劉淵単語

リュウエン

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「劉淵」リュウエン 251?~310)とは、三時代末期から五胡十六国時代初期にかけての武将。、後の前)の初代皇帝

初めて中華に異民族皇帝の王を打ち立てた人物である。

概要

洛陽育ちの匈奴の王子

并州新の人。姓は、名が淵、字名は元。祖は三時代に曹操に屈した南匈奴の単であった夫羅。は一時期、蔡琰(蔡文姫)の旦那であった左賢王で、このの代より部族名を捨てて姓を名乗るようになった。

劉淵はと呼延氏のとの間に生まれ、幼少の頃に人質として陽へと住まわされた。ただ、人質と言ってもかなりのVIP待遇をもって迎えられ、儒学者崔遊に学んで教育を受けて一流の教養を身に付け、王渾・王済子と交友を結んでそのツテから時の皇帝司馬昭司馬炎にも直接面会の機会を得るなど、若くして一置かれる存在であったが、いわゆる『胡』(異民族に対する蔑称のようなもの)であった事から栄達は出来ず、そのは高く評価されていたものの活かす機会はなかなか訪れなかった。

漢建国

転機となったのがの死で、これで陽を離れて匈奴の居住区へと戻り、并州冀州の名士層や外戚の一族との人脈を築いた。290年に司馬炎死亡すると司馬衷(恵帝)が即位し、駿が実権を握ると建威将軍匈奴五部大都督へと昇進し郷侯」に封ぜられた。駿賈南風粛清された後も官職に就いていたが、299年に部曲に反乱があったとしてこれに連座して免職となる。

しかし、八王の乱において南匈奴を統率できる存在であった劉淵の存在にを付けた八王の一成都司馬穎が再び将軍取り立てた。304年、劉淵は五部の匈奴居住区から兵を徴発して司馬穎営に加わり、蕩陰の戦いで恵帝の勅を受けていた東海司馬越を大敗させ、恵帝の身柄を確保し鄴へと連行した。

やがて司馬穎は并州刺史司馬騰、州刺史王浚の討伐軍と対峙したが、劉淵はここで更なる兵の徴発を約して一旦、司馬穎の元を離れ左へと入る。ここで劉淵は一族から「上大単称号を与えられ、名実ともに匈奴トップに君臨し、わずか20日の間に劉淵の人物を知る者達が胡や人を問わず集い、5万人もの軍勢を手に入れた。

行動を取った司馬穎司馬騰・王浚に討伐された後も劉淵の勢は健在で、ここで劉淵は離石の首都としての建を宣言し王を自称した。この304年の劉淵によるによって中華統一はわずか24年で崩れ、の他にも成都『成州の『前など新国家が濫立し異民族も交えた新たな群雄割拠の時代である五胡十六国時代が到来する。

漢皇帝の戦い

王となった劉淵の軍勢は并州を席巻し、この期に及んでも八王の乱の分裂で足並みがわない軍は并州刺史司馬騰が挑んだが劉淵に全く勝てず敗走し、并州は定すると更に1年の内に定。308年にはかつて王莽が用いた玉璽を発見し、これを持っての初代皇帝を名乗る。この頃のには一門の聡・曜に人の王弥、降将から見出した石勒など五胡十六国時代初期の名将が多く参戦しており、彼らを将軍として劉淵はの討伐を命じた。

309年、ついに劉淵の四男である聡が首都である陽に迫り、陽の守将である司馬越と戦い3月8月の2度に渡って司馬越の軍勢を破ったが、勝ちに奢り夜襲で逆襲され敗走させられた。その後も意地を見せる司馬越の守りを突破できず、聡を一度退却させたが、その後は線を切り替えて徐州・州・州を攻めさせ一挙に定した。

だが、建し群雄に名乗りを上げたのが54歳と遅かった劉淵はすでにこの頃に重い病に侵されており、陽の陥落を見る事310年に崩御した。享年60。と諡号される。後を長男和に託したが、2代皇帝和は即位してすぐに一門の粛清を計ったのでそれを察した聡に殺されわずか1ヶで除かれ、3代皇帝聡が即位。聡は311年に陽を陥落させ、316年には長安も攻略してはこの時滅んだ。

人物評

幼少の頃から学問を好んで本をよく読み、『左氏伝』『孫子』『子』は全て諳んじる事ができ、易、書道も修めた。また武勇にも優れ、8尺4寸(約193センチ)の大男で矢の腕前に関しては百発百中で並ぶものがく、文武両を自負していた。

の高官たちもその才を高く評価し、司馬炎皇帝の頃よりの征伐や州でのの反乱など時も「将軍に起用してはどうか」との意見が出ることがあったが、『胡』であるという所から反対されなかなか栄達は出来なかった。また、彼を『胡』であるからとして起用に反対した者達も孫呉定しただけで事は済まない」っても州で更なる兵乱をもたらす」など制圧に劉淵が失敗するとは露ほども思っておらず、その才幹を恐れられていた。 

司馬炎であった司馬攸は若かりし日の劉淵と会った後すぐに「劉淵を除かなければ并州に穏は続かない」と劉淵の野心を見抜き司馬炎に上申したが、王渾が「異民族である劉淵をあらぬ疑いを掛けて殺すようではの恩徳は広まらぬ」と反論したので司馬炎はこちらの方に納得し大事にはならなかった。

劉淵は非常に気前の良い人物で施しを好み、離石で飢饉が起きた時は迷わずの倉を開けて穀物を民に配布した。また刑法に厳格で姦邪を禁じ、臣が用な殺戮を行った時は面罵し降格させるなど分別を知る人であったので人にも胡人にも評判が良かったという。五部の匈奴の内でも満場一致リーダーと認められ匈奴を見捨てているならば劉淵のような英雄が生まれることはなかった」とまで言われた。

人生の半分以上を首都陽を過ごしただけあって、異民族でありながら民族文化に造詣が深く、自分がを建てる時も「太祖劉邦義兄弟の後裔」であるとして号を『』と定め、ラストエンペラー劉禅に「孝懐皇帝」と諡号して簒奪者たる曹氏・司馬氏を打ち倒しての室復を掲げるなどかなり形式には拘っており、玉璽を得るまでは皇帝も名乗らなかった。

漢(趙漢、後の前趙)が後世に与えた影響

劉淵のは当初はと同じような大司馬や大司空などの中国官制を用いていたが、やがて華北に胡の人口が増加し始めると族と胡族の居住区を分置して、それぞれの民族に合った法を用いる二重統治体制を生み出した。これは後々後など五胡十六国時代に華北に勃した異民族国家中華支配のモデルとなり、12世紀頃になってもなどが同様の体制を敷いた。

だが、一方でを得た胡の有臣のメンタルは旧態依然とした部族制度から脱しきれておらず、少しでもが劣るものがトップに立った時に臣が支えるという意識が極めて希薄であり、

  • 「有力一門による皇帝の弑逆」
  • 「皇位簒奪」
  • 「軍閥が反乱を起こしての新国家立」

など五胡十六国時代にいて横行するgdgdをひと通り行った挙句に、わずか6代25年で空中分解し滅び去った。

華北覇者として君臨していたのはごく短期間であったが良くも悪くも五胡十六国時代の針を示した国家であった。

『三國志平話』『続三国志』などにおける劉淵

なんと劉禅の実子として設定され、関羽の子孫や張飛の子孫と合流して簒奪者である曹氏・司馬氏のを討ち果たして室復を成し遂げるという超展開ストーリーとなっている。

民族であった劉淵は征中華を制した時に三国志ものの読み物が書かれるとストーリーを延長してこういう役回りを与えられることが時々あったらしい。

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最終更新:2024/03/29(金) 16:00

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