133
121 ななしのよっしん
2023/10/26(木) 03:01:16 ID: DfFMSn25ea
中部の武断派勢と違ってわりと紆余曲折で東軍入りしてんだよね
ただ三成だけは何がどうあってもブチ殺したい強い思いがあったようだが
122 ななしのよっしん
2023/12/29(金) 21:28:41 ID: wi+cbAEPFQ
清正の虎退治、最近ではあった説が有力になってきてる。
相手側の一次史料に瑣尾録という、当時の朝鮮人の避難日記があったのだけど、1595年3月4日に清正が愛馬の敵討ちと称して虎を捕らえた、など記述されている。
日本側の史料では同年4月12日に秀吉から清正宛に感謝状が送られてただけなのだけれども、相手側から同じ供述が見つかったことから裏付けが取れた。
123 ななしのよっしん
2023/12/29(金) 22:10:10 ID: wi+cbAEPFQ
>>55
「清正と忠広、肥後加藤家改易の研究」と「加藤忠広の基礎的研究」によると、幕府は改易したくなかったのだけれども、
忠広の失政(石高の改竄、強圧的な徴税、旱魃への未対策などで統治機構が壊れていた)と忠広が側室を優遇したことによって生じた正室・側室間の人間関係のもつれが光正謀書事件の穿鑿で露呈してしまって、正室崇法院、ひいては幕府を蔑ろにする行為を見逃せなくなり、武家諸法度八条に違反したとして改易になったのが真相らしい。
本来なら加藤家は清正死去時に無嗣改易だったのを大目に見て特別に相続を認めたり、大阪の陣の時の牛方の利敵行為、お家騒動の収拾ができなかったといった一つでも他の家なら改易になっているような失態を「忠広が若いから」と寛大な配慮で許してしまってる(この寛大さが仇になり、加藤家家臣団に深刻なモラルハザードが起きたらしい)のを見ると、やはり幕府は加藤家を取り潰したくなかったと解釈する他にない。
後は個人的には、天下普請における活躍があるように思える。幕府が外様大名の力を削ぐために天下普請をさせたというのは旧説になってて、実は徳川家グループのみで最新鋭の城を作るのが不可能だったから外様大名に普請させていたらしい。加藤家自体が築城の名家だったから、武断政治の方針を取っていた幕府にとっても加藤家を取り潰す不都合の方が大きかったのではないだろうか。
とはいえ、その天下普請の負担が領土にのしかかって農民疲弊と統治機構の崩壊を招いたのは皮肉にもならないが。実際、細川忠利に(天下普請や過度な参勤交代は)「下々を草臥れさせる天下の大罪、病」と批判されてるし。
124 ななしのよっしん
2023/12/29(金) 23:16:15 ID: wi+cbAEPFQ
>>106
清正は上杉討伐には反対してて、家康自身も家臣団から何度も諌められていたらしい。
個人的には、庄内の乱のことを思い出して突発的にキレたのではと考えてる。
謹慎説もあるけど、清正から家康に会いに行ってるのに監視の目が届く伏見や大阪に謹慎させるわけでもなくわざわざ肥後に監視も付けずに戻すのは野放しと変わりないだろうし、清正は伊集院の支援に失敗してるけど、伊集院への支援に成功した伊東家は謹慎させられてもないし咎められてもないし、上洛禁止令も出されてない(島津義弘から抗議はされてるが)。
清正だけでなくほかの九州大名も上洛不要だとされてるのに清正だけ謹慎だと言うのはさすがに言い過ぎな気がする。
それに、そこまで関係が冷え込んでたら関ヶ原の戦後処理で、伊達政宗と同じように加増の約束すら反故にされることはあっても、加増された32万石のうち20万石を軍役を課せられない無役高として優遇するようなことにはならないと思う。むしろ、家康は清正を贔屓してるように見える。
125 ななしのよっしん
2023/12/31(日) 16:46:31 ID: wi+cbAEPFQ
>>118
そこら辺の事情は「飢餓と戦争の戦国を行く」を読むと解像度がより上がるかも。
肥後は戦国大名の草刈場と化してて人間が輸出物になってた状況で秀吉の命令とはいえ奴隷売買で利益が上がらないように政策してる。
治水農政としては一次史料として一通しか確認できてないのだけれども、傍論としては1608年の検地では40%近い伸びを見せており、考古学的手法によるものでは熊本城周りの治水工事があったことが証明されてたり、関ヶ原の後には麦の生産を命じて海外貿易で恒常的な利益が得られる状態にして民衆に還元したとされてる。
後に肥後入りした細川忠利も、検地が済んだ感想を「数年慎めば我々はかねもちになれる」と記したほどにはインフラ整備は進んでいたと考えられてる。
飢餓地獄、人身売買地獄だった肥後一帯に秩序と食える環境をもたらしてたら長期的には税の問題があったとしても死の直後から神格化が始まっても不思議ではない。
126 ななしのよっしん
2024/04/23(火) 02:40:23 ID: DfFMSn25ea
後から入ってきた身分なのに熊本の王みたいになってるのは肥後国がぜつみょーに統一されてなかったのがデカいよな
127 ななしのよっしん
2024/12/04(水) 00:23:12 ID: cXVz6AI3hU
日輪のデマルカシオンの清正がDQN過ぎて笑う
どんだけ小西嫌いやねん
128 ななしのよっしん
2025/05/06(火) 18:39:11 ID: 263xTipfdP
韓国ドラマの『軍師リュ・ソンリョン』(原題:懲毖録)政治劇としてはすごく面白いんだけど、加藤清正が殺した相手の血をペロペロするサイコパスキャラになってるのだけ笑っちゃう
朝鮮との外交に関わってた宗義智や小西行長と比べて序盤のキャラ付けに困ったのはわかるが…w
129 ななしのよっしん
2025/09/02(火) 14:11:51 ID: XyepS45teY
主戦派で李氏朝鮮の大敵だが、現地支配の政はまとも
というか偽文書使ってでも和平を進めた小西や小西と隣接する島津の乱取りが特に酷い
という点からキャラ付けもできそうだが、敵ながら天晴れ、のキャラ付けはまあ難しいだろうな
130 ななしのよっしん
2025/09/20(土) 20:05:19 ID: 263xTipfdP
>>129
人的な被害で言えばそうだと思うんだけど、朝鮮側は戦中から加藤清正をかなり憎んでいたようで、『乱中雑録』では加藤清正が倭賊の中でも最も悪どい敵だとしていた
理由は清正は人を殺すだけでなく山を削り川の流れを変え、朝鮮の国土そのものを永久に変えてしまったからだと
日本では築城や治水で名高い清正は朝鮮ではその技術を破壊に使ったということかな
領民に愛され敵に憎まれるというのは武将としては最高の評価かもしれないが
それとどうも戦後の朝鮮では清正は豊臣日本軍の象徴のようになっていたらしく、ハングル版の『壬辰録』のなかには加藤清正が総大将にされた版もあるようで面白い。その場合は平(豊臣)秀吉が清正配下の武将になっている逆転現象が起きているとか
流石に漢文版ではそこまで飛躍した版はないらしい
131 ななしのよっしん
2025/09/20(土) 20:21:22 ID: t8tQINIXn2
逆に言えばそんだけ加藤清正というバケモンが脅威だったということかもしれない
寒冷で平地も少なく海すぐ山みたいな半島を攻め登るにはそれこそ進軍しやすい道を作ることからやらなあかんしそのための労働力は当然現地徴収だろうし、
いざ戦闘になれば現地側はゲリラ戦法で地の利はありかつ海戦では明軍の奮闘で支援も切れてるはずなのに、清正部隊はいつまでもクソつえーしで向こうさんからすればもう憎くて憎くて仕方ないだろう
まあそんだけ苦労した加藤清正が帰ってからは、若いころとは別人のように沈思黙考の人になっていたという話もわかるような気がする
132 ななしのよっしん
2025/10/20(月) 16:33:34 ID: 263xTipfdP
確かに朝鮮は清正軍のことを最大の敵と考えていたようで、豊臣日本軍への寝返り工作も清正軍を主な標的にしたらしく、先鋒将一人(この人は出兵直後に寝返っているから工作は関係ないかもしれないが)、組頭五人、職人や人足を朝鮮側に引き込むことに成功したようだ
面白いのが加藤清正その人も寝返り工作の対象だったらしいところで、講話交渉中に義兵僧の松雲大師が清正に
「なぜ地方官の家系であるあなたが秀吉のごとき傭人に仕えるのか」
「異国であれば中央の官人にもなれる」
「新たな関白になりたいのならば朝鮮が手を貸す」
と誘いをかけている
日本人としては、仮に秀吉への忠誠心がなくとも肥後半国から関白は無理だろと思うが…w
なぜ秀吉に従っているのか疑問に思うくらいに強い武将と見られていたということか
もしも本当に清正が朝鮮に寝返っていたらどこまで出世できたんだろうか…
133 ななしのよっしん
2025/10/21(火) 16:44:13 ID: 263xTipfdP
>>132をちょっと訂正、確認したら松雲大師や李謙受が清正を引き込むために語った条件は「清正を関白もしくは日本国王にするために「明軍の劉綎が」協力するであろう」だったわ
あからさまに空手形だった
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