屋久(海防艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した鵜来型海防艦6番艦である。1944年10月23日竣工。南号作戦に参加して船団護衛を行っていた1945年2月23日、インドシナのバレラ岬南方で米潜水艦ハンマーヘッドの雷撃を受けて沈没。
鵜来型海防艦とは、量産性・対空・対潜能力いずれもバランスの取れた最優秀海防艦である。船団護衛兵力の増強と海防艦の喪失数を補うため、帝國海軍は択捉型を簡略化した御蔵型を新たに設計。しかしその御蔵型もあまり量産性に優れず大量生産に向かない事が判明。そこで更に簡略化を推し進めた日振型と鵜来型が設計された。単艦式大型掃海具を搭載した日振型と違って、鵜来型は対潜及び対空能力を突き詰めた純粋な海防艦であり、掃海具の代わりに最新鋭の三式爆雷投射機や25mm三連装機銃を装備。過去最強の対潜・対空能力を獲得した。品質を落とさず量産性を高めるべくブロック工法や電気溶接を駆使し、曲線部分を可能な限り直線状に改め、戦時急造に適した設計へと簡略化。御蔵型の工数約5万7000から約3万にまで減らす事に成功している。このように数ある海防艦の中で最も完成度が高く、同型艦20隻の中で失われたのは3隻のみと喪失率が一番低い。…もっとも、屋久はその3隻のうちの1隻になってしまった訳だが(他は稲木と男鹿)。
屋久は主に内地・シンガポール間で船団護衛任務に従事。台湾と香港で計3回の大規模空襲に巻き込まれながらも生き延びた。本土に燃料を特攻輸送する南号作戦にも参加していたが、1945年2月23日にインドシナ沖で米潜ハンマーヘッドの雷撃を受けて沈没。
要目は排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、機関出力4200馬力、最大速力19.5ノット。兵装は45口径12cm連装高角砲A型改三(後甲板)1門、同単装高角砲E型改一(前甲板)1門、25mm三連装機銃5基、三式爆雷投射機16基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条1条、爆雷120個。電測装備は13号対空電探、22号水上電探、電波探知機、九三式水中聴音機、三式探信儀。
1942年9月に策定された改マル五計画において第5251号艦の仮称で建造が決定し、建造費620万円を確保。1944年5月24日に浦賀船渠で姉妹艦新南とともに起工、8月25日に屋久と命名されて9月5日に進水式を迎え、9月13日に造船所内で艤装員事務所を開設して事務を開始した。それから間もない9月30日に艤装員長として三井湜予備少佐が着任。彼は民間の商船学校を出たばかりの予備士官で軍歴は無かった。そして10月23日に屋久は竣工を果たした。同日付で艤装員事務所を撤去、三井少佐が艦長へ就任するとともに佐世保鎮守府に編入され、海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊呉防備戦隊へと部署する。
10月25日午後12時53分、軍令部は屋久と第138号海防艦の呉防備戦隊編入を関係各所に通達。呉へと回航した屋久は防備戦隊の指揮を受けながら対潜訓練を行う。12月5日、慣熟訓練を終えた屋久は南西方面艦隊第5艦隊第31戦隊所属の第21海防隊に転属。いよいよ実戦投入の時を迎える事に。
12月23日、陸軍第19師団の兵員を乗せた門司発高雄行きのモタ29船団(陸軍徴用船めるぼるん丸と大光丸)を、第26号、第60号、第205号海防艦とともに護衛して門司を出港。同日中に第26号は佐世保へ向かうため護衛から離脱した。道中の12月25日に屋久は第21海防隊より除かれて単艦で連合艦隊所属となる。道中何事も無く、12月31日にモタ29船団は目的地の高雄へ到着して見事護衛任務を成功させた。
1945年1月3日と4日に米第38任務部隊による高雄空襲が行われたが、幸い屋久に被害は及ばなかった。4日の空襲後、今度は高雄発厦門行きのタア01船団9隻を駆逐艦朝顔や海防艦新南と一緒に護衛して高雄を出港、1月5日に厦門へと到着する。翌6日午前7時50分、屋久と新南は次なる護衛任務に臨むため厦門を出港。途中で朝顔が高雄に向かうため離脱し、残りの船舶は1月7日午後12時23分に高雄近郊の左栄泊地に入港した。翌日連合艦隊より「南西方面艦隊司令の指揮を受け、シンガポールまでヒ87船団の護衛に従事すべし」との命令が下った。ところが1月9日午前6時15分に突如として空襲警報が発令。南シナ海に侵入中の米第38任務部隊が台湾や海南島を空襲してきたのである。海邦丸、第3号海防艦、第61号駆潜艇など5隻が撃沈され、黒潮丸、特務艦神威、第9号、第13号海防艦、屋代、江ノ浦丸なども被害を受けた。船団旗艦の神威が損傷を負ったため海防艦干珠が新たな旗艦に指定される。
1月10日17時、タンカー6隻からなるヒ87船団を海防艦9隻と駆逐艦時雨が護衛して高雄を出発。1時間後に第一警戒航行序列に占位するが、18時30分に光島丸が機関故障を訴えて高雄に引き返した。19時より船団は之字運動を開始する。翌11日午前8時35分に第三警戒航行序列に隊形を変更した。1月12日朝、第38任務部隊はグラティテュード作戦に基づいて南シナ海へ侵入。インドシナ方面に対する熾烈な空襲を行い、付近を航行していたヒ86船団、ユサ04船団、サシ05船団、サタ05船団、サシ40船団、インドシナ在泊の艦艇がほぼ壊滅。船舶33隻と戦闘艦13隻が一挙に撃沈される大損害が発生してしまった。これを受けて海上護衛隊総司令部は午後12時40分、ヒ87船団に香港への緊急避難を命令し、5分後に船団は香港に向かうため針路を変更。第四警戒航行序列に占位した。翌13日午前11時に船団は香港へ到着。
しかし避難先の香港さえも安全ではなかった。1月14日正午に偵察のB-24爆撃機が香港上空に飛来して不穏な空気が流れ始める。船団は被害を極力最小限に抑えるため、ヒ87A船団とヒ87B船団の2つに分割。屋久はB船団の護衛を担当する。そして1月15日午前9時15分から16時13分にかけて第38任務部隊が香港を空襲。翌16日の午前7時3分から18時30分まで二度目の空襲が行われた。敵艦上機以外にもアメリカ陸軍のP-38双発戦闘機やP-51ムスタングも出現して徹底的に港内の船舶を蹂躙。対空射撃による応戦もむなしく、神威が大破航行不能、松島丸が大破炎上のち擱座、天栄丸が撃沈される被害を受けた。船団で無傷だったのはさらわく丸だけだったという。一方でヒ87船団は計25機撃墜の戦果を挙げている。1月17日20時5分、損傷を受けた屋久、新南、能美、第60号海防艦は応急修理の上、高雄に回航するよう命じられるも、修理が間に合ったためB船団の護衛に途中まで加わる事に。
1月20日19時、大破・擱座したタンカーを除いたヒ87B船団が香港を出発。タンカー橋立丸を新南や倉橋と護衛する。1月21日に海南島南口で新南が触礁して重油タンク漏水、左推進軸羽折損、水中探信儀使用不能などの重傷を負ってしまったため、翌22日17時より香港で積載した託送品と便乗者を屋久に移乗させた。ヒ87B船団の海南島入港を見届けた後、屋久は護衛から離脱して1月27日にサンパット湾へ移動。
去る1月20日、大本営は燃料並びに重要物資の緊急輸送を企図した南号作戦を発令。1月時点での内地の備蓄燃料は朝鮮や台湾所在のものを合わせても100万キロリットルまで減少しており、もはや一刻の猶予も無かった。そこで生き残っている内地、またはシンガポール所在の大型タンカーと輸送船をかき集め、南方航路が閉鎖される前に燃料を内地へ運び込む特攻輸送を試みる――それが南号作戦の目的である。とりわけ護衛兵力の不足が深刻で、一等駆逐艦や巡洋艦の供出は望むべくも無く、内地・シンガポール間で護衛任務中の海防艦や駆潜艇まで動員して船団護衛に当たらせた。屋久もその1隻だった。
2月4日、屋久はサンパット湾を出港。シンガポールから門司へ向けて航行中のヒ88D船団(延元丸、大暁丸、治靖丸)やそれを護衛する第13号、第31号海防艦と合流した。翌5日午前8時30分、浮上中の敵潜水艦を発見して船団は針路を変更。続いて2月6日午前2時30分、ホーチミン南方470kmで屋久の見張り員が浮上中の敵潜パンパニトを発見、この時は回避に成功したが以降ハンパニトの追跡を受けるようになる。そのパンパニトとウルフパックを組んでいたガヴィナは照明弾4発を発射して屋久ら護衛艦艇の注意を引き、生まれた隙を突いて21時57分、ハンパニトはヒ88D船団へ向けて魚雷6本を発射。このうち1本が延元丸の右舷機関室に命中、たちまち積載中のガソリンに引火して巨大な炎の塊と化した。大暁丸が数発の爆雷を投下する中、屋久がパンパニトの所在を突き止めようとしたものの逃げられてしまった。第31号海防艦が生存者を救助してシンガポールへと引き返す。
2月7日午前3時、船団の左舷側に潜むハンパニトを屋久がいち早く発見、速力を上げてパンパニトの追跡を振り切った。ところが逃げた先にはガヴィナが待ち伏せており、午前4時54分に6本の魚雷を発射して3本が大暁丸に命中、5分以内に沈没させる。ガヴィナは沈没した大暁丸の船尾近くの海底に横たわって爆雷攻撃を回避。午前8時頃、屋久は漂流中の大暁丸生存者を発見して救助活動を行った。敵潜の包囲網を何とか突破して2月8日18時20分にサンジャックへ到着。夜遅くにサイゴンに移動した後、加入船舶が治靖丸だけになってしまったのでヒ88D船団は途中解散となる。
2月9日午前10時、第13号海防艦とともにサイゴンを出発し、2月13日14時30分にシンガポール入港。次に本土を目指すヒ88H船団の護衛に加わった。
2月16日21時、ヒ88H船団(永昭丸、日翼丸、鳳南丸)を第13号海防艦や第20号駆潜艇とともに護衛してシンガポールを出港。敵潜水艦が待ち伏せしにくい浅瀬が多く、また敵からの雷撃を右側のみに限定するためインドシナの沿岸ギリギリを之字運動しながら航行する。途中でサンジャック行きの鳳南丸が船団より離脱した。2月22日午前10時45分、インドシナ半島ファンラン湾沖で米潜水艦ベクーナが4本の魚雷を発射、うち1本が日翼丸の左舷機関室に命中して沈没。屋久ら護衛艦艇は計65発の爆雷を投下したもののベクーナに損傷を負わせられなかった。同日19時、ヒ88H船団はナトランに退避。
1945年2月23日朝に船団はナトランを出港。間もなくしてインドシナ沿岸を遊弋していた米潜水艦ハンマーヘッドに捕捉され、密かに追跡を受ける。当初ハンマーヘッドは貨物船を狙って接近していたが偶然屋久が魚雷の射線上に乗ったため標的を変更した。
午後12時10分、バレラ岬沖南方20kmでハンマーヘッドが魚雷4本を発射、このうち2本が船団の外側を進んでいた屋久の右舷艦首へ立て続けに命中し、なすすべなく轟沈させられた。三井艦長以下134名全員が戦死。伴走者の第13号海防艦は屋久の仇を討つため午後12時21分より爆雷投下を開始。4時間に渡って42発の爆雷を投下した。ハンマーヘッドを追い払った後は18時50分まで屋久の生存者を捜索したが、誰一人として見つけられなかったという。20時15分、油気泡に1発の爆雷を投下したのを最後に第13号は対潜掃討を打ち切り、永昭丸を護衛してツーランに向かった。永昭丸もまた生きて内地まで帰り着く事が出来ず、3月1日に沈没。ヒ88H船団は第13号海防艦しか生還しなかった。
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