アドルフ・ガーランド(1912~1996)とは、第二次世界大戦期に活躍したドイツ空軍のエースパイロットである。
概要
1912年3月18日、ドイツのヴェストファーレン州ヴェスターホルトにて誕生。先祖はフランスからの移民だったという。裕福な家庭で生まれ育った彼は十代後半でグライダーの操縦にハマり、空に憧れるように。また第一次世界大戦のエースだったレッドバロンことリヒトホーフェンに憧れ、航空機パイロットを志すようになった。
1930年、ブラウンシュヴァイク州にある民間のルフトハンザ航空学校に入り、操縦技術を学ぶ。この航空学校は、ヴェルサイユ条約で禁じられている空軍のパイロットを養成する秘密施設であり、ドイツ国内では表立って訓練できなかったので、イタリアやソ連のリペック基地で教育された。1934年、卒業して少尉の階級を得る。1935年3月に再軍備宣言でドイツ空軍が誕生すると、第一戦闘航空団に入隊。ところが10月、訓練中に事故が発生。ガーランドは機器に顔面を打ちつけ、母親が見ても分からないほど変形。片目の視力も激減し、一時はパイロット人生が危ぶまれる事態となった。医者はパイロットに向いていないと判断したが、ガーランド自身の熱望とパイロットが惜しいドイツ空軍の意向により残留が決定。視力テストは暗記で乗り切ったという。
1937年6月、コンドル軍団第88戦闘飛行隊第3中隊長としてスペイン内戦に参加。搭乗機のハインケルHe51や部下の機体にミッキーマウスの絵を描き、自らミッキーマウス中隊と名乗った。夢の国チキンレースはこの頃から行われていた模様。彼は葉巻と鉄道模型が好きだったので、たまにこれらをミッキーマウスに持たせていた。この時は航空機同士の本格的な戦闘は少なく、対地支援を行って地上軍の援護していた。やがてBf109Bに乗り換えると、共和国軍機7機を撃墜する戦果を挙げる。1939年に後任と交代し、ドイツ本国へ凱旋。ダイヤモンド付きスペイン十字章が授与された。
第二次世界大戦
1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。同時期に大尉へ昇進したガーランドは第2地上攻撃教導航空団第2中隊を率いてポーランド軍を攻撃。この時の搭乗機はヘンシェルHs123で、対地攻撃で戦功を挙げて2級十字勲章が授与された。
ガーランドは戦闘機に乗りたがっていたため、知人の医師に「リウマチで開放コクピット機には乗れない」という嘘の診断書を書かせ、1940年4月に第27戦闘航空団に移籍。乗機をメッサーシュミットBf109とした。当初は本部付将校だったためデスクワークばかりさせられていたが、5月のフランス侵攻作戦では司令の目を盗んで最前線に参加。イギリス軍機3機を撃墜した(本人はベルギー機と思っていた)。5月19日に5機目を撃墜し、エースパイロットの仲間入りを果たす。その後も戦果を挙げ続け、フランスが降伏するまでに14機(17機説あり)を叩き落とした。
7月10日よりバトル・オブ・ブリテンが始まり、ガーランドも参加。空戦性能に勝るスピットファイアはメッサーシュミットBf109を圧倒し、戦闘はドイツ軍不利で推移。それでもガーランドはイギリス軍機を撃墜しまくり、8月1日に少佐へ昇進。9月24日に撃墜40機を達成し、柏葉騎士十字勲章を授与される。前線に視察へ来たヘルマン・ゲーリング元帥から「何か欲しいものは無いか?」と聞かれると「スピットファイアをください」と言って周囲を凍りつかせた事がある。バトル・オブ・ブリテン自体はドイツ空軍の敗北に終わったがガーランドは戦果を重ね続け、11月1日に50機撃墜を達成。
1941年6月21日、ブローニュで初めてスピットファイアに撃墜される。ガーランドは無事だったので基地に帰投し再度出撃したが、同日中に再びスピットファイアに撃墜されて負傷した。翌22日、70機撃墜を祝して全軍で初の剣付柏葉騎士鉄十字章が授与され、中佐に昇進。その後も撃墜スコアを重ね、96機に達した。彼が失われる事を恐れた空軍は、12月4日に戦闘機隊総監を任命して戦闘任務を禁止。後方へと下がらせた。1942年1月28日、史上二人目となるダイヤモンド剣柏葉付き騎士鉄十字章を授与。11月、最年少で少将に昇進した。
以降、ガーランドは指揮官として後方から作戦の支援を行った。ツェルベルス作戦やスターリングラードの戦いを支援したのち、ドイツ上空の防空任務を命じられる。だがアメリカ軍のB-17は難敵で、ドイツの都市が次々に焼き払われていく。さらにトンでもない物量で攻めてくるため、ガーランド率いる防空隊ではとても対処できなかった。挙句の果てには体当たりでB-17を落とそうとする者も出始めたため、慌てて禁止している。防空の不手際をヒトラー総統に咎められ、いてもたってもいられなくなった彼は1944年、少将の立場でありながら、こっそりフォッケウルフFw190で出撃してB-17爆撃機2機を非公式ながら撃墜。「体当たりなど、技術のないパイロットがする事だ」と部下を諌めた。1944年晩秋、中将に昇進した。
1945年1月、ライン河の守り作戦に反発したのとメッサーシュミットMe262早期配備を巡ってゲーリング元帥と対立。日に日に亀裂は深まっていき、ゲーリングから「貴様の戦闘機隊は無能の集まりだな」と嘲られる。これにブチ切れたガーランドは首に付けていたダイヤモンド剣柏葉付騎士鉄十字章を引きちぎり、ゲーリングの机に叩き付けて「こんなものいらん!」と激昂して去っていったという。この蛮行に激怒したゲーリングは戦闘機総監から更迭する報復措置を取った。するとガーランドの部下であるギュンター・リュッツオー空軍大佐がゲーリングを弾劾裁判にかけて反撃しようとしたため、ヒトラー総統の取り成しによってガーランドは第44戦闘航空機部隊の司令官に着任。中将が指揮する中隊という奇怪な部隊が誕生した。所属するパイロットはギュンター・リュッツオー大佐、ゲルハルト・バルクホルン中佐、ワルター・クルピンスキー中佐など受勲経験があるスーパーエースばかりで、さらにガーランドの望みどおりMe262が配備されており、まさに超精鋭部隊であった。ガーランド率いる第44戦闘航空機部隊は、ドイツ空軍最後の輝きとなった。たとえば1945年3月19日、強力な護衛戦闘機を伴ったアメリカ爆撃機1250機を32機のMe262が迎撃し、爆撃機24機と戦闘機5機を撃墜。ドイツ側の被害は僅か2機という圧倒的戦果を叩き出したが、敗勢を変えるまでには至らなかった。彼自身もMe262を使って4機を撃墜している。
ガーランド駆るMe262はB-26を華麗に葬ったが、直後にP-47の迎撃に遭って撃墜されてしまう。かろうじて命だけは助かり、バイエルンの病院に収容されたがそこで終戦を迎える事になる。1945年5月8日の終戦時、彼は104機の敵機を撃墜。出撃回数は705回だった。
その後
終戦後、彼はイギリス軍に逮捕され戦犯として裁かれる。しかしゲーリングと対立していた事、パイロットとして類まれなる素養を持っていた事がきっかけで5年間の拘禁のすえに釈放された。出所後、最初に与えられた仕事はイギリス空軍の教育だった。その後、アルゼンチン空軍の顧問となる。
関連項目
- 0
- 0pt