琉球王国 単語

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リュウキュウオウコク

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琉球王国とは、沖縄にあった王である。現代人はしばしば「琉球王国」と呼び、当記事の記事名もそうなっているが、「王」という語は歴史用語であって実際に使われていた号ではない。このため「琉球」か「琉球」と呼ぶべきとする意見と「〇〇幕府」や「〇〇」だって江戸時代末期にしか使われていなかったのだからそこまで気にしなくてもよいとする意見とがある。内では「うちなー」や「中山」などと呼ばれた。首都は初期は添にあったが後に首里に移った。

概要

琉球王国とは、1879年まで沖縄にあった王のことである。詳細な成立時期は分かっていないが概ね12世紀頃と考えられている。より狭義の「琉球王国」としては、第4代中山[1]・尚志(在位:14071439)が琉球三山(北山中山、南山)を再統一した1429年以降の尚氏時代だけをす用法がある。

琉球王国の君内では御(うしゅー、うすー)と呼ばれた。14世紀後半から15世紀初頭に明王朝より中山王に封じられてからは対外的な王号として琉球中山王を用いた。但し、これはあくまで冊封体制による封号であって、別に琉球中国の一部だったというわけではない。

最盛期には大明日本東南アジアを結んで中継貿易を行い、奄美沖縄、先を支配した。当時人の地で存在も知られていなかった大東諸は支配していない。

1609年には日本島津氏の侵攻を受け支配下に入る。しかし、対外的には独立としての地位を維持する(というより、島津氏の狙いが琉球を通しての明との貿易で有り対外的に独立でないと明とは貿易が出来ない)。1872年の琉球設置で全に日本の支配下に入り、1879年の沖縄県の設置で滅亡した。

時代区分

舜天王統時代(1187~1260)

後世の歴史書にのみ名前が出てくる時代。1187年に舜天添で大に即位したのが始まりとされているが、まだまだ伝説的な要素が強い時代である。

英祖王統時代(1260~1330頃)

同時代資料から実在が確認できる最古の王統。舜天王統以前に約1万8千年も琉球を支配していたとされる伝説上の王統[2]の末裔を名乗る。

舜天の孫・義本の摂政を務めていた英祖が1260年に義本より譲を受けたことにより始まったとされる。でも譲って大体は簒奪だよね。

この時代に南から僧・鑑が来訪して仏教が伝来したという。1272年と1276年にはフビライ・ハーンからの使者が訪れており、後には二度にわたりモンゴル帝国の襲来を受けた。最初の蒙古襲来では130人が捕虜として連れさられたが、1291年の襲来では古軍を撃退したという。二度の蒙古襲来についてはモンゴル側と琉球側の双方の史料に登場するものの「琉球という語は当時は台湾すこともあった。蒙古襲来記録古軍の台湾襲撃を誤伝したものではないか」という摘がある。

三山時代(1330頃~1429)

英祖の曽孫・玉城の代に王の権力は失墜し、琉球の北部と南部独立的勢力が発生、琉球は三つの勢力に分裂した。100年に及ぶ戦国時代の幕開けである。

分裂した勢力は北から順に山北中山、山南と呼ばれた。中山中国語における中国地理的中心)のような言葉である。ちなみに、山北と山南については当時の表記としては「山」の字が前にある「山北」「山南」だが、現代では中山に合わせて「山」の文字を後ろに「北山」「南山」と呼ぶことが多い。

各勢力は各自に明に貢して琉球山北王や琉球山南王などの王号を授かり各々が正当性をした。後に対外的な王号として用いられることになる琉球中山王も、この時代に明王朝から授けられた王号である。

第一尚氏時代(1429~1469)

南山の出身で首里に拠点を置いた第4代中山王・尚志(在位:14071439)が、1416年に北山を、1429年に南山を降して琉球を再統一した。この活躍が明の宣徳(在位:14251435)に認められ、中山王は代々「尚」氏が世襲することが認められた[3]。前述の通り狭義の「琉球王国」は、この1429年以降の尚氏時代だけをす。とはいえ、尚志は再統一以前から中山王であり、再統一以降も中山王のままであったので、これはあくまで便宜上の歴史区分である。

第一尚氏時代の琉球王国は、明に貢し、東アジア東南アジアとの貿易を活性化させたが、中央集権化を達成できず、内乱続きの時代だった。

第二尚氏時代(1469~1879)

重臣達に人気かった(とされる)中山王・尚徳の死後、そのまま尚徳の世子に王を継がせようとする勢力に反発した重臣達によって、王への取次役として一置かれていた金丸中山王に迎えられた。即位した金丸は尚円王(尚王)を名乗った。体制としては既存の体制がそのまま引き継がれたが、王の血統を重視する歴史視点から、尚円王以降の尚氏時代を第二尚氏時代とする。

第二尚氏時代の琉球王国は、1500年に石垣島、1522年に与那国島を制圧し、1571年には奄美を支配下に置いた。

尚寧王の時代、1609年に、島津氏の侵攻を受け(琉球征伐」の記事を参照[4])、これ以後、明と薩摩への両属体制となる。この際、奄美島津氏に割譲された。中国側の王が清になってもこの状態は維持される。

1853年に米国が来航し、1854年に修好条約が結ばれ、那覇が開港された。

日本明治維新をして、周辺との界を明確にしていく過程で、琉球もそれに巻き込まれ、1872年から1879年の琉球処分で、全に日本の統治下に入った。清は先を琉球王国として復活させようともくろんでいたため、清との間に先の帰属問題は残ったが、日清戦争で清が敗北したことで日本の領有権が確定した。

言語

言語は琉球語が話された。しかし、ごとの独立性が強く、標準語と呼べる首里方言が話されたのは支配者の氏族階級に限られた。結果、現代まで続く琉球諸語の多様性が維持された。

日本政府の公式見解(嘉吉附庸説)

上述のように、琉球王国は1872年(明治5年)の琉球設置と1879年(明治12年)の沖縄県設置で日本の統治下に組み込まれて姿を消した。
このとき、外務卿の寺島正則は「1441年(嘉吉元年)に足利義教島津沖縄琉球)を与えたときから(日本による)支配権が確定している」(嘉吉附庸説)との見解を出した。
この嘉吉附庸説は学問上は既に否定された俗説の一つに過ぎないが2017年6月5日安倍晋三首相の答弁からすると、最近[5]はまた「琉球王国は室町時代から日本の一部だった」とする嘉吉附庸説が日本政府公式見解として採用されているようだ

ちなみに、流布している嘉吉附庸説では根拠が『義教御感状』ということにされていることが多いが、『義教御感状』に該当する記述は存在しない。もちろん赤松満政が出した『義教御感状』の副状にも、幕府側文書にも、琉球側文書にも、それ以外の日記手紙といった私文書にも、室町時代のものとされる文書からは、それらに類する記述は全く見つかっていない。そもそも室町幕府は琉球王国と初めて接触したとされる第4代将軍・義持の時代以降、これまで確認されている「書(外交文書)」において一貫して琉球中国朝鮮と同様の異の王(中山王)の地として扱っており、琉球を幕府や島津が支配していたかのような記録は第6代将軍・義教の時代に限らず室町時代を通して一切ないのである。
日本政府の見解は、あくまで沖縄の帰属問題を巡ってなされた政治的発言の一つであって、実際の歴史とは分けて考えなければならないものであるということには注意が必要である。

関連項目

脚注

  1. *第3代とする場合もある。
  2. *この伝説上の王統は現在では「孫氏」と名付けられている。ただし、もともと琉球には氏というものがく、孫氏という名称が生まれるのは琉球王が尚氏を名乗るようになった17世紀半ば以降のことである。
  3. *ただし前述の通り琉球に氏はく、尚志の「尚」を氏と解釈したのは明の誤解だった。とはいえ、以降の中山王は代々「尚氏」を名乗り、尚志の・思紹にも遡って尚思紹の名前が与えられた。
  4. *現状は編集者妄想を垂れ流した記事につき参照する意味なし。(編集者の方へ)改善されたら取消線の撤去をお願いします。
  5. *2006年11月10日の閣議決定(第一次安倍晋三内閣)時点では、まだ嘉吉附庸説は採用されていなかった。
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