M3軽戦車は、連合軍(アメリカ軍)が第二次世界大戦で使用した軽戦車である。(大日本帝国陸軍が実戦投入した内で最強の戦車だったというジョークもある)
この項では、ついでに関連性が高い後継のM5軽戦車も解説する。
愛称はM3、M5共にスチュアート(イギリス軍命名。元ネタは南北戦争時、南軍で騎兵隊を率いたスチュアート将軍)、レンドリースで運用したイギリス軍兵士の間ではハニー(かわいいやつ)と呼ばれた。後の戦車萌えの原点である。さすが英国紳士
概要
M3軽戦車は、M2軽戦車の最後期型(M2A4)をベースに大戦初期の戦訓を取り入れて開発された軽戦車である。M3だけで1942年8月に生産が終了するまでに5,811両が生産され(派生形のM3A1、M3A3を含めると13,000両以上生産されている。ヤンキー自重しろ)、レンドリース法によりアメリカ軍以外にもイギリス、ソ連、フランスなどが使用した。
欧州ではイギリス軍による初の実戦投入でドイツ軍戦車に敵わないと判明したため、偵察車両や砲塔を撤去しての弾薬運搬車、砲牽引車として運用されたが、太平洋では日本軍戦車と十分渡り合えたので後継のM5軽戦車や主力のM4中戦車が登場するまで最前線で運用された。日本軍も鹵獲したM3軽戦車の性能を高く評価し、自軍の戦車部隊に組み込んで運用している。
性能
データはM3軽戦車のもの
速度 | 57.9km/h |
行動距離 | 113km |
主砲 | 37mm戦車砲M6 (53.5口径、103発) |
副武装 | M1919A4軽機関銃 (口径7.62mm、弾数8,270発、5丁搭載) |
装甲 | 51mm~13mm |
エンジン | 4ストローク星型7気筒空冷ガソリンエンジン(262馬力) |
重量 | 12.9トン |
乗員 | 4名(車長、砲手、操縦手、副操縦手) |
開発経緯
第二次世界大戦前、アメリカ軍が保有する軽戦車はM2軽戦車であった。これは優れた軽戦車であり、最終型のM2A4ではスペイン内戦の戦訓を取り入れて37mm戦車砲と最大25mmの装甲を採用していた(内戦以前は機関銃を搭載した双砲塔型で、巨乳で有名だった当時の女優の名前がつけられたりしてる。ヤンキー自重しろ)。しかしドイツ軍のポーランド侵攻の戦訓から、アメリカ軍はM2A4でも防御力は不十分だと判断。車体前面の装甲厚を38.1mm(1.5インチ)に増加させた新型戦車を開発する事を決定し、1939年にM3軽戦車の開発が始まった。
主な改良点は、装甲の強化、車体の延長、車体の重量化・大型化に伴う接地圧増に対応するため誘導輪の大型化・接地(このため、履帯後部を見ればM2とM3の判別が可能となっている)、主砲の変更(37mm戦車砲M5→同M6)である。避弾経始は考慮されていないが、その分内部の居住性は良かったとか。装甲は初期にはリベットで接合してあったが、後に溶接に改められている[1]。
1940年7月にM3軽戦車として制式採用されるが、生産を担当する会社がM2A4軽戦車の生産に追われたためM3軽戦車の生産は1941年3月からとなる。その後も改良が加えられ、主砲に安定装置がついたり試験的にディーゼルエンジンが搭載されたりした。
実戦
欧州の戦い
欧州の戦いでは、イギリス軍がレンドリースで受け取ったM3軽戦車を自軍の足周りの弱さに定評のある巡航戦車の代わりとして北アフリカで初めて実戦に投入した。そしてドイツ軍にボコボコにされた。信頼性と機動力の高さは兵士に好評であったが、敵軍と正面切って戦うには火力と防御力が不足していたのである。どうにかしようにも、車体幅が狭い、狭い履帯で接地圧が高い、さらに航続距離が短いのトリプルコンボで火力と防御力の強化はほぼ不可能であった。結局、正面切って戦うのはどんどん送られてくるM4シャーマンに任せ、M3軽戦車とその派生形は軽快さを活かした偵察任務へと回される事となる。
ちなみに、後に参戦したアメリカ軍も派生形のM3A1を戦闘任務に投入してやっぱりドイツ軍にボコボコにされている。開発では他山の石を実践してたのに実戦では無理だったらしい。なんでや。
1943年には後継のM5軽戦車に押し出される形でアメリカ軍の第一線装備から外される。イギリス軍では派生形のM3A3の運用が続けられるが、欧州方面では砲塔を撤去して弾薬運搬車や砲牽引車、さらには機銃だけ乗せた偵察車両とされて使われた車両も多い。欧州においては、もはやこのクラスの軽戦車は戦車としての活躍の場はあまり無かったと見るべきだろう。
太平洋の戦い
太平洋の戦いではアメリカ軍、イギリス軍共にM3軽戦車を使用した。敵である日本軍の戦車(九七式中戦車含む)はM3軽戦車と同等かそれ以下の性能であったため、M3軽戦車は大活躍した。ルソン島の戦いでは日米初の戦車戦が発生し(アメリカにとっては戦車戦自体が第二次世界大戦で初)、アメリカ軍が投入したM3軽戦車の正面装甲は日本軍が投入した九五式軽戦車の砲撃を悉く跳ね返して日本軍を絶望させた。とは言え、最終的には日本軍戦車の体当たり攻撃などによりアメリカ軍戦車部隊は撃退されている。
イギリス軍はビルマのラングーンでの戦いにM3軽戦車を投入した。この戦いでもM3軽戦車は日本軍の戦車、対戦車砲の砲撃を悉く跳ね返し、逆に日本軍の九五式軽戦車の中隊(4両)を1,500mの距離からの砲撃で全滅させたりしている[2]。ただし、こちらも最終的には彼我の戦力差を覆すには至らず、イギリス軍はラングーンから脱出。脱出させられないM3軽戦車の大半は爆破放棄された。ここで少数だが無傷のM3軽戦車を日本軍が鹵獲している。
この後もM3軽戦車は日本軍の戦車に十分対抗しうるとして戦闘任務に投入され、ガダルカナルやニューギニアの戦いで活躍する。その後、こちらでも後継のM5軽戦車、M4中戦車が投入され、それに押される形で前線から引き上げられ、予備兵器とされた。
日本軍の運用
M3軽戦車は非常に優秀な戦車だったので、M3軽戦車を鹵獲した日本軍は大喜びで自分たちの戦力に加え、愛用した。日本軍の中戦車を引っ張って崖を駆け上がり、難攻不落と思われたアメリカ軍の要塞を攻略したり、あのインパール作戦ではイギリス軍のM3軽戦車を撃破したりしている(その後補給不足と敵中戦車の登場で壊滅した。牟田口死ね)。
実際、M3軽戦車は機動力と防御力で日本軍戦車を上回り、攻撃力も主砲が僅かに新砲塔チハに劣る程度で、軽機関銃を5丁も装備しているため、本土に留め置かれ実戦に参加しなかった一式中戦車以降の戦車を勘定に入れなければ、日本軍最強戦車と言えるだろう。
派生形
- M3A1
ペリスコープを採用、キューポラを廃止して車高を低くした改良型。動力式砲塔に砲塔バスケット[3]を採用している。これで使いやすさが向上したはずだったのだが、戦闘時には副操縦手が砲手になると言う英国面が垣間見える謎システムを採用していたイギリス軍では不評だった。車体両側面に搭載された機銃は廃止され、空いたスペースは道具入れになった。1942年5月から生産開始。 - M3A2
車体が溶接構造になったM3A1。M5軽戦車が出来たせいか量産はされなかった。 - M3A3
1942年12月より生産が始まった最終生産型。M5軽戦車からのフィードバックを取り入れ、車体はスポンソンを廃止して溶接構造に、車体側面にはサイドスカートが取り付けられた。車体前面の装甲板が避弾経始を考慮した20度の傾きを持つ一枚板となり、操縦席が前方に移動して車体容積が増加、それによって砲弾搭載量が174発になり、燃料タンクも追加されて行動距離も217kmに増えた。さらにエンジンにはエアクリーナを取り付け、砲塔も後方に延長されて無線機が搭載された。重量は14.5トンに増加し最高速度は49.9km/hに低下している。イギリス軍向けの戦車であり、アメリカ軍は使用しなかった。
M5軽戦車
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M3軽戦車の生産が軌道に乗ると、今度は搭載する星型エンジンの供給が追い付かなくなり始めた。アメリカ軍は代用としてディーゼルエンジンを搭載してみたが問題が多く、完成した車両は訓練用に回すしかなかった。そんな時にキャディラック社が自社の自動車用V型8気筒液冷ガソリンエンジン2基を搭載する案を提出し、これが採用されることとなる。
エンジンを変更するついでに車体にも改良を加え、車体構造は溶接で組み立てる単純な箱形構造にして、前面の装甲板を一枚板とすると同時に傾斜を持たせて防御力を向上させている。更に新しいガソリンエンジンは今までの星型エンジンと比較して戦闘室下部を貫通するプロペラシャフトを低く配置する事が出来たので、車内空間を広く取ることで居住性も改善された。おまけに変速機にキャディラック社の油圧式自動変速機を採用したため、操縦性も良くなっている。まさに至れり尽くせりである。
試作車は走行試験において800kmもの距離を機関系の故障無しで走り抜け、アメリカ軍は大いに喜んでこれをM5軽戦車として制式採用し[4]、生産をキャディラック社の担当とした。M5軽戦車は1942年3月から12月まで生産された。その後、砲塔をM3A3と同様のものにしたM5A1が1942年9月に制式化され、1943年1月から生産が始まっている。
実戦配備されたM5軽戦車の運用は基本的にM3軽戦車と同様であり、欧州の戦いでは偵察任務に、太平洋の戦いでは戦闘任務に投入され、最後はM4シャーマンに取って代わられた。
派生型
- M8 自走75mm榴弾砲 スコット
軽量・コンパクトな短砲身75mm砲を、専用の全周旋回砲塔に搭載した自走砲。当時の一般的な自走砲と同じく砲塔に天井はない。1944年1月までに1778輛が生産された。 - M8A1
主砲が長くなったM8。M4中戦車の主砲とほぼ同じ75mm戦車砲を搭載した対戦車自走砲である。砲塔が狭く、M4中戦車が量産の波に乗っていたため不採用。
金門之熊 古寧頭戦役
戦後のM3とM5はアメリカ軍はM24軽戦車(チャーフィー)の存在もあり、余剰となったために友好国に譲り渡していた。もうM3、M5の大きな活躍はないだろうと思われたのだが、最後の大活躍を見せた。
中国国民党軍は国共内戦での連敗により台湾に撤退。国民党軍が大陸寄りの島でかつ重要拠点であった金門島が陥落したら台湾本島の侵略が現実になるという絶体絶命の状況であった。
1949年に金門島の占領を図るべく人民解放軍が10月25日午前2時ごろに侵略。この時の人民解放軍の考えは軽歩兵装備の兵士を大量投入くらいであった。一方で国民党軍は大日本帝国軍の将官が指揮に入っており、金門の防衛強化を図っており、M5軽戦車も投入していた。このため、人民解放軍の軽歩兵装備では太刀打ち出来ず、一方的にやられていったのである。しかも、戦車の弾が無くなったらそのまま人民解放軍に迫っていったと言われている。天安門事件よりひでえ・・・
人民解放軍は9000人近く投入したものの約4000人が戦死、約5000人が捕虜となる大敗北となり(予定では19000人投入予定だった)、大勝利した国民党軍は大活躍したM5軽戦車を金門之熊(金門の熊)と呼び、現在では金門で展示を受けている。
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関連項目
脚注
- *敵の砲弾が外部に露出しているリベットに直撃すると、リベットが車内に飛び込んで乗員を殺傷する危険があった
- *別の日での戦闘においては、九七式中戦車で構成された小隊~中隊規模の敵戦車部隊と交戦している。しかし、本車の方が性能が優れていたにもかかわらず、練度の差故か榴弾の集中射を受け、5輌以上の少なくない損害を出してしまっている。
- *砲塔からつりさげられるカゴのようなもの。車長、砲手、装填手がバスケットに乗る事で、彼らの向いている方向が砲塔の旋回に追従するので目標を追尾しやすい
- *M4軽戦車にならなかったのはM4中戦車との混同を避けるためで、初期にはM4と呼ばれていたとか。
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