フォルモサ 単語


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フォルモサ

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フォルモサ(Formosa)は、1865年生まれのイギリスの元競走馬・元繁殖牝馬イギリス史上初の三冠で、他に2000ギニーで1着同着がある。

名の由来はポルトガル語で「美しい」を意味する台湾の別称。清朝統治時代でも清朝の統治が弱かった台湾海賊拠点が多かったことから、バッカニア(17世紀カリブ海賊)からの連想で命名されたものである。

概要

Buccaneer、Eller、Chanticleerという血統。バッカニアは2歳時に当時の有力競走だったジュライSなどを勝ち、通算19戦11勝を挙げている。一方のエラーは1勝で、ステークス競走も未勝利である。

生産者はこのを自分の手元に置いておくか売るかどうかで悩んでおり、1歳時のセリでは700ギニーで買い戻そうともしていたが、結局このセリで690ギニーという値段を付けた馬主に売却されることになった。落札したのはウィリアム・グラハムという馬主で、本が生まれた年の英オークスレガリアで勝って成功しており、馬主としては「G. Jones」という登録名を使用していた。

幼少期から筋肉質で岩のような立ち姿を見せていたフォルモサは、ヘンリーウールコット調教師に預けられた。

競走成績

2~3歳

デビュー4戦は3戦の3着を除いて着外だったが、5戦でようやく初勝利を挙げると、続いて7月に出走したニューマーケット競馬場チェスターフィールドSでも単勝21倍の低評価を覆して連勝を収めた。その後3頭立ての3着を挟んでもう1勝したが、2歳戦の大競走のミドルパークプレートでは着外に終わった。2歳時は9戦3勝だった。

3歳時は2000ギニーから始動し、ミドルパークプレートを勝ったグリーンスリーヴスに次ぐ2番人気となった。レースでは本モスレムというが抜け出し、一旦前に出た同を追い詰めて横並びでのゴールに持ち込んだ。当時は写真判定がなく、眼で判定出来ないレースは同着として処理されており、本モスレムは1着同着となった。

この時期の競馬現在と違い、同着での賞金山分けに対して両馬主が合意しなければ、決勝戦が行われることになっていた。このレースの場合はフォルモサとモスレム馬主が合意に達したため、普通なら賞金山分けで終わるところだったが、何故か決勝戦が行われ、モスレムが単走で勝利した。この一件のため、媒体によってはフォルモサをクラシック4勝ではなく「クラシック3勝と半分(won three and a half classics)exit」という切れの悪い書き方をしていることもある。

さておき、2000ギニーの2日後には1000ギニーに出走し、これをなりのまま3馬身差で勝利。その後はダービーを回避してオークスに出走すると、レース2時間前まで続いた暴風雨で悪化した馬場を物ともせず10馬身差で圧勝した。

オークスの後は11日後のプリンスオブウェールズSに出走したが、ダービーで2着だったキングアルフレッドの後を拝して6着に敗れ、続いて出走したトリエニアルS[1]でも1馬身差の2着だった。

の休養を挟んだ後、9月セントレジャーに出走した。中は若干抑え気味に進んでいたが、徐々に位置取りを上げると好位で直線を向き、2着ポールジョーンズノーステッキで競り落として3馬身差で勝利英国競馬史上初の三冠となった。続くニューマーケットオークスも6馬身差で制し、3歳時を7戦5勝(2000ギニーも1勝とする)で終えた。

4歳以降

4歳時は始動戦のリンカンシャーハンデキャップで5着に敗れた後、3月にエプソム競馬場で出走したトライアルSでは前年のダービーブルーガウンのアタマ差2着となった。その後のランズタウントライアルSとトリエニアルSはいずれも勝利し、アスコットゴールドカップに駒を進めたが、ここでは当年のオークスブリガンティンの2着に終わった。

アスコットゴールドカップの後、20ハロンの同レースから14ハロン距離を短縮して6ハロン戦のストックブリッジカップに出走したが2着に敗れ、続くニューマーケット競馬場のハーストボーンカップでもブリガンティンの2着だった。

その後、7月ベンティンク記念S(29ハロン)では2着に40馬身差を付けて大勝し、翌のハーマジェスティーズプレートという下級競走も勝利したが、この後3連敗を喫し、4歳時は12戦4勝で終わった。更に5歳時も連敗が続いたことから「走る度に自身の名を傷つけている」と評されるようになり、3戦して全て2着だった5歳時をもって引退した。

繁殖成績

馬主のグラハムが所有する牧場で繁殖入りしたフォルモサはしばらく当地で繋養されていたが、1876年にグラハムが死去すると売りに出され、更に不受胎が続いたことからもう一度売りに出されて、最終的にフランス1881年に死亡した。16歳だった。

の競走成績はラストクロップのフォルマリテがフランスで走ってラ・クープを勝ったくらいだが、牝系は3番のプルクラニュージーランド輸出されてラインを伸ばし、現在でも維持されている。日本では1986年きさらぎ賞を勝ったフミノアプローズくらいしか立つがいないものの、オセアニアでは21世紀に入っても2018年のマッキノンS(GI)を勝ったトラップフォーフールズが出ており、現在も活力を保っている。

血統表

Buccaneer
1857 鹿毛
Wild Dayrell
1852 黒鹿毛
Ion Cain
Margaret
Ellen Middleton Bay Middleton
Myrrha
Little Red Rover Mare
1841 栗毛
Little Red Rover Tramp
Miss Syntax
Eclat Edmund
Squib
Eller
1856 芦毛
FNo.18-a
Chanticleer
1843 芦毛
Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Whim Drone
Kiss
Tomboy Mare
1838 黒鹿毛
Tomboy Jerry
Ardrossan Mare
Tesane Whisker
Lady of the Tees

クロス:Edmund 4×5 (9.38%)

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関連項目

脚注

  1. *1849年から1914年にかけて、ロイヤルアスコット開催では2歳戦・3歳戦・4歳戦の3つの「トリエニアルS」というレースが開催されていた。第一次世界大戦でトリエニアルSは開催休止となり、そのまま止されたが、第一次世界大戦終戦すると2歳戦のチェザムS、3歳戦のジャージーSにかつてのトリエニアルSの位置付けが引き継がれた。
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