林間都市とは、かつて神奈川県中部に存在した地域開発計画に示された地域名称である。
和歌山県にて開発されている「南海橋本林間田園都市」とは無関係。
概要
小田急電鉄江ノ島線の「東林間駅」~「南林間駅」周辺の高座郡大野村(現・相模原市)から大和村(現・大和市)に跨る地域で、買収した土地の面積は約80万坪(260万平方メートル)に及ぶ。名称の由来は中世より『鶴間』と呼称されたこの一帯が、カラマツなどの雑木林であったことから着想された。この時代、イギリス人エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市(ガーデン・シティ)」構想には世界中が影響を受けており、当地域もそうした構想をもとに立案・実行されたものといえる。むしろ後述のように住人の職場も合わせて整備する計画もあり、何と将来は「遷都」すら見据えていたという、非常に壮大な計画であった。
展開~終焉
当時の小田原急行鉄道は1929年の江ノ島線開通にあわせて当地域の分譲を開始した。交通手段である江ノ島線には三つの駅(東林間都市駅・中央林間都市駅・南林間都市駅)を設置した。中央・南の周辺は住宅エリア、東の周辺は職場(工場を誘致)エリアとする職住近接をうちだし、野球場・相撲道場などスポーツ施設も建設されたほか、やや西側の小田原線新座間駅(現・座間駅)には「座間遊園」というレジャー施設も建設予定であった。映画会社松竹の撮影所を誘致する予定もあったという。江ノ島線と駅を基軸とした区画整理が行われ、中央林間駅・南林間駅周辺は碁盤の目状の街路が整備され、現在まで活用されている。
しかし、分譲は思うように進まず、規模が「都市」とは程遠いものとなってしまった。これはあまりに都心から遠かったことが要因とされるが、昭和恐慌の発生もあって経済活動が沈みがちだったことも響いた。加えて軍事的緊張の世情から座間遊園や松竹撮影所などの計画も軒並み頓挫し、1941年にやむなく「林間都市」計画見直し(事実上の終了)が発表され、三つの駅から「都市」が外された(東林間駅・中央林間駅・南林間駅)。
戦後
整然とした計画は存在しなくなったが、首都圏のスプロール化により都市化自体は進行し、雑木林や農地が住宅地や商業施設・教育施設等へと変化を遂げていく。
1970年代に入ると、東急電鉄では田園都市線を延伸により中央林間駅へ接続する計画を公表。これに対して小田急は鶴間駅以南に乗り入れるように要望したが、最終的に当初の計画通り、中央林間駅へ1984年に延伸開業した。同時に中央林間駅周辺は東急の「多摩田園都市」計画に組み込まれ、神奈川県の中核都市として発展が加速することとなった。
小田急の社史には『「林間」の時代に「都市」を名乗り、「都市」の時代に「林間」を名乗る皮肉な結果になった』と書かれている。
もっとも地域に与えた影響は小さくなく、「林間」と付く住居表示や公共施設・物件名に現れている。「東林間」以外は全て大和市。
追記
この計画は東急の「田園都市」計画の模倣とみなされがちであるが、そうとは言えない。
- いわゆる「田園調布」などを造成した「田園都市株式会社」は、前述ハワードの構想を渋沢栄一が持ち帰り提唱、息子の秀雄らが中心となって設立された。実際の分譲開始は1922年で、林間都市の分譲開始とそこまで離れていない。
- この田園都市会社の経営には、阪急の創業者である小林一三が携わったが、これは小林が既に阪急沿線の住宅開発事業で実績を挙げていたからである。
- 本業を手放せない小林が招き入れたのが鉄道省出身の五島慶太である。五島は田園都市会社から別れた「目黒蒲田電鉄」に逆に田園都市会社の事業を引き継がせ、池上電気鉄道を買収するなど事業拡大に舵を切る。
- その事業拡大の頂点となる小田急電鉄・京浜電気鉄道の合併がおこなわれた1942年に「東京急行電鉄(東急)」の名がやっと世に現れた。
- 五島および東急が構想・計画したのは、田園都市線沿線の「多摩田園都市」の方で、戦後立案されたものである。
繰り返すが、ハワードの「田園都市構想」は多くの実業家に影響を与え、複数の鉄道会社が似た時期に住宅建設を含む都市開発を行なっている。むしろ田園都市会社の事業は今日の「ベッドタウン」的なものに近く、林間都市の方が理論としての「田園都市構想」により忠実であった、ともいえる。
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