概要
天保9年(1838年)3月7日、高知城下の餅菓子店大里屋の長男に生まれる。変名上杉宗次郎。
幼少期より父親の家業を手伝う傍ら貸本屋に通いつめて本を読み漁る。叔父の勧めで画家の河田小龍の門下生になり、岩崎弥太郎にも師事。河田が父を説得して藩士に随行し江戸に赴き、安積艮斎に1年学んで土佐へ帰国。
安政6年(1858年)、再度江戸に赴き勉学に励むが、両親の死の知らせを受けて帰国。
文久2年(1862年)には藩庁より能力を認められて苗字帯刀を許され近藤長次郎と名乗り、二人扶持金十両の徒士格になる。
同年、江戸にやって来た坂本龍馬と合流し、12月5日に越前侯松平春嶽に面会を求め、春嶽がこれに応じている。
この6日後、勝海舟の日記にも門下生の近藤が来たという記述があるため、12月には勝の門下に入っていたと思われる。
文久3年(1863年)からは坂本と共に大坂に向かい、勝の私塾で学ぶ。6月に同地で大和屋弥七の娘お徳と結婚。勝塾塾頭の佐藤与之助に仲人になってもらい、祝言をあげた。翌元治元年(1864年)7月には男児が誕生している。
同年11月、勝が罷免され神戸海軍操練所が閉鎖されるとると行き場を失った近藤は神戸に潜伏したが、12月には勝が用意した薩摩藩のツテを頼って鹿児島に渡った。
なお、11月に近藤、坂本、高松太郎の3人が、勝から佐藤に預けられていた金400両のうち50両(近藤30両、坂本10両、高松10両)を持ち去り、翌年になって佐藤が勝に詫び状を送っており、幕末史の研究者から公金横領と指摘されている。
ユニオン号問題
操練所の同志たちと鹿児島に渡った近藤は、島津久光に対し貿易と海軍の振興に関する上書を提出。この頃から上杉宗次郎という変名を用いる。
慶応元年(1865年)6月頃、同志らと長崎に向かい社中(亀山社中)を結成。初期メンバーの1人に名を連ねる。
7月、長州藩士・伊藤俊輔と井上聞多が武器購入のため長崎にやって来ると、薩摩藩家老・小松帯刀と会わせて小銃の購入を斡旋。和解の筋道を付けた。
軍艦購入についても上書提出で薩摩藩から信用を得ていた近藤が斡旋し、300トンの木製蒸気船ユニオン号を購入候補とした。だが長州藩の海軍局では軍艦購入の権限は自分達にあると主張し始め、桂小五郎が海軍局を説得してユニオン号が下関に入り、海軍局の検査を受け問題が一旦収まる。
近藤は薩長提携と蒸気船購入の件を任されて山口に赴き藩主父子に謁見。藩主毛利敬親から小銃購入と薩長融和に務めた事で謝礼を贈られた。
下関に戻った近藤は伊藤、井上と対談し、薩長間で蒸気船を運用して利益を得るため、船の名義は薩摩、船の購入費は長州、運用を社中が行うという案を示した。伊藤と井上はこれに賛同し、相談を受けた桂も同意。藩主からも許可を得て鹿児島に戻った。
鹿児島に着いた近藤は、小松からも了解を得、10月18日にユニオン号を受け取る。鹿児島に回航後桜島丸と改名し、11月8日頃下関に到着。11月18日には再度藩主父子に謁見し、報奨を賜った。
その後下関に戻って桂と会うと、船名を勝手に桜島丸から乙丑丸へ改名し、船長を藩士の中島四郎に決定していた。長州側の主張では購入費用を長州が払っているなら名義も運用も長州のものだという事になり、桂の独断では決定できなかったため、困惑した近藤は海軍局と交渉した。
12月3日、坂本龍馬が下関に来てから近藤と海軍局との間で一旦桜島丸条約と呼ばれる約定が結ばれた。内容は以下の通り。
- 旗号は薩州候の御章を使う
- 乗員は高松太郎、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、新宮馬之助、黒木小太郎、白峰駿馬、沢村惣之丞らが社中から出す士官で、長州藩からは2人士官を出す。水夫火焚は従来通り。不足分は補充する
- 船中の賞罰の権限は士官が持つ
- 600両を士官が預かる(何故600両かは不明)
- 船中の雑費については長州藩の負担とする
- 長州藩の運用が空いた期間は薩洲候の御用を務めることも可
これを坂本、中島両名に当てて提出した。近藤にとっては最大限譲歩したつもりだったが、海軍局側の収まりがつかず、状況を見兼ねた坂本が割って入り、海軍局に譲歩する形で桜島丸条約を改訂した。
- 薩州より乗り込み士官の権限は認めるが、賞罰については総管に相談すること
- 士官の上官として長州から総管が乗船すること
- 士官の仕事は運航のみ
- 長州側の運用が無い時は薩州側で運用して構わないが、負担は薩州側で負うこと
これらの内容に改訂され、今度は坂本、中島の名義で近藤を除いた社中メンバーに通達され、近藤も交渉の中でとりあえず同意せざるを得なくなった。
切腹
慶応2年(1866年)1月24日(もしくは23日)、近藤は長崎の小曽根英四郎宅において切腹した。享年29。
切腹の理由は、定説としてユニオン号購入にまつわる代償に、社中の同志に無断で渡航を希望し、藩主から得た報奨を渡航に利用しようとしたため、社中メンバーに詰め寄られた事が原因と言われる。
他の説として、明治10年代に元海援隊士が執筆したとされる『坂本龍馬直柔本伝』という文書の内容が挙げられる。これによると、ユニオン号こと乙丑丸を長崎に回航した近藤が、中島四郎船長と記載した名刺を持って薩摩藩邸に出向いた際、薩摩藩士から約束が違うと咎められたため、責任を感じた近藤がその場で切腹してしまったという。
坂本龍馬が近藤の死を知ったのは薩長同盟が成り、寺田屋の遭難をくぐり抜けて薩摩藩邸に滞在していた頃とされ、その知らせは陸奥陽之助(宗光)がもたらした。坂本遺品の手帳には
(『坂本龍馬手帳摘要』)
とやや突き放した言葉を記しているが、当時一緒にいたお龍の回想では「オレがいたら殺しはしなかった」と嘆いていたという。
関連項目
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