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李登輝(り とうき、リー・テンフェ、ㄌㄧˇ ㄉㄥㄏㄨㄟ、1923年1月15日 - 2020年7月30日)とは、中華民国の政治家である。
概要
1923年に日本統治下の台湾で生まれる。日本語名は岩里 政男(いわさと まさお)であり、日本語も話せる。自身も1945年まで日本人であったと話している。
1943年に京都帝国大学に進学、農業経済学を選択する。学徒出陣により日本軍に入隊した。名古屋市で終戦を迎え、中華民国に編入された台湾に戻る。
中華民国になった台湾において台湾大学に編入学し、農業経済学を引き続き学ぶ。1949年に台湾大学を卒業。
1950年にアメリカ合衆国のアイオワ州立大学に留学、農業経済学を研究し修士学位を取得し、1953年に帰国。台湾大学で教員として勤めることとなる。1965年にアメリカのコーネル大学に留学、農業経済学の博士号を取得し帰国。
1971年に農業専門家として蒋経国に講義した際、その内容が評価されその場で蒋経国じきじきに入党するように勧められ、同年中に中国国民党に入党する。1972年に行政院政務委員として初入閣、1978年に台北市長に就任。1984年に中華民国総統である蒋経国に副総統として指名され就任する。
1988年に第7代総統の蒋経国が総統の任期中に死去した為、副総統から総統へ昇格し、代行として第7代総統となる。1990年に任期満了のため総統選挙が行われ第8代総統に就任。蒋経国時代末期にはすでに民主化が指向されていたが、それをさらに推し進めた。中国国民党の一党独裁が終了し、初の民主的選挙な総統選挙となった1996年の総統選挙でも民主進歩党や無所属の候補に勝利し第9代総統となった。2000年、三選禁止の憲法上の規定により、任期満了をもって退任。
副総統であった連戦を中国国民党の候補者として指名し、2000年の総統選挙に出馬させたが李の腹心であった宋楚瑜が親民党から出馬し票を食い合う結果として国民党が敗北、中国国民党が下野した責任を取って党首も辞職した。2001年には台湾独立派に肩入れしすぎたとして党籍をも剝奪された。以後政界において独立派の重鎮として隠然たる影響力を維持した。
2020年2月誤嚥性肺炎で入院。7月に入り急激にその症状を悪化させ、30日台北市内の病院内で死去した。
評価
中華民国の民主化を完了させた李は肯定的な評価をされているが否定的な評価も残されている
肯定的な評価としては民主化の立役者、台湾を中心とした価値観の見直し、日本との関係強化がある。
否定的な評価では、金権政治、腹心を左遷させた謀略家、台湾民族主義者、日帝の肯定者がある。
謀略家な一面は腹心として総統選挙において活躍した宋楚瑜ではなく連戦を指名し院生を試みた事が挙げられる。
原住民の政治家からは「李は帝国国民の矛盾と向き合わない皇国史観のままであり日本の支配と戦った原住民と異なる日本保守の駒だ」と批判された。
特に晩年の李はは急進的な独立派に接近するなど現役時代に見られたバランスは無くなり本省人アイデンティティに傾倒した。
発言
- 尖閣諸島の領土問題について「中国が領土だと主張するのは、石油埋蔵の問題があったからだ。だが、同諸島には軍隊が駐留しているわけでもない。尖閣は明らかに日本の領土」[1]
- 「沖縄は日本に帰属してよかったと思う。財政依存に頼るだけでなく、沖縄全体がもっと自主性(主体的・自立的)を発揮すべきだ」[2]
- 「本土復帰後の沖縄について言えば、沖縄の人々が〈琉球民族〉を主張しても、少しもおかしくない。一国家が単一民族である理由は何一つない。異なったオリジナリティーで、異なったことを実行することが、また国(日本)を豊かにする[3] 。
関連動画
関連静画
著書
評伝
関連項目
第6代,第7代 | 第8代,第9代 | 第10代,第11代 |
蒋経国(中国国民党) 1978~1988 |
李登輝(中国国民党) 1988~2000 |
陳水扁(民主進歩党) 2000~2008 |
第6代 | 第7代 | 第8代 |
謝東閔(中国国民党) 総統:蒋経国 1978~1984 |
李登輝(中国国民党) 総統:蒋経国 1984~1988 |
李元簇(中国国民党) 総統:李登輝 1990~1996 |
脚注
- *“本紙が単独インタビュー/李登輝前総統”.沖縄タイムス.(2002年9月19日朝刊)2019年6月20日閲覧
- *“本紙が単独インタビュー/李登輝前総統”.沖縄タイムス.(2002年9月19日朝刊)2019年6月20日閲覧
- *多和田真助(2003).「「尖閣騒動」と「琉球・領土問題」」藤原良雄(編)『琉球文化圏とは何か』(別冊『環』),藤原書店,p.218
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