『黒い仏』(BLACK BUDDHA)とは、殊能将之の推理小説である。2001年、講談社ノベルス刊。
麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』や清涼院流水『コズミック』あたりと並び、ミステリ初心者にオススメの作品としてよく名前が挙がる。
福岡ダイエーホークスと読売ジャイアンツの「ON対決」の日本シリーズに沸く2000年の福岡。アパートの一室で、榊原隆一と名乗っていた身元不明の男の絞殺死体が見つかった。完璧に指紋が消された、生活感のない部屋で死んでいた男は何者で、誰になぜ殺されたのか? 福岡県警の中村と今田は、喫茶店で被害者と会っていたという「黒い瑪瑙のネックレスをした女」を探すが……。
一方、名探偵の石動戯作と助手のアントニオは、ベンチャー企業の社長・大生部の依頼を受け、福岡の阿久浜にある安蘭寺という寺を訪れた。九世紀に円載という留学僧が唐から持ち帰ろうとした秘宝が、安蘭寺に隠されているのだという。寺の古文書から宝の手がかりを探す石動であったが……。
殊能将之の第3作で、前作『美濃牛』に続く名探偵・石動戯作シリーズの第2弾。『このミステリーがすごい!』2002年版12位、『本格ミステリ・ベスト10』2002年版14位。
2004年に講談社文庫入りし、現在はノベルス版・文庫版とも品切れだが、電子書籍で読める。古書での入手も難しくはない。
『黒い仏』というタイトルはF・W・クロフツにかかっており、刑事コンビの地道な捜査と、名探偵・石動戯作の宝探しという並行して語られるふたつの謎解きがどんな形で合流するのか――というのがメインプロットで、ミステリとしての眼目はクロフツよろしくのアリバイ崩しである。
前作『美濃牛』を読んでいた方がより楽しめるのは確かだろうが、話は完全に独立しているので前作を読んでいなくても特に問題はない。分厚かった『美濃牛』に対し、本作はノベルスで200ページ強、文庫で300ページ強とコンパクトな分量でまとまっており、読みやすいところもミステリ初心者にオススメされやすい所以だろう。
ただし巻末の参考文献が超重大なネタバレなのでパラパラ捲るときは要注意。未読の方は是非ネタバレを踏む前に本作を体験していただきたい。
まず、概要冒頭に書き忘れたランキング情報がある。『SFが読みたい!』2002年版8位。
はい、未読だけど気になって開いてしまった人はここで引き返しましょう。ここから先は完全なネタバレである。本作はネタバレ抜きに語ることはほぼ不可能なのだ。
いいですか? いいですね? では始めよう。
上記の通り、警察の殺人事件捜査と石動の宝探しというふたつのプロットが並行して語られるわけだが、前半からちらほらと、事件の背後に何か不穏なものがありそうな気配が匂わされる。まあ、そういう匂わせは物語のフックとしてありふれたものであるから、その段階で本作の趣向を見抜ける人は、冒頭の献辞で「あっ(察し)」となるような、ごく一部の特殊な知識を持った人ぐらいであろう。
そうしてちょっと地味めの普通のミステリだと思って読んでいた読者に本作が牙を剥くのは第二章の終わり。ノベルス版でいうと118ページ、文庫版でいうと157ページからである。このあとの場面には、おそらくほとんどの読者の目が点になるはずだ。
荒廃した阿久浜荘の中庭を徘徊しはじめたもの――。それは、巨大な蜘蛛だった。
いや、蜘蛛と呼ぶにもおぞましすぎる。ねじくれた毛むくじゃらの脚は七本しかなかった。だが、一本欠けたのではなく、七本脚が正常な姿らしい。中央の胴体から均等に周囲に伸びている。
火曜サスペンス劇場かと思ったら、いきなりコズミックホラーな怪物とのバトルが始まったでござる。
いや、島田荘司的な奇想ミステリを読み慣れた人ならば(そしてコズミックなホラーに関する知識のない人ならば)、この時点ではまだ本作が普通の本格ミステリであることを諦めないかもしれない。非現実的な存在が登場するが、それが見事にトリックとして現実的に解決される本格ミステリはいろいろあるわけだし。実際この場面のあと、何事もなかったかのように普通のミステリが再開するので尚更のことだ。
だが、そんな健気なミステリファンは、名探偵の石動が関係者を一堂に集めて始める解決編で茫然とすることになるだろう。さすがにそこで何が起きるのかまでここに書くのは控えるが、およそミステリ史上かつてなかった(推定)解決編が待ち構えている。伝説のラスト2行に辿り着いたとき、本を投げるか否かは貴方次第である。
……というわけで、本作は当時の純朴で善良なミステリファンが壁に投げつけた「壁本」として、つとに知られている。殊能センセーのデビュー作『ハサミ男』の評価の高さは言わずもがなであるし、石動シリーズ前作の『美濃牛』も横溝正史にオマージュを捧げた極めて正統派の本格ミステリだった(若干の余剰はあるが)ところに、そのシリーズ2作目としてこれをお出しされたのだから尚更のことだ。
ただし大事なことなので述べておくが、それは本作が駄作であるという意味ではない。いや、当時ブチギレた人の気持ちもまあわからんでもないが、むしろ現代のミステリファンであれば、本作の趣向は当時のミステリファンよりもずっと受け入れやすいだろうし、人によってはむしろシンプルかつストレートすぎる、ぐらいに感じるのではないだろうか。『虚無への供物』が今読むと普通のミステリに見えるように、ゾルトラーク的な感じで。いや、それはそれでどうかと言われれば、どうだろう……。いいことなんだろうか?
というわけで本作は、21世紀の本格ミステリのいろいろなトレンドを先取りした極めて先駆的な傑作(?)である。初心者にオススメはしないが、一度体験しておく価値は間違いなくあると言えるだろう。
……しかし、ある程度スレたミステリ読みになってから本作を読んで「一般特殊設定ミステリ」みたいに受け取るのもちょっと勿体ない気もする。『夏と冬の奏鳴曲』もそうだが、初心者のうちに本作のような作品を読んで茫然とするのも、それはそれで得がたい経験かもしれない。初心者に本作をニヤニヤしながら薦めてくるタイプのミステリファンからはちょっと距離を取った方がいいとは思うが。読書は自己責任でどうぞ。本を壁に投げることになっても本稿筆者は責任を負いかねます。
また、コズミックなホラーに関する知識のある人であれば、殊能将之が"原典"をいかにもっともらしく"翻訳"したのか、といったマニアックな細部のこだわりを楽しめるだろう。だから刊行当時はミステリファンよりもSFファンの方が喜んだわけですね。
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