのため、さまざまな彫像・美術品・建築物が存在する京都に惹かれたのだろう。
京都で、振動解析のコンサルタント企業を設立している。そのウェブサイトはこちら
である。この技術者紹介サイト
で自己紹介もしている。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
106ページ
1957年頃生まれ。
1986年に、MC事業本部に属するMS開発部に入った。MC事業本部はMotorcycle(オートバイ)からMとCを取って名付けられた部署で、オートバイを扱うヤマハ中枢の部署。MS開発部はMotor Sports(モータースポーツ)からMとSを取って名付けられた部署で、ヤマハの二輪レース活動を仕切っている花形の部署。「中枢の部署の中の、花形部署に入った」という意味になる。
「MC事業本部」も「MS開発部」も、ヤマハの技術者の肩書きによく出てくる名前である。このページ
にも、あるいはこの記事
にも、技術者の肩書きにそれらの名前が付いている。
長らくヤマハのテクニカル・スタッフ(マシンのことをすべて理解したうえでライダーの相談に乗る人。マライダーの不平不満を整理して、開発部門に伝える)を務めていたようで、1990年代前半はウェイン・レイニーを担当していた。
2003年5月の時点でMotoGPから離れていたが、古沢政生により呼び戻された。
古沢政生退任後は、ヤマハの総監督という立ち位置だった。2015年の鈴鹿8耐のヤマハワークスのピットにも来ていた。
2017年で60歳を迎えた。
ヤマハの公式サイトの記事はこちら
。レースが終わるごとにベン・スピーズ
に呼ばれ、長々と愚痴を聞かれて、それを受け止める・・・そういう立ち位置の人だったことがよく分かる。
2012年のベン・スピーズはトラブルにたびたび見舞われ、惨憺たる結果に終わっていた。本人は必死に頑張るのだが、死神にとりつかれたのか、トラブルが続いたのである。
ちょうどそのイタリアGPでヤマハ本社からやってきたある人に「ラグナセカで100%の走りをしないのなら、もう二度と姿を見せるな」と言われたという。その人はヤマハの偉い人で、レースに対する情熱の熱きあまりつい言ってしまったようだが、さすがにベン・スピーズも頭に来たらしい。2012年シーズンをもってヤマハを離れると表明した直後、Crash.netに向けて暴露している
。
ただ、そんなベン・スピーズも、中島さんには感謝の言葉を述べている。「ヤマハの95%の人は自分に良くしてくれた。ナカジマも親切にしてくれた。嫌なのは上層部の1人だけだった
」
ちなみに余談ながら、2012年のベン・スピーズの災難はヤマハ離脱を決めた後も続いた。
これについてジェレミー・バージェスがコメント「ベン・スピーズが葬儀屋を開いたら、誰も死ななくなるだろう
」
ジェレミーは笑い話にしているが、シャーシ破損だのスイングアーム破損だのというのを見ると笑えない。絶対に破損しては困るような部品が破損している。ベン・スピーズに文句を言ったヤマハ最上層部の人は、白装束を着るべきであろう。
ヤマハの開発の中心人物。技術者としての専門分野はシャーシである。ちなみに、「ヤマハはシャーシが良い」という評判が高い。
1953年8月26日生まれ。1976年にヤマハへ入社し、すぐにレース部門に所属した。現役時代のケニー・ロバーツ・シニアやエディ・ローソンと一緒に仕事をしている。
1984年から1993年頃まで約10年間、MotoGPを離れ、TT-F1などの市販車レースの開発を担当した。
2003年5月の時点でMotoGPから離れていたが、古沢政生により呼び戻された。
2004~2012年の間は、ピットにいる姿や、スターティンググリッドで心配そうにしている姿をたびたび国際映像に映されていた。
2013年8月26日に定年を迎えた。どうやら再雇用されたらしく、コーポレートコミュニケーション部の所属になり、歴史あるレース車両の維持管理を担当している
。
2018年8月26日に65歳となり、ヤマハ卒業となった。
この本
の58~83ページで現役時代の秘話を色々喋っている。ケニー・ロバーツ・シニアやエディ・ローソンの文句を浴びつつ仕事をしていたという。
この本
の53ページで、ヴァレンティーノ・ロッシにちょっと面白いことを暴露されてしまっている。
ヤマハの開発の中心人物。技術者としての専門分野はエンジンである。
ヤマハは、1993~1996年の四年間、V型10気筒のエンジンを作ってティレルというF1チーム
に供給していた。そのときのエンジン開発の一員だった。
ヤマハはトヨタと資本関係を持っており、トヨタがF1参戦するときには技術協力をする。トヨタがF1参戦したのは2002年から2009年のことだが、その最初期に辻さんも手伝いをしており、トヨタの技術者との人脈を持っている。
2003年10月1日からMotoGPのエンジン開発にまわり、古沢政生の部下となった。ヤマハワークス内情本
にもしばしば名前が出ている(243~245ページ、249~252ページ、255~256ページ)
2015年頃にはすでにヤマハワークスの中で開発責任者になっていた。その当時はヴァレンティーノ・ロッシとホルヘ・ロレンソの共存時代だったが、ホルヘ・ロレンソに「ツジは僕のチームのところに来ない。ヴァレンティーノのところにばかり行く」と文句を言われている。
雑誌のインタビューにも頻出する(記事1
、記事2
、記事3
、記事4
)
2019年現在はヤマハワークスの総責任者という立ち位置になっている。
カメラを持ってウロウロしている姿がしばしば目撃されている(画像1
、画像2
)。何を盗撮するつもりであろうか・・・
ヴァレンティーノ・ロッシ引き抜きを主導した功労者である。2010年シーズン末、古沢政生やヴァレンティーノ・ロッシと同時にヤマハを退職していった。
振動解析のソフトを作って発表したら古沢政生に名を覚えられ、ヤマハに入社した。電子制御の分野の天才で、2008から2010年までのヤマハ三連覇に多大な貢献をした。
2001年にヤマハワークスのプロジェクトリーダーになっていた。古沢政生とは、2003年と2004年の2年間仕事をした。2004年シーズン末にヤマハを退職し、カワサキに引き抜かれていった。2019年現在もカワサキのバイクレース活動における中心人物である。
| ヴァレンティーノ・ロッシの写真がデカデカと表紙に掲げられているが、本の中身は2003~2010年のヤマハワークスの内情を綿密に記すものである。古沢政生さんが主人公の本と言っていい。 | |
| ヴァレンティーノ・ロッシのファン向けの本で、3分の1はヴァレンティーノのコーナーリング技術論が記され、3分の1は2001年から2009年までヴァレンティーノが跨がったマシンの解説、最後の3分の1は付録みたいなもの。 89ページから95ページまで古沢政生さんのインタビューが収録されている。 |
|
| 2004年のチャンピオン獲得を特集した本。マシンの解説がやたらと細かくて詳しい。2003年当時の混迷もしっかり記述されている。 | |
| 2005年頃に書かれたヴァレンティーノ・ロッシの自叙伝。2003年のヤマハ移籍の内情や、2004年シーズン前のテストにおける情報戦など、2003~2004年前半の出来事を詳しく著述している。 |
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1 ひでちゃん
2024/03/28(木) 10:15:34 ID: /s1MyJA/Pt
素晴らしい記事でしたよ
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 21:00
最終更新:2025/12/11(木) 20:00
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