第147号輸送艦とは、大日本帝國海軍が建造・運用した第百一号型輸送艦(二等輸送艦)の1隻である。1945年1月25日竣工。八丈島輸送に投入され、対空砲火によりP-51を5機撃墜する戦果を挙げて無事終戦まで生き残る。復員輸送任務に従事したのち1948年3月31日に因島での解体を完了した。
大東亜戦争開戦時、大日本帝國海軍には輸送艦という枠組みが存在せず、輸送「船」や駆逐艦、水上機母艦を即席の輸送艦に見立てて運用していた。開戦劈頭の南方作戦や各種侵攻作戦を行っている時は特に問題は起こらなかったが、1942年8月より生起したガダルカナル島争奪戦において多数の輸送船と駆逐艦を喪失してしまう事態が発生。これを受けて帝國海軍上層部は輸送艦の必要性を痛感。1943年夏頃に高速で装備も整った2種類の輸送艦の建造を決定した。このうち片方が一等輸送艦として、もう片方が二等輸送艦として結実する事となる。
駆逐艦にしか見えない一等輸送艦とは対照的に二等輸送艦は如何にも輸送艦!な見た目をしていた。その最大の特徴は艦首部分が面になっているのである。通常ではモロに水の抵抗を受ける面の艦首など絶対にありえない設計だが、ここに輸送艦らしさが隠されている。面の艦首は積載した戦車や大発動艇を一早く揚陸するための発進口であり、二等輸送艦は砂浜に艦首を突っ込ませるだけで揚陸準備を完了させる事が出来る上、またブロック工法で建造する時はこの面の艦首が工期短縮に一役買っている。これは今まで輸送艦「役」を務めてきた駆逐艦や輸送船には無い画期的な仕組みだった。他にも傾斜からの擱座を防ぐため艦首の底はW字とし、主錨を艦尾に設置するなど大発動艇と設計が似通っている。肝心な搭載能力は九五式軽戦車14輌(九七式中戦車だと9輌)分。特二式内火艇を使った実験では14輌を僅か8分で揚陸するという優れた性能を発揮した。このように輸送・揚陸能力は申し分無かったのだが欠点もあった。22ノットの快足を持つ一等輸送艦に対し二等輸送艦は13~16ノットが限界、船の構造上波にも弱く、荒天下では出撃出来ない問題が付きまとった。何より防御力が低いので積み荷の戦車ごと沈められる事も少なくなかったという。大量生産の結果、69隻が完成して22隻が陸軍に引き渡された。
要目は排水量810トン、全長80.5m、全幅9.1m、出力2500馬力、最大速力16ノット、乗員99名、重油搭載量208トン。兵装は8cm単装高角砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、爆雷投下台6基、爆雷12発。電測装備は電波探知機1基。積載能力は戦車133トン、戦車用燃料9.5トン、弾薬7.7トン、糧食21トン、真水15.1トン、その他軍需品15トンの計216.2トン。艦載艇として9mカッター1隻と10m特型運貨船1隻を持つ。
1944年2月5日、官房軍機密第136号により第147号特設輸送艦と命名される。9月5日の内令第1047号により竣工後は陸軍に配分されて第147号の名前を取り消される事が決まった。10月6日に川南工業浦崎造船所で起工、12月15日に進水式を迎える。
そして1945年1月25日午前11時30分に竣工・受領。午前11時45分より軍艦旗掲揚式を挙行した。竣工と同時に海軍へ所管を戻されて第147号輸送艦に改名、本籍地を横須賀鎮守府に定めて連合艦隊附属第2輸送隊へ編入された。一刻も早く最前線に出られるよう、翌日から乗組員の教育と諸訓練、整備作業が始まった。1月29日に牧崎藤吾大尉が艦長に着任して乗艦。軍需品と糧食の積み込みを2月1日まで行い、2月2日午前8時から16時15分まで弾薬の搭載を、2月3日13時から16時15分まで爆雷の搭載作業を実施。2月5日に浦崎を出港して伊万里で諸試験に従事。それが終わると浦崎へ戻り、燃料と糧食を積載して2月10日に佐世保に回航、2月12日から15日にかけて軍需品の積載作業を行う。
2月20日午前8時、神戸へ向かうべく佐世保を出港。危険な夜の航海を避けるため16時10分に博多湾へ立ち寄って仮泊する。翌日午前7時31分に博多湾を後にし、午前11時40分に関門海峡を通過して瀬戸内海西部へと入り、22時20分に斉島にて仮泊。2月22日午前5時55分に斉島を出発し、同日17時15分に神戸へと到着。第4岸壁に右舷側を横付けする。2月23日午前11時22分に神戸を出発して15時57分に的矢港に回航。2月28日午前6時11分から午前10時まで接岸訓練を実施した後、横須賀へと向かうためまず静岡県清水へ寄港。3月2日午前8時3分に清水を出港した第147号輸送艦は本籍地の横須賀を目指すのだが、本土近海にまで米潜水艦が跳梁跋扈している事から午前8時15分より艦内哨戒第二配備に移行。幸い雷撃を受ける事無く同日15時25分に館山港へ到着して仮泊。3月3日午前8時22分に館山を出発して13時に横須賀のY5番浮標に繋留された。3月13日の横鎮電令作第63号により、いよいよ八丈島への輸送任務を命じられる。実戦の時が刻々と迫りつつある中で着々と訓練をこなしていく第147号輸送艦。3月26日午前9時から翌27日15時30分まで輸送物資156.5トンと真水の搭載作業を実施。3月29日14時に八丈島輸送従事のため横須賀を出発し、17時55分に外港に相当する館山まで移動する。
3月30日午前6時に館山を出港。待ち伏せているであろう敵潜を振り切るため最大戦速で危険海域を駆け抜ける。戦闘に備えて午前7時から28分間教練射撃も行った。同日15時37分に八丈島神奏港へ到着。17時30分から22時30分まで輸送物件の揚陸作業を行う。翌31日午前6時より八丈島から疎開する便乗者を乗艦させ、午前6時30分に神奏港を出発、8分後に最大戦速へ上げて再度危険海域の突破を試みる。幸い何ら攻撃を受ける事無く、18時に横浜の第8号岸壁に横付け。現地で便乗者を退艦させている。4月1日に横須賀へ回航。最初の輸送任務を終えたのも束の間、すぐに次の輸送任務のための物資171.3トンを4月20日から翌日にかけて積み込み、横須賀を出港して館山へ回航。4月22日に館山を出港して最大戦速で危険海域を突破、八丈島にて14時40分から23時まで揚陸作業を行い、23時から翌23日午前1時まで搭載作業を実施。敵の目を掻い潜りながら横浜まで駆け抜けて物資を揚陸した。増大する敵機の脅威に備えて5月4日より横須賀工廠で第4~7番機銃甲板を拡充する工事を受けている。5月10日出渠。5月20日午前9時55分から45分間重油の搭載作業を行い、5月21日午前6時から16時まで再び八丈島へ輸送する物件163.3トンと人員14名を積載。5月22日に横須賀を出発。館山を経由して5月24日朝に八丈島へ到着、13時45分から23時まで
揚陸作業を行った。今回もいつものように無傷で任務を完了出来るかに思われたが…。
5月25日午前4時、横須賀へ帰投すべく八丈島を出港。しかし道中の午前11時38分に関東海面警戒警報が発令され、艦内哨戒第一配備。午後12時5分には浮島南方6海里にて東南に向かうP-51戦闘機2機を目撃。それから間もない午後12時30分、120度方向高度600mの雲間よりP-51戦闘機5機が突如出現、超低空から接近しながら1機ずつ機銃掃射を加えてきた。直ちに第147号輸送艦も対空射撃で応戦。うち1機が損傷を負ったのか正横3000mの海中に墜落。もう1機は発火しつつ退避したものの第147号は墜落した可能性大と考えた。午後12時32分、右舷側より残余の3機が艦首方向より突進、第147号からの熾烈なる対空砲火を受けて2機が艦尾後方1000mに墜落、残った最後の1機が遁走した事で戦闘終了。見事敵機を撃退してみせた。しかしさすがに無傷とはいかず、後部単装機銃3基や前部連装機銃等が被弾して使用不能と化し、缶室への被弾で最大速力が9ノットに低下、死傷者への応急処置も急務だった。だが敵は息つく間を与えてはくれなかった。午後12時50分、P-51戦闘機2機が120度方向1500mより突入してきたため対空戦闘。機銃弾に撃ち抜かれた1機が火を噴きながら右舷側へ離脱。もう1機は第147号に突撃してきたものの対空砲火に阻まれて断念して退避。13時6分の関東海面警戒警報解除に伴って対空戦闘を停止。一連の戦闘で准士官以上1名、下士官6名、兵14名が戦死する被害を受けたのに対し、3機撃墜、2撃撃破の戦果を挙げた。同日中に横須賀へ入港。
5月30日に25mm対空機銃の位置を変更。6月1日、二代目艦長に木村三雄大尉が着任。
7月5日午前2時に館山湾を出発して八丈島輸送に向かう。日が昇った午前8時45分、「敵小型機80機、母島の27度100km進行」との通信を受信し、7分後に総員を配置へ就かせるとともに御蔵島の島影で迎撃のための準備を整える。午前10時5分に関東海面警戒警報第一種発令。最大戦速で空襲が始まる前に八丈島へ駈け込もうとしたが、午後12時35分にB-24が8km先で飛行しているのを発見し、対空射撃開始。その直後に3機のB-29を護衛するP-51の三個集団約80機が南下しているのを目撃している。午後12時40分、左舷方向よりP-51戦闘機十数機が正横より急速接近、対空砲火により2機を撃墜し、B-29にも命中弾を与えて発火させるもそちらは墜落には至らなかった。高角砲15発と機銃弾2600発を発射して敵機を追い払った。13時44分に何とか八丈島へ到着。上空にはB-24が第147号を執拗に付け回していた。夕方頃、浮上した潜水艦と発光信号を交わしたB-24が退避していったため対空警戒終了。便乗者66名と第208設営隊用レール300本を積載して7月6日に八丈島を出発、同日中に横須賀へと入港する。8月5日から7日にかけて最後の八丈島輸送に従事。
戦争を生き残った第147号輸送艦であったがこれで全てが終わった訳ではなかった。外地には未だ600万にも及ぶ邦人が取り残されており、彼らを帰国させる一大事業が控えていたのである。二等輸送艦の第147号にはおあつらえ向きの任務であり、早速12月1日に内令第6号が発令されて横須賀地方復員局所管の復員輸送艦に指定、12月10日には「輸第147号」に改名されている。
多くの人々に再び祖国の地を踏ませた第147号は1946年12月15日に特別保管艦に指定。強大な海軍力を持たない中華民国とソ連の働きかけにより、特別保管艦は米・英・ソ・中の四ヵ国に抽選で振り分けられる事となり、第147号はアメリカが取得。しかし既に膨大な数の輸送艦を持っているアメリカには不必要だったため実質拒否される形で日本に残り、1948年2月から3月31日にかけて因島造船所で解体された。11月13日に二度目の除籍。
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