アレクサンドル・ポルフィリエビッチ・ボロディン (Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н / Alexander Porfir'evich Borodin、1833-1887) とは、ロシアの作曲家、化学者、医者、教育家である。
曖昧さ回避
概要
1833年、当時のロシアの首都であるサンクトペテルブルグに生まれる。実父は現在のジョージア(旧グルジア)に領地を持つ貴族だったが、本来なら私生児として扱われるべき生まれだったため、生後間もなく領民だったボロディン家の子として戸籍登録されてしまう。しかし幸いにも幼いときは実父から、その後は実父が斡旋した別の家で実母とともに暮らし、愛情をもって養育されたため、恵まれた教育を受けつつ成長することが出来たとされる[1]。その後、17歳の時にペテルブルグ医科大学へ入学。軍医になるための研鑽を積むが、同時にこのころから少しずつ音楽、化学に対する傾倒も強くなって行く。
医科大学を23歳で卒業し、翌年からドイツ、イタリアなどへ長期遊学。29歳で帰国すると、今度は教員の1人として大学に復帰した。そして敷地内の一角に住居を得ると、遊学中に知り合ったピアニストである妻と共に生涯をその家で過ごした。
しかしボロディンはあまりにも教養人であり、人格者であり、また多彩な才能に恵まれ過ぎた人だった。
音楽家として、化学者として一流であることは疑いなかったが、そのためそれぞれの分野の知人から常に期待の目で見られながら活動せざるを得なくなった。大学内でも厚い信任を得て順調に地位を高めて行ったが、それは管理職として多大な責務を抱え込むことも意味していた。また晩年は喘息を悪化させた愛妻の看病も加わり、その生活は終わることのない多忙の中で過ぎていった[2]。
しかしそんな中でも、ユーモアを忘れず、明るい前向きな態度を崩すことも無く、年齢や立場を越えて多くの人たちから慕われ続けたと言われる。
1887年、謝肉祭パーティーの席上で不意に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年54。死因は動脈瘤の破裂であり、誰も予測することが出来ないはずの全くの突然の死だった。にもかかわらず、まるでこの日が来ることを覚悟していたかのようにその身辺は綺麗に整理されていたため、恐らく自分の体の異常に気が付きながら、他人にはそれを隠して日々の激務をこなしていたのだろうと、残された者はみな一層の惜しむ気持ちに包まれたと言う。
このように幅広く、多様な分野において活躍した人物であることから、残念ながらその作品点数は決して多くは無い。しかもその中には未完のまま残されたり、リムスキー=コルサコフらの手によって「完成」された作品も複数混じっているのが現状である[3]。
しかし9歳でいちおうながら作曲を始めていたなどその天分は本物であり、大学時代に知り合ったムソルグスキー、帰国後にメンバーとして加わった「力強い仲間」(いわゆるロシア五人組)たち、更には当時の西洋の作曲家たちと比べても、その作曲技術、音楽内容の充実ぶりは勝るとも劣らないものを持っている。
他にも交響曲、歌劇、室内楽と幅広いジャンルに代表曲を持つなどしており、その短い生涯の間に、作曲家としての可能性が全て発揮されたと言い難い。そのためもし音楽家としてのみ(或いは化学者としてのみ)活動していたら、或いは健康で長生きしていたら後にどれほどのものが残されていただろうか? そう嘆息と共に憾む声は現在においても未だ多く聞くことが出来る。
主な作品
- 交響曲第2番ロ短調 - 管弦楽分野における代表曲。
- 交響詩「中央アジアの草原にて」 - ロシア風と東洋風の旋律を合わせ持つ標題音楽。
- 弦楽四重奏曲第2番ニ長調 - 芸術性を保ちながら親しみ易いメロディを奏でる名曲。
- 歌劇「イーゴリ公」 - 他者の補筆はあるものの、作曲家ボロディンの集大成と言える作品。
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解説
演奏
ボカロクラシカ
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関連項目
脚注
- *ボロディンが誕生したころ実父は既に老齢であったため、その愛人的な立場だったボロディンの母が自分の死後に困窮しないよう、互いの了解のもとに信頼できる領民だった他人の姓を便宜上名乗らされていたものである。
- *多忙:ボロディンを自らの事を「日曜作曲家」と呼んでいた。もちろんこれは暇つぶしに作曲していたという意味ではなく、たまの休みにしか作曲できない忙しい状況を冗談に紛れさせて言い表したものである。
- *補完:例えば有名な[ショスタコーヴィチの証言](ソロモン・ヴォルコフ著)では、交響曲第三番を補筆完成させたグラズノフが『ボロディンの構想に従って譜面を書いたことになっているが、補筆部分は全く私のオリジナル作品である』とショスタコーヴィチに語ったこととなっている。もちろん[ショスタコーヴィチの証言]そのものが偽書であり、そのエピソードの信頼性は極めて低いレベルにある。しかしボロディンの曲においては、このように「どこまでがオリジナルか?」が重要な問題としてとり上げられる事も多い。
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