津村島単語

ツムラシマ
3.1千文字の記事
  • 3
  • 0pt
掲示板へ

津村島とは、福岡県北九州市の新門港の中にあるである。

概要

冒頭で述べたように、「新門港の中」にある。その立地は独特である。

を避けるようにして港の埋立地が造成されている。

一般的に埋立地ができた場合は、の周りも埋め立てられて陸続きになることが多い。このの北にあった軽子も同じように埋立地で陸続きになっている。一方で、このようにの原形が保たれている例はしい。地元の人々の意見により、もともとのの形のまま保存することが決まった。

現在内への立ち入りや周辺でのドローン等の操縦は禁止されている。観光する際は、周りを囲む埋立地の公園から眺めることになる。

昔話の津村島

このには「明神」がられており、神社も建てられている。この明神にまつわる昔話がある。


明神は大変美しい女神であり、周りの々の神からも好意を寄せられていた。中でも神田町長島町の神ノ北九州市大積の現在は陸続き)が特に熱心にを争い、「武術で勝った方が明神結婚する」ということになった。

戦いが始まると、まず神神は矢を放ち、神の胴体を貫いた。そのため、今のにも大きなが開いている。その矢は野江に突き刺さり、大きなを開けた。これが今の野江小学校裏のである。

一方、神は大太刀を神神に二度振り下ろし、2つのみを作った。その太刀はあまりにも大きく、振りかぶったときには先端は今の「太刀」と呼ばれるところまで届いた北九州市太刀海岸から約5km先

あまりにも地が揺れ動くほど戦いがしいので、「朽網」と「喰の」が仲裁に入ったが、「ジャマだ引っ込んでろ!」と言われて朽網は毛を抜かれ、喰のを脱がされてしまった。この日から、朽網は「毛」、喰のは「裸」と呼ばれるようになった(注:裸は、現在喰の「厳島神社」のあるところ。新田開発で陸続きになっている)

「このままでは世界が滅ぶ」と思った曽根(間)神も仲裁に入るが「ジジイなんざ知らねえよ!(意訳)」と言われ、その日以来間は「爺」とも言われるようになった。だが、結局は爺の知恵ということで、神と明神結婚を認め、神神へは自分の可愛いをやってなだめて、決着がついた。

その後二人の間には子供が産まれ、現在小島と呼ばれている。


神と神神が周りのにひどいことしてたり、割とガチバトルだったりするが、あくまで昔話である。

現在内に「明神社」がある。10月朔日が例祭の日となっており、2日間にわたって祭りが行われる。

江戸時代の津村島

江戸時代には埋立地はなく、待ち・潮待ち(注:航行するのに適したや潮の流れを待つこと)のために使われていた。当時、津村島の付近には周防山口県東部)の各地から小倉北九州市小倉)へ年貢を届けるが多く航行していた。津村島は、周防海岸からちょうど西にあり、小倉へ向かうときには北に方向転換するところに位置する。

航行の印となる木を伐採することは禁じられていたため、多くの大木が成長していたといわれる。

明治~戦前の津村島

明治4年(1872年)、勝兵八郎によって内の石灰岩の採掘が始まった。2年後に、対の恒見に監ができ、囚人を使って採掘されるようになった。その後、石灰の需要の増加を受け、広島県などの遠方からも人が移住し、最盛期には200人もの人が住んでいた。

文明開化で西洋建物が増え始めた当時から、石灰コンクリート材料として使われていた。さらに、明治時代以降には石灰が肥料としても多く使われ始めた。この結果、日本各地に眠っていた石灰岩が注されるようになり、「ダイヤ」とも呼ばれるようになった。

また、津村島のすぐ近くにあった小島は、周辺の漁師たちが漁の許可を受ける際に、漁業が可な範囲を示す基点となった。


現在石灰岩の採掘場の跡はしている。採掘場のん中に取り残された山の部分はになっている。この結果、人工的な原因によるものではあるが、「の中にが浮かんでいる」というしい状況になっている。

当時はまだ周辺に埋立地はなかったため、舟でに向かうしか交通手段がなかった。の北側には舟を泊める防波があり、現在は埋立地とを結ぶ連絡通路に作り替えられている。防波にあった係柱も移設のうえ、保存されている。

小島も「釣鐘岩」の名称で保存されており、遊歩から間近で姿を見ることができる。

戦後の津村島

他の鉱山で石灰岩が大量に産出されるようになり、徐々に津村島での石灰岩の産出量は減少していき、1970年代には無人島となってしまった。

戦後の工業発展に伴い、北九州の港湾の機拡充のため、津村島の周辺に「新門港」が造成されることとなった。1972年、港湾計画で津村島を地の一部として整備することが決まった。

1995年から地計画に着手したが、地元の人々の要望や意見を受け、2006年にはの形を残す方向へ整備計画が変更された。2009年から地の工事が始まり、2013年地が完成、一般開が開始された。

造成された埋立地によって路ができ、外内海の間で潮位にタイムロスが生じるようになった。この結果、満潮時には内海が流れ落ちるのような現象が見られるようになった。

現在の津村島は市民の憩いの場であるとともに釣りスポットとなっており、ハゼがよく釣れる。また、新門港を発着するフェリーの撮スポットにもなっている。ゴミが漂着することもあるが、有志のダイバーなどによって清掃活動も行われている。

このように、現在でも姿を変えつつ、津村島は地域の人々にしまれる存在になっている。

関連リンク

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 3
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ダンダダン (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: メア
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

津村島

1 ななしのよっしん
2021/09/27(月) 14:07:56 ID: wD1+byjOdZ
マジでいい記事じゃん
作成感謝
👍
高評価
0
👎
低評価
0