相馬顕胤(そうま あきたね 1508~1549)とは、伊達稙宗の婿であり、身の丈6尺の大男であり、鉄軍配を自由自在に振り回す怪力男であり、馬肥しの名人である。通称孫次郎、兵部大夫、讃岐守。
1508年相馬盛胤の長男として生まれる。母は西左エ門尉の娘。妾腹であった。
正室・蘆名盛舜の娘との間には未だ子がなかったため、嫡男として育てられる。
もともと壮健とはいえなかった盛胤は「わしにはなんの功績もあらず、先代高胤に学ばせよ、決してわしには似せるな」と家中へ厳命し、正室の子近胤・胤乗が産まれた後も顕胤を第一とし、成長を見守った。
1520年上山義房が伊達家の最上支配に反発して蜂起し、伊達稙宗がこれを平定、最上氏を完全統制下に置く。
使者として郡左馬助を派遣し、戦勝を祝す(この時若干13歳にしてすでに政務に関わっていたといえる)
1521年元服。病臥していた父が逝去したため、陸奥相馬家第14代当主となる。
顕胤は父の願い通り、力にかけては8人力、家臣領民を愛で、上下問わず崇敬を集める立派な若武者に育っていた。
また当時の相馬家は、近年奥羽に覇を唱えつつあった稙宗と結ぶために婚姻の談合を進めていた最中であり、盛胤の死は一時的に秘されたともいわれている。
奧相茶話記によれば以下のようにして相馬と伊達は結ばれた。
盛胤存命中のある時、伊達家の使者として飯淵尾張という近隣に隠れもなき勇名を馳せる剛の者がやってきた。
相馬家中は一計を案じ、先代様は病床故面会をご遠慮願いたいと伝えた上で顕胤の元へ案内する。
顕胤がいた場所は塩噌蔵(兵糧庫、あるいは塩蔵・味噌蔵)であった。
これは当主が代わろうとも相馬家は兵糧に気を配り、乱世への備えを怠っていないという演出を意図したものである。
歴戦の勇士である飯淵尾張ならきっとその意を汲んでくれると思っての行いだった。
しかし当の飯淵は土蔵で頭を下げさせられた恥辱として受け取り、帰国後は「殿は姫君をお捨てになった」と稙宗へ讒言し「婿殿は味噌奉行の真似事をしてござる。かの体にて大将が務まろうや」と散々に悪口を言い触らして回った。
このことで当初婚姻に前向きだった稙宗も態度を硬化させ、相馬の使者を煙に巻く言動が増えてくるようになる。
いよいよ病の重くなってきた盛胤は死ぬ前に嫁の顔が見たいと強く意を発し「輿入れ成らざれば合戦に及ぶべし、わしは病躯を馬にくくりつけてでも命を投げ打つ覚悟である」と家中へ命じた。
家臣一同も「これを遺恨と思わざる者は百姓、女、子供でもあるべからず」と決議し、最後の使者を送った。
これにびっくりしたのは伊達家である。いつものように追い返そうとしても相馬の使者は頑として動かず、決死の有様さえ見て取れる。
ついに稙宗は折れ、急なことで何も用意できないが、と言いつつも輿を発たせるに至った。
ところが時を同じくして小高城では入嫁を待たずして盛胤が没してしまう。
慌てた家臣たちは遺体を棺に入れて寝所の板敷きの下へ隠し、明かりを落として影武者を立てた。
そして伊達家より随行した輿添えの使者に対し「病臥の身で礼を失するが杯を取らせたい」と布団の中から酒を注ぎ、肴として腰の物を下げ渡した。
影武者の名演っぷりを疑う者はおらず、婚姻の儀は成功の内に終わる。
そして使者が帰国しようかという頃になって盛胤の死を告げ、葬儀にまで参加させて偽装を完遂しきったのである。
時に永正17年、顕胤13歳、嫁の屋形御前は15歳のころであったという。
※盛胤の没年は1521年(永正18年7月)なので顕胤14歳、屋形御前16歳が正しいと思われる。
1529年嫡男が誕生。元服時には先代にあやかり相馬盛胤の名を与えた。
この他に一女・於北(生年不詳)をもうけている。
かくして稙宗の洞中に組み込まれた顕胤であったが、しばらくしてその地位を向上させる機会を得ることとなる。
1534年稙宗は嫡男・伊達晴宗の嫁探しを始める。
近隣諸国の風聞を一通り集めて回ると、磐城郡の領主・岩城重隆の娘・久保姫が大層美しいとの噂が耳に入ってきた。
そこで稙宗は「父子の盟約あれば何事も心安んじて相談すべく」と顕胤へ岩城との交渉を依頼した。
相馬家中はこのような大事を仕損じれば戦のきっかけにもなりかねない、と及び腰であったが、せっかくの頼みごとであるから無碍に断ることもできず、ひとまず使者を立てて様子を見ることにした。
岩城方の反応は思いもよらず上々で、顕胤は喜んで婚姻の条件を稙宗に伝えた。
※岩城には嗣子がないため第一の男子を貰い受けること、姫の館を建てることなど。
ところがまもなく重隆は変心し、相馬、田村と伊達の連合を警戒して白河の名門・結城氏と結ぼうと交渉の無効を言い渡して来る。
面目を失った顕胤は激怒し、急ぎ軍を整え岩城領へ攻め入った。
顕胤は味方が揃う前の晩から陣を敷いて待ち受け、「遅参であるぞ」と気合を入れなおして士気を高めた。
その甲斐あってか相馬の騎馬軍は苦戦しながらも木戸・富岡を抜く。
別口から岩城・結城連合を攻めていた稙宗はこれを聞きつけて援軍もしくは自身の出陣を申し出たが、顕胤は当家の遺恨であるとして断りを入れ、再び軍を動かして合戦に及んだ。
疾風怒濤の勢いで進軍を続け、岩澤では自ら愛用の鉄軍配で右の鐙の革を踏みちぎるほどの一撃を敵兵へ叩き込み、葛見川渡河戦では啄木鳥の計を以って岩城方を打ち破り、四倉城をも一気に陥落させる。
いざ仁井田城・白土城の攻略にかかろうかという頃になって岩城方の使者が現れ、婚儀の成立を認めたため四倉城を返還して和睦に至った。
※晴宗が花嫁行列に突撃して輿を奪い、当の久保姫も婚姻を嘆願したため重隆の交戦理由がなくなったことによる。
この合戦で顕胤は金沢氏、青田氏などの将を失ったが木戸・富岡の領有を確実にし、大いに面目を施した。
稙宗は顕胤の戦ぶりを大変喜び、「至孝の義戦前代未聞のことなり」と最大級の賛辞を送ったほか、自身の領地割譲さえ提示した。しかしこれを聞いた晴宗とその重臣たちが大反対したため、割譲の話は頓挫する。
その後も三男・伊達実元の越後入嗣問題などで父子の対立は深まり続け、ついに1541年稙宗は晴宗によって西山城へ幽閉されてしまった。
稙宗の側近・小梁川宗朝から密使の連絡を受けた顕胤は、晴宗の不忠を弾劾することを決め、配下の草野肥前を稙宗方の重臣・懸田義宗の元へ送った。肥前は義宗と協力して西山城に潜入し、稙宗を盗み出して懸田城へ匿う。
この時稙宗の娘を義宗の嫡男・懸田俊宗へ、義宗の娘を顕胤の嫡男・盛胤へ配し、三者同盟が結ばれた。
晴宗は即軍勢を集め、稙宗に呼応した蘆名盛氏、二階堂照行、田村隆顕、大崎義宣、葛西晴清、最上義守らも進軍を開始する。
時を置かず相馬勢も出陣し、非行を諭す書状を晴宗の陣へ送りつけたが返答はなく、懸田城を挟んでの睨み合いが続いた。
のち稙宗退去の提案を受けて陣を引き、ひとまず終戦となった。
翌1542年再び稙宗が監禁される。
顕胤は懸田城下に小屋掛けして情報収集を行ったが、晴宗援軍の岩城重隆勢が現れて敵対行動を取り始めたためこれを追い散らし、阿武隈方面へ移動した。
晴宗も米沢から出陣して信夫郡大森にて野営する。
翌朝霧の晴れた頃を見計らって両軍は激突した。天文の乱の開戦である。
相馬軍は800程の兵で晴宗勢100程を討ち、被害は水谷右兵衛以下30~60程であった。
懸田城下に帰陣した顕胤は西山城入城を企図するが、黒木弾正が陣中から脱して謀反を起こしたため、軍を再編して討伐へ向かわせた。
さらに残った手勢を2つに分け、伏兵を用いて晴宗勢を挟撃し城下まで攻略を進める。
すると実元の家臣と遭遇し、「城内には一兵もおらず、早う大殿をお迎えくだされ」と言上していった。
城内で小梁川宗朝に救い出されていた稙宗を発見すると馬に乗せ、追いすがる晴宗勢を討ち捨てにしながら撤退戦を行い、友軍の懸田勢と合流することに成功した。
顕胤は高兒原にて陣休め中、いくつか残った首を集めると首塚を築いて敵味方の区別なく供養を行った。
その中には昔婚儀を妨げようとした飯淵尾張の首もあり、遺族の元へ送るよう手配したという。
相馬軍はそのまま小高城へ凱旋し、稙宗を迎え入れて身柄を安堵させた。
続けて謀反を起こした黒木城、中村城を攻め落とし領内の守備を固め、怠慢のあった次弟・相馬胤乗を追放した。
1543年稙宗は1年余りの滞在を終え、丸森城へ入ることとなった。
相馬の度重なる忠義に深謝し、国境の巨石に「伊達七世、弓を相馬に引くべからず」と墨書きして帰った逸話がある。
その後は自領に侵攻してくる佐竹勢や晴宗本軍と戦いながらも各地を転戦し、一進一退の攻防を続けたが、やがて稙宗方に離反者が出始めたことで趨勢が決する。
1548年将軍・足利義輝の裁定が下り、晴宗方の勝利で終戦となった。
1549年小高城にて病没する。享年42。
跡を継いだ盛胤は隠居した稙宗から厚遇を受け、その一生を伊達との領土争いに捧げた。
同年一人娘の於北が田村清顕に嫁す。
戒名:崇国院殿雄山英公大居士
墓所は平田山新祥寺。
顕胤治世の領土三郡はよく栄え、人口84,350人、馬15,941頭を数えたほどであった。
小国を以って大国と伍し義を貫く相馬魂は今も相馬野馬追の神事へと受け継がれている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝(PK) | 采配 | 78 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 50 | 政治 | 58 | 野望 | 55 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 144(A) | 智才 | 98(B) | 政才 | 116(B) | 魅力 | 74 | 野望 | 66 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 54 | 政治 | 44 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 46 | 政治 | 41 | 野望 | 52 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 63 | 知略 | 43 | 政治 | 40 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 71 | 武勇 | 68 | 知略 | 70 | 政治 | 73 | ||||||||
創造 | 統率 | 75 | 武勇 | 66 | 知略 | 70 | 政治 | 76 | ||||||||
大志 | 統率 | 73 | 武勇 | 66 | 知略 | 70 | 内政 | 75 | 外政 | 74 |
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最終更新:2024/05/29(水) 17:00
最終更新:2024/05/29(水) 17:00
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