細川忠利(ほそかわ・ただとし 天正14年(1586年)12月21日-寛永18年(1641年)4月26日)とは、江戸時代前期の大名である。
肥後細川家三代、豊前小倉藩二代藩主、後に肥後熊本藩初代藩主。官位は越中守。
明治維新に至るまで続いた、肥後熊本藩の基礎を築いた名君である。
父・細川忠興、母・たま(ガラシャ)の間に三男として生まれる。幼名は光千代。
幼い頃から病弱だった為、ガラシャは光千代に洗礼を受けさせたという。
徳川家への人質として、15歳の時に江戸城に入城。徳川秀忠に仕え、後の老中・稲葉正勝らと友誼を結ぶなどし、その人脈を培った。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では秀忠に従い、初陣の願いを出すも出陣を許されなかった。この時忠興のアドバイスに従い、陣中見舞と称してたびたび秀忠を尋ねており、心がけ殊勝であるとして改めて覚えめでたくなったという。
戦後、父の勘気を蒙って廃嫡された長男・忠隆に代わって世子となった。
前述の通り、徳川氏との関係・人脈を考慮しての事だったが、これを不満に思った次男・興秋が出奔(後に大阪方に加担、戦後に切腹)するなど、苦労が続いた。
慶長13年(1608年)、小笠原秀政の次女で秀忠の養女・千代姫と婚姻。長男・光利(光尚)が誕生する。元和6年(1620年)に父・忠興から家督を譲られ、豊前小倉藩藩主となった。
その後も大阪の陣に参戦する、江戸城の普請に積極的に参加するなど、徳川の忠臣として活躍する。
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広(加藤清正の嫡子)が不品行を理由に改易され、その後を受けて熊本54万石に加増・転封となる。それまでの領地である豊前小倉藩は、義兄・小笠原忠真が治める事となった。
寛永14年(1637年)、島原の乱に嫡子・光利と共に参陣。犠牲を出しながらも家臣が本丸乗り込み一番乗りを果たし、更に天草四郎を討って大将首を取るなど、武名を挙げて大きく戦勝に寄与した。
しかし寛永18年(1641年)に病を発し、父に先立って死去。
この時、忠利が手の震えを押さえて記した絶筆や、我が子の危篤に取り乱した忠興の手紙が残っている。
享年55歳。
苛烈な性格で知られる父・忠興とは異なり、穏やかな気性、かつ気配りの出来る性格であったという。
ただし、これは単純に「人が良い」という意味ではない。特に禁教令後のキリシタン弾圧については厳しい対応を厭わず、信者を処断している。
忠利が提案したという「南蛮誓詞(南蛮起請)」には、日本の神仏ではなくキリスト教の神に対して「二度とあなたがたを信仰しません。もしも誓いを破ればあなたがたの地獄に落ちます」と誓わせる内容となっており、エグいやり口が見て取れる。
一方、母・ガラシャを介錯して自害した小笠原少斎の一子・玄也とその一族に対する処遇からは、忠利の人となりが見て取れる。
キリシタンであった玄也は禁教令に伴い棄教するようたびたび説得されたが、その信仰は揺るぐ事はなかった。ガラシャの最期を看取った少斎への恩義もあり、処罰こそされなかったものの、玄也は扶持を取り上げられ、一族は貧しい生活を余儀なくされた。それでも細川家に忠を誓う家臣である事には変わらず、後に忠利の転封に伴って肥後熊本藩に移り住んだ。
同地においても一族は密かに信仰を続けていたが、密告によりキリシタンである事が長崎奉行に知られてしまう。いよいよ庇い立て出来なくなった忠利は、小笠原一族を処刑せざるを得なくなった。
処刑までの50日間を座敷牢で静かに過ごす事を許された一族郎党15名は、禅定院において斬首により殉教を遂げた。この時共に殉教した玄也の妻・みやは、かつて忠興に重用されるも殉教を遂げた加賀山隼人の娘である。
この小笠原一族の墓碑は現存しており、死後も丁重に扱われた事が伺える。その後2008年に、ローマ法王・ベネディクト16世により福者認定を受けた(ペトロ岐部と187殉教者)。
細やかな気配りに長けており、廃嫡された忠隆、叔父の養子となった為に家督相続できなかった興秋にもたびたび連絡を取っていた。
特に親しかった稲葉正勝とは母・ガラシャの血縁である明智家を通じて縁が深く、正勝の母・春日局からの覚えもめでたかった。こうした関係を通じて二代将軍・秀忠、三代将軍・家光からの信任は厚く、忠興と入れ替わる形で頻繁に本国と江戸を行き来していた。後にこれが参勤交代を提唱するきっかけになったとも言われている。
その早すぎる死に対しては家光が「越中早く果て候(死ぬのが早すぎた)」と嘆いた言葉が伝わっている。
父・忠興との間に交わされた書簡は3000通以上にも及ぶ膨大な量で、当時の風俗や政治情勢を知る貴重な資料となっている。多い時には1日3通も後を追うように出されたとか。
中には風の噂程度の事も書かれているが、それすら父子で共有し、情報戦での武器として用いていた。
一方で忠興が忠利の家臣にしようと考え、牢人を召し抱えた知らせを受けて「そんなの雇う余裕ウチにはないです!いらんことせんでください(意訳)」と返し「ならワシんちで召し抱える、お前が気にしなくてもいいですよーだ(意訳)」と拗ねてしまった父に後から詫びを入れるなど、微笑ましいんだか何だか分からない手紙も残っている。
肥後熊本藩に転封された時には、行列の先頭に加藤清正の位牌を掲げて熊本城に入城。
城門前で下馬した忠利は「本日より肥後一国をお預かりいたします」と頭を下げ、清正の菩提寺の方角に礼拝したという。こうした心遣いにより、「難治の国」と言われる肥後の国人衆の信頼を勝ち得た。
当時の熊本城は大地震によって大きく損傷を受けていたが、この名城の姿に感動した忠利は、総力を挙げて修復工事に取り掛かる。その甲斐あって往年の美しい姿を取り戻したが、この修復と江戸城普請の為に細川家は莫大な借金を抱える羽目になってしまった。
その後もたびたび地震で被害を受けては修復→借金を繰り返しており、江戸表の高利貸からは貧乏細川として嫌われた。遂には「鍋の底に『細川』と書いておけば金気が抜ける」というおまじないにまでなってしまったという。それでも肥後国内で大きな一揆は江戸年間を通じて一度も起きておらず、領民への圧迫がなかったのは流石と言うべきか。
この財政状況を改革したのが「肥後の鳳凰」と称された七代藩主・細川重賢である。
病弱で食が細かった忠利に、造血作用のある栄養食として提案されたのが「からし蓮根」だという。
その断面が細川家の家紋(九曜)に似ている事からめでたいとされ、後に熊本名物として有名になった。
葡萄酒(ワイン)はキリスト教に縁深い飲み物として、キリスト教の伝来から鎖国後でも長崎で取引されていたが、これを日本においてはじめて作らせたのは忠利である。
熊本大学の研究調査により、寛永4年(1627年)に「がらみ」(山葡萄の一種)や大豆を原材料としてワインを製造させたほか、同時期に鎮痛剤・咳止めなどの薬として阿片の製造も試みていた事が明らかになった。研究発表によると忠利の好みは甘いワインだったらしく、長崎でワインを買いつける時に「ぶたうしゆ いかにもあまキを」と指示した書簡が確認されている。
病弱だった事もあり、武芸・鍛錬に力を入れていたという。
柳生宗矩に剣術を師事し、宮本武蔵を熊本に招いて客分として遇した。忠利の死後も、武蔵は引き続き熊本の地で厚遇され、同地で没している。
死後、愛養の鷹「明石」「有明」が火葬の火、あるいは井戸に身を投じて殉死したと伝えられている。
また多くの家臣が殉死を願い出て叶えられたが、殉死を禁じられた事に端を発して家臣・阿部弥一右衛門の一族が上意討ちで全滅している。
これは森鴎外の小説「阿部一族」の題材となった。
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