「ヨンオク・キム」とは、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊およびの第7歩兵師団第31歩兵連隊に所属して、第二次世界大戦の欧州戦線や朝鮮戦争に従軍した韓国系アメリカ人である。
生まれ持ったリーダー気質と戦術指揮能力により激戦を戦い抜き、アメリカ軍では初の有色人種の大隊長となった。
英語表記は「Young-Oak Kim」、ハングル表記は「김영옥」、漢字表記は「金永玉」。
1919年1月29日、朝鮮半島中西部の京畿道南陽郡出身でロサンゼルスで雑貨店を営む金順権の長男として誕生。
地元の高校を卒業後、LCAAに進むも中退。当時のアメリカで猛威を振るっていた人種差別により定職につく事ができず、アメリカ陸軍への志願も差別が元で拒否されていた。
第二次世界大戦勃発後、当時朝鮮半島を併合していた日本がアメリカと戦う事になった事から、日系二世を含むアジア系アメリカ人が徴兵対象になった為アメリカ陸軍に入隊した。
1941年に歩兵士官候補生学校に入り、1943年に卒業と共に日系アメリカ人を中心に構成された第442連隊戦闘団の第100歩兵大隊に配属された。当時の朝鮮人感情を考慮して別部隊への異動を打診されるも。、
私が日本人や中国人と韓国人の区別がつかないのですから、あなた達だって区別できないはず。
ましてや白人がどうやって区別できるというのですか?出来るわけがありません。
あなた達は日系アメリカ人のために戦っていますが、それは結局アジア人皆のためになるのです。それが第一。だから私はここにいるのです。
私はあなた達と同じ様な顔をしています。誰にも違いがわかりません。
だからこそ、成功を遂げれば、それが皆のためになるのです。それが私達アジア人皆を解放するのです。
として異動を拒み、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員としてイタリア戦線へと送られた。
1944年1月22日からはじまったアメリカ・イギリス・カナダの連合軍とドイツ第三帝国軍が激突したアンツィオの戦いに参加。敵ドイツ軍兵士を捕らえて敵部隊の位置情報を入手する事に成功したキムの功績により、連合軍はドイツ軍を破ってローマ解放に成功。ピサの戦いではキムらの奮闘により連合軍は被害ゼロでピサの占領に成功するという功績をあげた。戦いの場をフランスに移した後、ビフォンテーヌの戦いの際に重傷を負った為、ロサンゼルスに戻って療養している間にドイツは降伏。キムの第二次世界大戦は終わった。
第二次世界大戦終戦後に退役するも、公民権運動前でアジア人への差別感情が残っていたアメリカでは定職につく事ができず、コインランドリーを開業して生計をたてた。
朝鮮戦争が勃発すると陸軍に復帰、生まれてはじめて父祖の故郷である朝鮮半島の地を踏んだ。
第7歩兵師団第31歩兵連の作戦担当士官として幾度もアメリカ軍および韓国軍部隊の救出に貢献。北朝鮮側とした参戦した中国人民解放軍との戦いでは、人民解放軍の南下を阻止して38度線突破に成功。韓国と北朝鮮の国境線を定めた功労者として称えられる事となった。
北朝鮮軍と勘違いされて味方に誤射されて重傷を負ったこともあったが、1年ほど朝鮮半島で戦い続けた後、1925年9月に帰国。
帰国後は退役せず陸軍歩兵学校教官になり、第7師団第86連隊第2大隊長を経て、陸軍指揮幕僚大学教官となった。1963年には在韓米軍の軍事顧問となってミサイル防衛戦の構築に尽力し、1972年に退役した。
最終階級は大佐。
退役後は、戦時中に負った傷の後遺症と戦いながら、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など数多くの団体の立ち上げを支援して、アジア系コミュニティに貢献。戦時および戦後の功績からアメリカの銀星章・勲功章・青銅星章を授与された他、フランスのレジオン・ドヌール勲章、韓国の太極武功勲章を授与された。
2005年12月29日にガンで死去。86歳没。遺体はハワイにある国立太平洋記念墓地「パンチボウル」に埋葬された。
2023年5月16日。US Army Comand and General Staff College(アメリカ陸軍指揮幕僚大学)内にある Hall of Honor(名誉の殿堂)に入った事が発表された。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/14(日) 00:00
最終更新:2025/12/14(日) 00:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。