概要
慶長以後に殆ど絶えてしまっているため資料は少なく、その実態は捉えにくい。
「陰陽思想や陰陽道の要素が取り入れられている」「南北朝期に文観という僧侶が中興の祖として広めた」などと語られる。また。「オーガズムが即身成仏の境地であり、性的な結合により悟りに近づくという教えのため、男性の精液と女性の愛液の混合物を本尊である髑髏に塗りたくるという儀式を行っていた」などと言った扇情的な風説は特によく知られるところである。
このような説に立って、他の宗派の僧が立川流や文観を批判した文献も残っている。
だがこれまでの研究によって、上記のような内容の多くは根拠が薄弱であることが判明してきている。つまり真言立川流は、さして他の密教宗派と変わりのない一派だった可能性が高い。
性的な邪流?
甲田宥吽や櫛田良洪といった先人らの研究に基づいてステフェン・ケック(Stefan Köck)や彌永信美などが2000年代~2010年代に発表した研究結果によると、上記のような著しく性的な儀式が立川流の教義にあったとする根拠は薄弱であり、実際の立川流は普通の仏教流派であったとも言われる。
「性的な邪流」という立川流の評価が定まった理由を探ると、1375年に宥快という真言宗の僧が著したという「宝鏡鈔」という文献内で、立川流が上記のような儀式を行っている、として糾弾されているところに遡れるという。その「宝鏡鈔」は、さらに以前の時代に心定という僧が記した「受法用心集」の内容を引用している。
そしてこの「受法用心集」に関する彌永の検証によれば、確かに「受法用心集」の中には髑髏を使った性的な儀式についての記載があるものの、それを行った流派を心定は「立川流」とは呼んでおらず、むしろ立川流とは別の集団であったと推測できる内容であるとのこと。
上記の検証内容は、彌永が2004年に学術雑誌『日本仏教綜合研究』で発表した論文「立川流と心定『受法用心集』をめぐって」や、2018年に『智山学報』に掲載された彌永の講演録「いわゆる「立川流」ならびに髑髏本尊儀礼をめぐって」に記載されている。
そしてこれらの論文や講演録はインターネット上で全文が読める。さらに彌永は自らのウェブサイトで「宝鏡鈔」と「受法用心集」のテクストを注釈付きで公開している。本記事下部「関連リンク」には、これらへのリンクを掲載した。
文観が広めた?
上記の「宝鏡鈔」内では立川流の他にも、後醍醐天皇に重用された僧侶「文観」が盛んに批判されている。このことから「文観は立川流の僧なのだ」とする見解が広まっている。
しかし実は「宝鏡鈔」内で「文観は立川流の僧だ」と明言した部分は一か所もない。
「同じ文書の中で一緒に批判されているということはそれらは似通ったものであろう、よって文観も立川流なのであろう」、と推定するのが不自然とまでは言えないものの、「文観は立川流の僧である」と断定するだけの根拠には不足している。
守山聖真や真鍋俊照といった立川流を研究した人物らの著作内でも、立川流と文観との結びつきには疑問が呈されている。
陰陽道混じり?
「真言密教の一派と陰陽道との混合により成立した」「平安後期に武蔵国立川の陰陽師が唱えた」とされることもある。
しかしこれもやはり、大元は問題の「宝鏡鈔」の記載である。つまり立川流を批判する側が書き残した文章であり、「仏教に陰陽道を混入した」という糾弾ととれる内容であることも合わせて考えると、信憑性については疑問が残る。
実際の立川流
上記のような、批判側からの偏見を含んだ視点を除去した立川流の実像を知るには、立川流自らが残した資料を探るしかない。
近年、柴田賢龍という研究家(学僧)が「称名寺聖教」(国宝)や「勝尾寺文書」(大阪府指定有形文化財)などの古文書に含まれていた立川流の文書を和訳し、インターネット上で公開・紹介している。こちらも本記事下部「関連リンク」にリンクを示した。
関連商品
以下のニコニコ市場に並ぶ商品を見渡せばわかるように、一般書では立川流を「性的な儀式を行う宗派」として紹介する書籍が多い。
しかし先述のように学術的には、「立川流は過激な性的儀式を行っていた宗派である」といったような言説は既に疑問視されている。
関連項目
関連リンク
- 立川流と心定『受法用心集』をめぐって | Nobumi Iyanaga - Academia.edu 彌永 信美, 日本仏教綜合研究 2(0), 13-31, 2004
- いわゆる「立川流」ならびに髑髏本尊儀礼をめぐって | Nobumi Iyanaga - Academia.edu 彌永 信美, 智山学報 67, 1-96, 2018-03
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