基本データ | |
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鉄道を意味する 言葉 |
Railway(英語) Njanji(ショナ語) |
創業 | 1897年 |
軌間 | 1067mm |
営業キロ | 3033km(単線のみ)[1] |
電化キロ | 313km(AC25kV:50Hz) |
概要
ジンバブエはもとイギリスの植民地であった。イギリス資本はアフリカ南部に軌間1067mmの狭軌の鉄道網を敷いた。現在のジンバブエの鉄道もその影響で1067mm軌間が使用されている。ジンバブエは南アフリカ、モザンビーク、ボツワナ、ザンビアの4つの国と国境を接しており、鉄道もその4カ国に接続している。そのためにジンバブエはアフリカ南部の鉄道の重要地点となっている。
鉄道網の大部分はジンバブエ国鉄(National Railways of Zimbabwe:NRZ)が管理している。
ブラワヨから南アフリカとの国境の町・ベイトブリッジ(Beitbridge)までの路線は1999年に開業した私鉄のベイトブリッジ・ブラワヨ鉄道(Beitbridge Bulawayo Railway)が運営している。その他に鉄鉱石や石炭、農作物を運ぶ専用線が幾つか存在している。
一応、首都・ハラレ(Harare)からグウェル(Gweru)の間は電化されているのだが、例のハイパーインフレの影響で電力供給が不安定になり、現在電気機関車は使用されていないようである。
歴史・沿革
1897年11月に南アフリカのフライバーグ(Vryburg)からブラワヨ(Bulawayo)までの路線が開通。これがジンバブエの鉄道の産声であった。翌1898年2月にはモザンビークのベイラ(Beira)から現在のムターレ(Mutare:当時はウムターリ"Umtali")までの鉄道が開通。
1899年5月にはムターレ~ハラレ(当時はソールズベリー"Salisbury")間が開通。その後ブラワヨからハラレまでの鉄道が建設されるが、1899年10月に起こったボーア戦争の影響で一時建設中断された。戦争終結を待たず鉄道建設は再び進められたが、ケープ植民地からの資材運搬が出来ず、ベイラ側からの資材運搬を余儀なくされた。結局、1902年10月にブラワヨ~ハラレ間が開通した。
1903年にブラワヨからビクトリアの滝(Victoria Falls:現在のジンバブエとザンビアの国境である)への鉄道建設が開始され、1904年に開通した。1905年にはビクトリア・フォールズ橋が建設され、1909年には現在のザンビアとコンゴ民主共和国の国境までの鉄道が開通した。これらはイギリス・ケープ植民地の政治家、セシル・ローズ(Cecil Rhodes)[2]によるケープ・カイロ鉄道(Cape to Cairo Railway)構想[3]を構成する鉄道の一つであった。
1927年までにマショナランド鉄道会社(Mashonaland Railways Company)がベイラ・アンド・マショナランド・アンド・ローデシア鉄道(Beira & Mashonaland and Rhodesia Railways)として路線を開業。同年10月よりローデシア鉄道会社(Rhodesia Railways Company)となった。
ローデシア鉄道会社は1939年、現在のジンバブエ、ザンビア、ボツワナの鉄道網、そして、フライバーグ~ブラワヨ間の鉄道を所有することになった。この内、フライバーグ~ラマトラバマ(Ramatlabama:南アフリカのボツワナとの国境の町)間は1959年に南アフリカ国鉄(South African Railways)に売却されている。
1947年4月、ローデシア政府はローデシア鉄道会社の資産を取得し、1949年、ローデシア鉄道(Rhodesia Railway)が発足した。その後1964年に北ローデシアがザンビア共和国として、1965年に南ローデシアがローデシア共和国として独立すると、1967年にローデシア鉄道のビクトリア・フォールズ橋以南の路線(ザンビアの地域の路線)がザンビア鉄道(Zambia Railway)として分割された。
1979年6月、ローデシア共和国がジンバブエ=ローデシア共和国に国名を改称すると、ローデシア鉄道はジンバブエ=ローデシア鉄道(Zimbabwe-Rhodesia Railway)となり、1980年5月にジンバブエ共和国が成立すると、ジンバブエ国鉄となった。なお、ジンバブエ国鉄はなおもボツワナ国内の鉄道も運営していたが、1987年1月にボツワナ国内の路線・設備をボツワナ政府へと売却している。
1983年、ハラレ~グウェル間が電化され、ジンバブエで初めての電気機関車による旅客列車が走った。独立時に白人技術者が減少したため、この頃からディーゼル機関車の老朽化が顕著になってきた。その為、多くの形式の蒸気機関車とディーゼル機関車が廃車され、DE11A型ディーゼル機関車など、ディーゼル機関車の装備更新・購入をして対策した。1994年には数両の入れ替え用・観光列車用の車輌を残し、蒸気機関車は全廃された。
ジンバブエの鉄道はこの時点で、アフリカの中では比較的安定した鉄道網を持っていた。
ジンバブエ国鉄・ロゴマーク |
ムガベ独裁と国鉄の窮地
ところが、徐々に徐々にジンバブエ国鉄の経営状態が悪化していく。1997年のアジア通貨危機により、ジンバブエを深刻な外貨不足が襲ったのだ。さらにジンバブエ大統領・ロバート・ムガベ(Robert Mugabe)政権による2000年の土地改革により、ジンバブエの主要産業であった農業が深刻なダメージを受けた。鉄道による農産物の輸送需要はガタ落ちした。
ディーゼル燃料は手に入れることが難しくなり、設備・装備・保守の更新に必要な部品の購入も滞った。おまけにこの頃から電気機関車の運行に必要な電力供給が不安定になってしまい、「首都ハラレで列車が走っているのを見たことがない」と言われてしまう有様であった。ジンバブエ国鉄は窮地に追い込まれた。
2003年にはビクトリアの滝から140kmほど離れたデテ(Dete)の村で旅客列車と可燃性液体を積載した貨物列車が衝突・炎上する事故が起き、50名以上が死亡した。ビクトリアの滝へと向かう交通機関にはバスと列車があるが、ガソリンが手に入らなくなり、バスの便数は激減していた。そのため旅客列車が混み合う状況になっており、この列車には1100名以上の乗客が乗っていたとされる。原因は信号設備の不備によるものであった。
2005年、ジンバブエは苦肉の策を実行した。ブラワヨ鉄道博物館(ジンバブエ国鉄博物館)に収蔵されていた状態の良い蒸気機関車10両を通勤列車・貨物列車用に復活させたのだ。レストアには8万ドル(925万円)ほどがかかったが、ジンバブエは石炭資源に恵まれており、蒸気機関車はディーゼル機関車を運行させるより費用が安上がりであった。
現在、ジンバブエの貨物輸送はデテ事故などの影響でトラック輸送に需要を奪われ、減少傾向にある。軌道や信号設備の状態は劣悪で、安全に列車を運行させることはかなり難しくなっている。
2011年末には中国の支援によって中国の鉄道車両メーカー・南車戚墅堰機車車両工芸研究所(簡体字:南车戚墅堰机车车辆工艺研究所)有限公司製造のSDD6型電気式ディーゼル機関車が導入された。
ガーラット式蒸気機関車
ジンバブエの鉄道の象徴とも言えるのがガーラット式蒸気機関車[4]である。国際列車や観光列車の牽引にはこのガーラット式蒸気機関車が用いられている。また、先述通り2005年からは通勤列車、貨物列車などの運用にも重宝されている。
これらのガーラット式蒸気機関車はローデシア鉄道時代にイギリスのベイヤー・ピーコック社[5]が製造したもので、全て合わせると246両のガーラット式蒸気機関車がジンバブエに輸入されたという。
国際列車・観光列車
ジンバブエとザンビアの国境には世界三大瀑布の一つ・ビクトリアの滝が存在しており、南アフリカからの観光列車が行き交っている。これらの観光列車はジンバブエ国内に入ると蒸気機関車の牽引となる。
中でも南アフリカの鉄道輸送会社・ロボスレイル(Rovos Rail)が運行する観光列車・プライド・オブ・アフリカ(Pride of Africa)[6]は南アフリカのプレトリア~ケープタウン間を結ぶ列車・ブルートレイン(Blue Train)と並び、世界一豪華な列車として知られている。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- ジンバブエ
- 鉄道 / 海外鉄道 / 鉄道歴史シリーズ / 世界の交通事情
脚注
- *営業キロ・電化キロのデータはぎょうせい「最新 世界の鉄道」より。
- *「アフリカのナポレオン」とあだ名された人物で、南アフリカの政治経済の実権を握っていた。なお、現在のジンバブエとザンビアを指した地域名「ローデシア」はセシル・ローズが由来となっている。
- *その名の通りエジプトのカイロから南アフリカのケープタウンまで、アフリカを縦断する鉄道網の構想。現在も一応構想としてはあるようだが、スーダンの政情が不安定なことから実現には至っていない。
- *いわゆる間接式蒸気機関車の一種。2組の走り装置の間にボイラーを置いた形になっている。炭水車を走り装置の上に置いたことで軸重を小さくすることに成功した。また、水・石炭を多く積載できるため、水の少ないアフリカ南部の鉄道では特に多く用いられた。
- *ガーラット式蒸気機関車の製造はベイヤー・ピーコック社が特許権を持っている。
- *19日間かけて南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、タンザニア、ボツワナを走る列車。一番安い客室でも200万円近くかかるそうな。
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