チーム・ロータスとは…
ロータスエンジニアリングの創設者であるコーリン・チャップマンが創設。その後は市販車部門をロータス・カーズへ分離している。
1960年にスターリング・モスによって初勝利を得てチャンピオン争いにくい込み始め、モスの引退後はスコットランド人のジム・クラークがエースを務め、1963年、1965年と連続でチャンピオンを獲得する。
しかし1968年にF2レース参戦時に事故死してしまう。代わってエースとなったグラハム・ヒルの手で1968年のチャンピオンを獲得した。
1970年にはくさび形のボディを持つロータス72によってヨッヘン・リントが勝利を重ねた。しかしイタリアGPで事故死してしまう。その後は彼のポイントを誰も上回ることができず。唯一死後にチャンピオンを獲得することとなった。
1972年にはブラジル人のエマーソン・フィッティパルディによってダブルタイトルを獲得、翌年にはフィッティパルディ、ロニー・ピーターソンの二人によって勝利を重ねてコンストラクターズタイトルを獲得した。フィッティパルディがマクラーレンに移籍してからは、ロータス72の後継開発に失敗し、ややジリ貧となったこともあったがマリオ・アンドレッティらの努力もあり、成績は再び上向き出す。
1977年には、ボディ下面をベンチュリー構造にしたグラウンドエフェクトカーを開発、翌年にはマリオ・アンドレッティによってチャンピオンを手にした。しかしこれが、ロータスにとって最後のチャンピオンとなった。
その後は行きすぎた空力構造のロータス80でつまづき、ウィリアムズなどの他チームのリードを許して四苦八苦してしまう。1982年のシーズンには久々に勝利を挙げるが、後にチャップマンが心筋梗塞によって急死してしまう。
1985年にアイルトン・セナが加入すると、彼の天才的な走りによってチャンピオン争いにも絡み始めるようになる。しかし彼がマクラーレンに移籍すると再び低迷する。一方で、日本人初のF1ドライバーとして中嶋悟が1987年に加入、1989年までドライブした。
1990年になると資金難に襲われ、モノコックを破壊するほどの大事故にも見舞われて、メインスポンサーの契約解消、チームスタッフの多くが離脱するなど、撤退の危機に瀕する。
1991年には、元ベネトン監督のピーター・コリンズを中心に再建の道をはかる。スポンサーにおいてはバブル経済末期の日本より多くの企業からの支援を受けるようになる(タミヤ、コマツなど)。ドライバーとしてフィンランド人のイギリスF3チャンピオン、ミカ・ハッキネンを起用する。セカンドドライバーは紆余曲折あったが、ジョニー・ハーバートがレギュラーとして定着することになる。
1992年には戦闘力のあるマシンを手にすることで、コンストラクターズランキング5位にまで上がり、スポンサーも増えるようになった(日立、シオノギ製薬、など)。シーズン中盤からはカストロールが待望のメインスポンサーとなる。
しかしハッキネンが離脱すると戦力が低下、1994年には再びメインスポンサーを失って資金難に陥る。
加えてドライバーの事故死(→イモラの悲劇)による急激なレギュレーション変更に伴うマシンの改修が資金難に拍車をかけ、ついにその年を以て撤退することとなった。
チームの所有権は、F1チャンピオン、ジェームス・ハントの弟、デイヴィッド・ハントが所有し、2011年のロータス問題のきっかけを持つこととなった。
チャップマンはチーム・ロータスの中で、数多くの技術革新をF1にもたらした。
それらは、モータースポーツ全体、引いては世界の自動車界全体にまで影響を及ぼしている。
1960年のロータス18では、それまでフロント部分に搭載されたエンジンを、コクピットのすぐ後ろに搭載するミッドシップマウントを採用。回頭性のよいマシンは、ノンタイトル戦で初勝利し、同マシンを購入したプライベートチームに参戦したスターリング・モスによって選手権での勝利も手にした。パワーのあるマシンをコーナーリング性能で打ち負かすというチャップマンの得意技が発揮されたのである。
1962年には、それまでの鋼管スペースフレームのボディからバスタブ形のモノコックシャシーをロータス25で採用。剛性の向上と低重心化に貢献した。
1967年には、エンジンをモノコックシャシーの後部にそのまま取り付けるようにし、背骨のような構造物としてあつかうようになった(ロータス43、ロータス49)。この年にはエンジン規定が変わったことで、フォード・コスワースDFVエンジンがロータスによってデビューした。このエンジンは、10年以上にわたってF1マシンの主力エンジンで有り続けることになる。
翌年には、フロントとリヤにウィングが取り付けられた。ダウンフォースの効果が認知され始めたのである。特にリヤウィングは非常に高い位置に取り付けられた。しかしウィングそのものが非常に脆弱で壊れやすく、外れた際にスピンしやすいなどの問題で、レギュレーションによってリヤウィングの高さに制限が出された。この後、ダウンフォースをより多く獲得することがレーシングカーのデザインの第1義となっていくことになる。同じ年には、それまで国別のカラーリングをすることが当たり前だった中で、初めてスポンサーのカラーリングを施すこととなった。また、自動車に関連しない企業(たばこメーカーなど)をメインスポンサーにしたのも最初である。
1970年には、くさび形(ウェッジ・シェイプ)ボディのロータス72を登場させる。ボディ全体でダウンフォースを稼ぐことを目的にしたマシンは長きにわたって活躍。1975年までに3度のコンストラクターズタイトルを手にした。このマシンによって、フォーミュラカーはそれまでのコクピットの前にラジエターを置く葉巻型からボディサイド(サイドポンツーン)にラジエターを置くスタイルに変化。現代まで続く形の基本が出来たのである。
そして1977年には、車体下部をベンチュリー構造にすることで大きなダウンフォースを得られるグラウンドエフェクトカー、ロータス78を開発、翌年にはスライディングスカートによってさらにダウンフォースを増加させることに成功し、採用されたロータス79でチャンピオンを手にした。このグラウンドエフェクトは現代のF1のみならず、ほとんどのレーシングカーやスポーツカー、スーパーカーに無くてはならないものとなっている。
しかし、チャップマン自身にもいくらかの失敗はあった。
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最終更新:2025/12/11(木) 00:00
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