藤原道長の息子で、父子ともども摂関政治の頂点にあった、以上で済まされる感のある存在(後は平等院鳳凰堂の人)。
ただし、おそらく温厚だった彼は、子供も碌におらず、正直あんまり強いリーダーシップを発揮できなかった。結果として、長い人生は、弟とは対立したり、外戚化に失敗したことで後三条天皇の即位を導いたりと、様々な難所があった。結局彼の代で摂関政治は終わり、院政期に移っていく。
藤原道長と、宇多源氏源雅信の娘・源倫子の間に生まれた。幼名は田鶴。藤原彰子は4歳上の姉。
誕生したころはまだ藤原道隆の生前であり、ちょうど中関白家の最盛期に当たる。この後に、藤原道隆の死、藤原道兼の死、長徳の変での藤原伊周・藤原隆家の配流などによって、あっけなく藤原道長の時代となる。
こうして長保2年(1000年)に、藤原道長が娘である藤原彰子を、姪で中関白家の藤原定子と同格の一条天皇のキサキにさせた、「一帝二后」が実現される。こうなると、長保5年(1003年)に藤原頼通は12歳で元服と同時に正五位下となる。完全に摂関家の跡目にふさわしい叙爵であった。
この後、寛弘3年(1006年)に従三位となり、15歳で公卿となっている。父・藤原道長が同じ歳の時は、従五位下であり、藤原頼通は確かに摂関の嫡子としては普通であるものの、平均と比べると爆速の出世であった。というか同じ年には正三位、寛弘5年(1008年)には従二位、寛弘6年(1009年)には権中納言になっている。だいたい藤原伊周と同じくらいのスピードと言っても過言ではない。
ただし、その後、朝廷の高位を無害な無能の親戚たちが大量に占めていたので、ポストが空かず出世のスピードは落ちる。とはいえ、長和2年(1015年)に権大納言、寛仁元年(1017年)に内大臣に昇進。27歳の時である。
この大臣昇進というのは、例えばいとこの藤原伊周は21歳で行っている。とはいえ、藤原頼通に特徴的なのが、この年に藤原道長が生存しているにもかかわらず、摂政を譲渡されたということである。摂政の生前譲渡は初めての事例であり、完全に藤原道長が藤原頼通を軸に、脇を藤原実資などに補佐させる後継体制が整った。
この前提となるのは、この前年に藤原道長が三条天皇を退位に追い込んだことである。この結果、意外なことに藤原道長は後一条天皇朝で、人生初の摂政となった。しかし、1年余りで息子に譲ってしまったのである。
この理由とされるのは以下2点である。第一に、藤原道長は既に後一条天皇と後の後朱雀天皇の外祖父となっており、特に摂政にこだわるわけはなかった。第二に、ここまで摂関の継承は散々もめてきたので、父子継承をさっさとさせておきたかった。
そして摂関を息子に譲ると、寛仁3年(1019年)に藤原道長は出家する。翌年には法成寺を作るが、依然政治的影響力は持ち続けた。たとえば、治安3年(1023年)には藤原道長が藤原頼通を、役人に対する監督が不十分だったため、衆人の前で怒る姿が記録されている。
で、万寿4年(1027年)に藤原道長が亡くなった。そしてここまでの記述を見てわかる通り、藤原頼通は、藤原頼通が主語となる何らかの主体性を発揮してきたわけではなかった。
なお、この翌年に起こったのが平忠常の乱である。また、後に前九年合戦なども発生し、藤原道長の時代には全く起きていなかった強訴も洛中で起きるようになり、彼の代こそ古代から中世へ移り変わる分水嶺ともいうべき時代となる。
長元9年(1036年)に藤原道長が支えた後一条天皇が亡くなると、その弟の後朱雀天皇が後を継ぐ。ここまではよい。ところが、藤原頼通は、正直言って碌に子供がいなかった。
この辺は文学作品である『栄花物語』に、妻である村上源氏の隆姫女王の気質は褒められたものの、父・藤原道長が「お前全然子供ないやんけ、とっとと二人目の嫁娶れや」と言われて藤原頼通が困惑し、藤原道長が叱責するというエピソードが残されている。ので、藤原頼通が、絆を重んじ、政治のために愛を囁けないタイプだったのは、少し先には文学作品中では公然の前提として語り継がれていたようだ。
結果、後朱雀天皇に敦康親王(一条天皇と藤原定子の息子)の娘を養女とし、藤原嫄子として嫁がせるものの、彼女は皇子を生まないまま亡くなる。この結果、後朱雀天皇には三条天皇の皇女・禎子内親王との息子・尊仁(後の後三条天皇)くらいしかいなくなってしまった。
ここまでであれば、まだよかった。しかし後朱雀天皇が亡くなると、残り藤原道長系の皇族は、跡を継いだ後冷泉天皇くらいしかいなくなった。焦る藤原頼通は、ようやく側室である因幡守・藤原頼成の娘との間に生まれた藤原寛子を後冷泉天皇に嫁がせるが、この二人は特に子供を作れなかった。
なお、藤原頼通は、男子すら割と恵まれていない。確かに、万寿2年(1025年)に村上源氏の源憲定の娘との間に藤原通房を設けているが、長久5年(1044年)に失っている。しかも、あまりにこの藤原通房を嫡子として扱った結果、それ以降生まれた男子はポンポン養子入りされて、摂関後継者として全く扱ってなかったのである。結果、藤原頼成の娘との間に長久2年(1041年)に生まれたばかりの、当時まだ3歳である藤原師実を、後継者にせざるを得なかったのだ。
後朱雀天皇が亡くなり、後冷泉天皇の践祚も見えてきたころ、いやお前全然ウチのミウチじゃないやんけと、藤原頼通は尊仁親王の出家をもくろむ。ところが、抵抗勢力が強く、失敗してしまった。ここで抵抗勢力となったのが、藤原道長と源明子の間に生まれた異母弟、藤原頼宗・藤原能信らである。
彼らは藤原頼通だけではなく、弟の藤原教通より下位に退けられ、逆に反主流派としてこの尊仁と結びついてしまったのである。早い話、現職のトップに碌に後継者がおらず、これまで抑圧されてきた庶流の人々が、藤原頼通の対抗陣営となれるほど成長出来てしまったのである。例えば、藤原能信は、尊仁親王の養女・茂子を妻としている。
ただし、彼らは後三条天皇の即位前に、康平8年(1065年)に相次いで亡くなった。とはいえ、藤原頼宗の系統は、以後中御門流として朝廷の重要な位置を占める。
また、例えば『古事談』という後世の書物に、そんな彼ら庶子に対し、「お前ら庶流なんだから俺ら嫡流の子供とは違うの!」とでも言わんばかりのエピソードが記された、同母弟・藤原教通も、なんとか藤原頼通への対抗をもくろんだ。後朱雀天皇には娘の藤原生子を嫁がせたまではまだいい。後冷泉天皇に至っては、藤原頼通に先立つ形で娘の藤原歓子を嫁がせ、先に皇子まで作っている(最もすぐ死んだので外戚化に失敗したが)。
ただし、まだこの頃は、そこまで対立は目立つものではなかった。確かに、例えば『古事談』には藤原頼通が藤原師実に関白を譲ろうとした際、藤原彰子が「藤原道長が言っていたんだから」と天皇に進言し、とりあえず跡目は藤原教通に譲渡される予定になったというエピソードが残る。が、これは遥か後世の書物であり、そもそも後朱雀天皇の時代の末期に生まれた藤原師実に譲る云々の話が、後朱雀天皇の代に行われるのはおかしい、などあり、おそらくどこかから生やされたものである。
とはいえ、弟たちと争いつつも、ついに治暦4年(1068年)に後三条天皇が即位してしまった。つまり、藤原頼通は彼を追い出そうとしてから20年近く、皇子も生まれず何もできなかったのである。しかも、この前年に藤原頼通は関白を辞任し、息子・藤原師実に関白譲りたいと藤原教通に相談したが、「いや天皇に言えよ」と言われた結果、後三条天皇に回され、後三条天皇によって藤原教通が関白とされてしまったのである。
確かに、後三条天皇はたとえば藤原師実の養女・賢子を皇太子・貞仁(後の白河天皇)のキサキとしている。しかし、後三条天皇は、白河天皇の弟である、実仁親王と輔仁親王を白河天皇の後継者とし(後に失敗するが)、この系統に跡を継がせないようにしている。これらから、関白を藤原教通の流れに、外戚をとりあえずは藤原頼通の流れに据えさせておき、摂関家の解体までもくろんでいたとも言われている。
おまけに、こうした事態は、摂関家から他の公家の離反を招いた。後三条天皇の下には醍醐源氏の源能俊・源隆綱・源俊明兄弟や、大江匡房、小野宮流藤原氏といった有力な官人たちもついた。つまり、摂関家と天皇家のミウチ関係の解消に伴い、ミウチ関係を結べなかった他の貴族たちに出目が出て来たのである。
その中で、藤原頼通は延久4年(1072年)に宇治で出家した。法名は蓮華覚→寂覚。しかし、後三条天皇は延久5年(1073年)にあっけなく死んだ。藤原頼通はあえて賛辞を残したという。そのまま藤原頼通もまた、翌延久6年(1074年)に亡くなった。
この後さらに面倒なことが起きる。承保2年(1075年)に、藤原頼通の後継者どうする問題が起きたのである。そしてここで、白河天皇は、後三条天皇がどう思っていたかを知ってか知らずか、賢子を寵愛していたこともあって、以下の決定をする。つまり、藤原教通の息子・藤原信長ではなく、藤原頼通の息子・藤原師実を関白にさせた。かくして、摂関流はかろうじて一本化できたか、天皇の従属・依存が強まり、院政期に移っていく。
と、ここまで書くと、この藤原頼通何もやってないやんけと言いそうになるので、ある事績だけは書いておく。藤原頼通の代に行われたのが、荘園の集積、つまり「摂関家領」の形成である。後世の『愚管抄』で後三条天皇の荘園整理令に対して、「なんでうちがそんなことするんだ」と文書の提出を彼が拒否した逸話が知られるが、これが事実かどうかはともかく、荘園が彼の代で集積されたのは、慈円が考える通りである。
彼の集積した有名な荘園として、源満仲が開発した摂津国多田荘や、太宰府の平季基・平良宗兄弟が開発した南九州の島津荘などがある。当時はまだ国司クラスの地方武士などにも、摂関家の威厳は強力だったのである。
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