第186号海防艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した丁型海防艦の1隻である。1945年2月15日竣工。奄美大島への強行輸送に従事中の4月2日に航空攻撃を受けて沈没した。
第186号海防艦は、船団護衛用に大量生産された丁型海防艦67隻のうちの1隻である。
大東亜戦争開戦劈頭より大日本帝國海軍は護衛艦艇の少なさに頭を悩ませていた。護衛用に簡略化を進めた日振型や鵜来型海防艦が作られたが、悪化し続ける戦況に対応するため更なる簡略化・小型化が求められ、まず最初にディーゼル機関を採用した丙型海防艦の建造計画が立てられた。しかし機関の生産能力不足で丙型が作れなくなる事を危惧し、従来の蒸気タービンを搭載した戦時急造型海防艦の建造計画も用意され、それが丁型海防艦となる。
ディーゼル機関を採用した丙型海防艦と比較して最大速力と出力に勝るが、その代わり燃費と航続距離の面で劣り、所要航続距離の4500海里を満たすため丙型より134トン多い、240トンの燃料を積んでいる。また、丁型は戦時の戦闘艦で唯一の1基1軸となり、蒸気タービンを搭載した都合上、煙突の位置や形状が丙型と異なる。丙型と丁型には陸軍の九七式曲射歩兵砲を改造した三式迫撃砲を装備。主に対潜威嚇用として運用された。
丁型海防艦にしては珍しく写真が1枚だけ現存しており、主砲の45口径12cm単装高角砲が最大仰角になっているのが分かる。
要目は排水量740トン、全長69.5m、全幅8.6m、搭載重油240トン、最大速力17.5ノット、乗組員141名。兵装は45口径12cm単装高角砲2基、25mm三連装機銃2基、三式単装迫撃砲1基、三式爆雷投射機12基、爆雷投下軌条1基、爆雷120個。
1944年11月4日、建造費536万3000円を投じて、第2793号艦の仮称で三菱重工長崎造船所で起工。12月8日に第186号海防艦と命名されるとともに内令第1329号により第二號型海防艦に類別され、12月30日に進水、1945年1月20日に楠見直俊大尉が艤装委員長に着任し、1月22日に飽ノ浦町海軍監督官事務所内に艤装員事務所を設置して事務作業を開始、そして2月15日に竣工を果たした。初代艦長には艤装員長の楠見大尉が着任している。佐世保鎮守府に編入すると同時に訓練部隊の呉防備隊に所属。
佐伯湾にて対潜訓練や慣熟訓練を行う第186号海防艦。しかし乗組員の3分の1が、艦に乗るのが初めてで経験も体力も無い第二補充兵で占められており、手旗信号以外は信号すらまともに打てないという末期的状況を晒していたという。
それでも何とか訓練を重ね、3月27日に佐世保鎮守府部隊に転属。翌28日、佐世保鎮守府電信令作第80号が発令され、第186号は九州方面護衛部隊護衛本隊に編入、更に奄美大島への輸送を企図した大島輸送隊に加えられた。既にアメリカ軍は沖縄西方の慶良間諸島への上陸を開始していて、沖縄に直接物資を輸送するのは困難と判断した上層部は、沖縄の手前にある奄美大島・加計呂間(かけろま)島の大島守備隊に特殊潜航艇、弾薬、地雷、糧食などを一旦揚陸、その後機を見て沖縄、石垣島、宮古島にピストン輸送を行おうと考えた。3月30日には支那方面より抽出された第17号駆潜艇が大島輸送隊に加入。
大島輸送隊の陣容は第17号輸送艦(旗艦)、第186号海防艦、第145号輸送艦、第146号輸送艦、第17号駆潜艇、第49号駆潜艇の計6隻。第186号は大島輸送隊唯一の海防艦だった。いずれも寄せ集めの艦艇で経験に乏しく、編隊航行さえも出来ないほどの練度未熟だったため、第17号輸送艦の丹羽艦長は作戦参加の各艦長に命令書を手渡し、詳細な打ち合わせを行っている。
3月31日18時に大島輸送隊は佐世保を出港。湾内にはB-29が敷設した機雷があってまずはこの機雷原を突破しなければならなかった。寺島水道で短時間の停泊を行って時間調整した後、輸送船3隻を護衛して真夜中の東シナ海へ進出する。第186号海防艦は17ノットを発揮出来たが、2隻の駆潜艇の最大速力が12ノットなので、輸送隊は最も足が遅い駆潜艇に合わせなければならなかった。道中で敵潜を探知した第17号駆潜艇が迎撃に向かうも幸い何も起きずに済む。
4月1日午前5時55分、大島輸送隊はアメリカ軍の偵察機に発見され、敵は「軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、揚陸艦3隻、揚陸艇2隻」と認識。速力と針路から沖縄本島を目指しているものと判断した。しかし、如何に潤沢な物量を持つアメリカ軍と言えど眼前に迫った沖縄上陸作戦に注力する必要性から、大島輸送隊を攻撃するための戦力を割けなかった。
アメリカ軍が沖縄に上陸した事により一時的に九州方面への攻撃の手が緩み、大島輸送隊は空襲を受ける事無く順調に航海を続けていた。もし敵が万全の状態であれば既に空襲を受けていたであろう。その後、沖縄南西で撃沈された電線敷設艇大立の生存者33名と便乗の工員6名が内火艇で漂流しているのを発見。第17号輸送艦が彼らを救助している。奄美大島へ向かうには最も危険な南西諸島沿いを日中航行しなければならかった。種子島近海西方を通りがかった時、哨戒中のPBYカタリナ飛行艇に発見され触接を受けるようになり、更に14時24分から15時24分までB-24爆撃機2機の触接を受けたため、輸送隊は一度北上して偽装航路を取る。攻撃は無かった。また大島輸送隊の徳之島西方海域突入を援護するため第951航空隊所属の零式水上偵察機3機が対潜掃討に出撃。ささやかながら支援してくれた。
日没後に大島輸送隊は大島海峡西方の曽津高岬を回り、海峡入口に差し掛かって速力を6ノットに落とした。しかし一時は沖縄上陸に忙殺されていたアメリカ軍も余力が生まれ、ヨークタウンⅡから夜間戦闘用F6Fグラマン4機が発進、少し遅れてラングレーから第23雷撃飛行隊所属のTBFアベンジャー雷撃機5機が出撃。
20時35分、海峡入口にて敵艦爆2機が上空を通過していくのを発見。これはヨークタウンⅡの艦載機であった。夜間の対空射撃は効果が薄いとして丹羽艦長は射撃禁止を命じていたのだが、第186号海防艦がその命令を無視して発砲してしまい輸送隊の位置が露呈。すぐさま敵機4機が戻ってきて月光に照らされた大島輸送隊に機銃掃射とロケット弾による攻撃を加える。輸送隊は激しい対空砲火を上げて反撃。だが攻撃が続くにつれて次第に弱くなっていった。そこへラングレーから出撃した後続の夜間雷撃隊5機が突入。分散しながら個々に魚雷を投下した。全艦命中弾を受けなかったものの第186号は戦死者1名と負傷者7名を出す。
4月2日午前1時、輸送隊は目的地の加計呂麻島北東岸・瀬相湾へ到着。雨が降りしきる中で各輸送艦は直ちに揚陸作業を開始する。揚陸作業は大島防備隊や大島蛟龍隊の関係者、地元の瀬相集落がリレー方式で手伝ってくれた。夜が明けると敵の空襲が予期される事から丹羽艦長は防備隊首脳部と協議。第17号輸送艦及び第186号海防艦は岸壁から遠く離れて避泊、2隻の二等輸送艦は別々の入り江に入って浅瀬に乗り上げ、地上から切り出した樹木で艦体を陸地の一部に偽装、2隻の駆潜艇は瀬相の海岸ギリギリのところで投錨した。軍民一体の共同作業で午前6時30分までに9割の分散揚陸が完了。
1945年4月2日午前6時55分、夜明けとともに第58.4任務部隊から飛び立った敵艦上機71機が瀬相に襲来。直ちに輸送隊の全艦が地上の防空砲台と一斉に対空砲火を上げて迎撃する。第186号は砲術長竺覚盛少尉の指揮のもと高角砲や機銃群で応戦。敵機3機撃墜、6機撃破の戦果を挙げた。
しかし直撃弾2発を受けて25mm連装高角機関砲が大破、竺少尉以下53名が戦死し、多くの重軽傷者を出してしまう。敵の急降下銃爆撃は執拗を極めた。損傷部から浸水し、機関室では火災が発生、排水・消火作業ともに困難となった第186号は、午前10時30分に艦尾より沈没(艦橋後部に直撃弾を受けて轟沈したとも)。輸送隊最初の喪失艦となった。楠見艦長は無事生き延びたようで、後に第30号海防艦の艦長に就任している。
決死に応戦していた第17号輸送艦も19時30分に誘爆して沈没。生き残った第145号、第146号輸送艦、第17号及び第49号駆潜艇は生存者を収容して、4月4日に大島を出発。座礁放棄された第145号輸送艦を除いて佐世保へ帰投した。
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