司馬攸(シバユウ 248-283)とは、西晋武帝・司馬炎の弟である。字は大猷。
聡明であったが故に、政争に巻き込まれていった悲劇の皇族。
三国時代の魏で司馬昭と王元姫夫妻の3男として生まれる。長兄の司馬炎とは12歳離れている。他に兄や弟・妹がいるが、夭折している者も多い。
幼くして才覚があり、穏やかで公平な性格をしていた。賢者と仲が良く、施しを好み、文章も巧かった為、当時の人々の模範とされた。このように非の打ち所がないほど優れていたので父の司馬昭からも溺愛され、祖父の司馬懿からも将来を渇望されていた。司馬懿の長男である司馬師は男児に恵まれなかった為、司馬攸が司馬師の養子となり、司馬家の家督を継ぐ準備がされる。司馬攸は司馬師の後妻である羊徽瑜(羊祜の姉)にも孝行を尽くし、互いに仲も良かった。この状態に司馬懿も司馬昭も喜んでおり、司馬攸を積極的に戦に従軍させ、功績によって司馬懿・師が代々継いだ爵位を与えるなど箔を付けさせていた。そして司馬昭の寵臣である賈充の娘(賈荃)を娶る。
しかし、ただ一人喜んでいなかった男がいる。司馬攸の兄である司馬炎である。司馬師に後継ぎがいないので司馬懿→師→昭→炎と家督リレーされる予定が、頭の良い司馬攸が突如現れたことによって計画が狂ったのである。この当時の司馬一族はまだ完全に権力を掌握している訳ではないが、司馬一族が魏の権力を独占し禅譲も夢ではなくなっていくにつれ、司馬炎の弟に対する態度は露骨になっていく。
司馬懿が没した後、家督は司馬師が継いでいたが、255年に起きた毌丘倹(カン丘倹)・文欽の乱のときに持病が悪化する。死を悟った司馬師は、後継者としてまだ若かった養子の司馬攸ではなく、自身の弟である司馬昭を選択する。司馬昭は戸惑ったが家督を継ぎ、その後も政略結婚などによって外堀を埋めていき、魏の中の司馬一族の権力を確固たるものにしていく。263年には蜀漢も平定し、その後司馬昭の位は晋王。もはや誰も司馬昭には逆らえず、魏からの禅譲は目前に迫っていた。しかし、司馬昭には前々から迷っていたことがある。自分は次男であるから、長男の司馬師の系統が正統である。しかも司馬炎よりも司馬攸のほうが聡明で自分にとっても可愛げがある。実際、司馬昭は自分が座っている牀を「ここは桃符(司馬攸の幼名)の座るところだよ~」と言ってしまうくらい司馬攸が可愛くて可愛くて仕方がない。よって、自分の後は司馬攸が継がせたい。
そんな司馬昭の思いとは裏腹に、賈充筆頭の部下たちが司馬昭が継いだのだから、自分の長男である司馬炎に継がせることが道理であると猛反対する。何より、当事者の司馬炎が気が気でなかった。どうしても継いであわよくば皇帝になりたい司馬炎は、羊琇など周囲の者たちに色々と工作を頼む有様で、やがて司馬昭も反対に屈して後継者にしぶしぶ司馬炎を選ぶ。
そして265年、司馬昭がこの世を去る。司馬昭没後の司馬攸はあまりの悲しさに、杖をついてやっと立ち上がることが出来るほど激ヤセした。こりゃやばいぞと心配した周囲が必死に食事を勧め、それでも食べないので母の王元姫の説得で無理矢理食べさせないといけなくてはならなかった。
家督を継いだ司馬炎は魏からの禅譲を受け、265年に晴れて皇帝に。司馬攸は皇族として斉王に封じられたが、はじめはそのまま中央に留まっていた。しかし任地の経営はしっかりしており、民への施しもきちんと考えていた為、兵士からも民からも人気は絶好調。中央に留まっていたこともあり、朝廷内外で発言力を持っていた。官位は衛将軍、驃騎将軍、鎮軍大将軍、司空と華々しい経歴を飾る。ここまでは順調である。
275年、洛陽で疫病が流行り、司馬炎も病に伏せる。司馬炎は後に回復したが、この出来事を皮切りに朝臣の間で司馬攸擁立の動きが活発化する。原因は太子である司馬衷は誰が見てもわかる暗愚であったからである。司馬炎がもし亡くなったら、後継者としては暗愚である太子よりも、実績もあり聡明な司馬攸が適切であろうと思う者が多かった。しかし、司馬炎はやはり太子に継がせたい意志があり、弟の司馬攸は邪魔者でしかなくなった(司馬炎も太子のあまりの暗愚っぷりを心配したが、太子の妻の賈南風らの工作により結局気にも留めなくなった)。
276年、母の王元姫が亡くなる。臨終間際、王元姫は司馬炎に「攸と仲良くして」と泣きながら伝えたが、この言葉が司馬炎の心に響いたのかはわからない。
282年、義父である賈充が病没した。すると、それまで朝廷で過ごしてきた司馬攸だが状況が一変する。司馬炎に突然斉国の帰藩を命じられたのである。大司馬・都督青州諸軍事に任命され、斉王の食邑も増やされるなど優遇されたが、司馬攸はこの待遇が司馬炎とその権力に媚びる荀勗・馮紞らが自分を中央から遠ざける為と気づく。司馬攸は自分はいらない存在なのだと塞ぎ込んでしまい、周王朝で斉に封じられた太公望に例えられても「黙って」と機嫌を損ねるばかりであった。
これに反対した朝臣たちもいる。王渾・羊琇・司馬駿・甄徳・王済・向雄・李憙など次々と上奏するが、司馬炎は「俺のプライベートのことだから」と全く聞く耳を持たない。むしろ羊琇・甄徳・王済などは左遷されている。その後も朝臣から曹丕と曹植のことになぞらえて「やっぱり斉王は帰藩させるべきではない」などと上奏すると、司馬炎はめちゃくちゃ怒って朝臣を粛清しまくった。
司馬攸はこの事件から病に罹った。司馬炎は一応医者を派遣して病状を検査させたが、医者は司馬炎にへつらい「病ではない」と嘘の報告をした。その為、司馬炎は斉国帰藩にGOサインを出すが、司馬攸の体は着々と病に冒されていた。また司馬攸が母の陵墓を守りたいといっても聞き入れてくれない。帰藩出発時、司馬攸は真面目さ故に威儀を正し、何事もなかったように振る舞った。これを見た司馬炎は仮病だったのかと誤認した。2日後、司馬攸は斉国にて吐血して亡くなった。享年36。葬式の際、司馬攸の息子の司馬冏が「嘘をついた医者を殺して」と嘆願した為、司馬炎は医者を誅殺した。なお、この時の司馬冏が後に起きる八王の乱の当事者の一人である。同母の弟を亡くした為か司馬炎もさすがに泣き崩したが、馮紞が「斉王が死んだのはむしろラッキー」と話し、司馬炎もそっかとすぐ泣き止んだ。
この事件が起きたのは先ほども述べたように、賈充が亡くなって間もなくである。賈充は司馬炎を後継者に押した内の一人であるが、同時に女婿である司馬攸の庇護者でもあった。父の代からの寵臣である賈充がいる間は司馬攸に何もしなかった司馬炎であったが、賈充没後はストッパーが外れ、これまでの恨みを司馬攸に全力でぶつけ出す。
異民族である劉淵は漢人の文化に通じ、文武両道で司馬炎や王渾に気に入られていた。しかし、司馬攸はその才覚を恐れ、「劉淵は取り除くべき(殺すべき)」と忠告したが、司馬炎は取り合わず、王渾はむしろ劉淵をフォローした。果たして劉淵は西晋に反旗を翻し、漢の建国者となって西晋を滅亡へ追い込んでいく…。
掲示板
4 ななしのよっしん
2015/08/15(土) 13:27:39 ID: 85jpqtf3Ol
後見ならともかく、この人が皇帝になっていれば良かったってのはないな
人格・高次の政治は良くても、真面目すぎて名士や貴族が力を持ちすぎた晋王朝の調整は難しそう
「劉淵を殺せ」というところに、先見と果断さを感じるが、同時に異民族に対する偏見も匂わせる
晋王朝を腐らせている相手なら内部にいくらでもいるのに、皇帝の弟の発言にしてはなんか攻撃の方向性が変
攻撃して安全な相手を選んでいるとも思えるし、
「あの人格者の司馬攸ですら自分のことを。晋人は信用できない」
と劉淵は考え、後の反乱の遠因になったとすら思う
精神的な問題がなくても、身体は強くなかっただろうし、
権力欲の強いが実務能力は低い一族や功臣の一族に振り回され、心労で早死したと思う
5 ななしのよっしん
2023/10/20(金) 19:37:53 ID: CaQ8XIIOXq
司馬炎が司馬攸を邪険にしてる様は露骨なんよな
・皇弟の模範とも言える劉蒼も就いていた驃騎将軍の位を取り上げる
・司馬攸が太子太傅の時に太子詹事を作って職務を取り上げる
・皇族を領地に向かわせる制度を作り、他の皇族を強制移住させる
・最終的には司馬攸も領地に向かわせる
太子詹事なんて司馬攸が死んだ後にすぐ廃止してるからマジで露骨すぎる
司馬炎の懐刀として司馬攸落としにかなり貢献してそうな楊珧本人の伝にその辺のことがほとんど書いてないのも闇が深い
6 ななしのよっしん
2025/11/22(土) 14:24:55 ID: 2BGCcYKSOS
司馬炎があまり評判がよくなくて、その記事を見てもピンとこなくてモヤモヤしていたが、ここを見てちょっとわかった
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最終更新:2025/12/16(火) 09:00
最終更新:2025/12/16(火) 09:00
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