U-615とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したVIIC型Uボートの1隻である。1942年3月26日竣工。カリブ海方面での通商破壊で連合軍船舶4隻(2万7231トン)を撃沈する戦果を挙げた。1943年8月7日、ロッキードPV-1ベンチュラ爆撃機1機やPBMマリナー5機と交戦して沈没。Uボート1隻に対する攻撃としては最大規模であり、U-615側も沈められるまでにマリナー飛行艇1機を撃墜した。
1940年8月15日、ブローム&ヴォス社のハンブルク造船所に発注。1941年5月20日にヤード番号115の仮称で起工し、1942年2月8日に進水、3月26日に竣工を果たした。初代艦長としてラルフ・カピツキー中尉が着任する。
竣工した日から訓練部隊の第8潜水隊群へ編入、実戦投入に向けた諸訓練及び整備を行う。3月27日から4月5日までハンブルクで試験航海を行ったのち、4月7日から5月6日まで約1ヶ月間キールに滞在。5月7日にキールを出発してバルト海方面で各種試験と訓練に従事する。6月12日から14日にかけてグタニスクで第25潜水隊群と砲撃訓練を、6月22日から28日にかけてピラウで第26潜水隊群と射撃訓練を、7月13日から22日にかけてゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練を実施。7月24日にハンブルク造船所へ戻り、8月31日まで残工事を受ける。9月1日午前8時、キールに回航して無線装置の積み込みと消磁作業を実施し、新鮮なソーセージと被服が補給された。
1942年9月5日朝、Uボート2隻とともにキールを出港。イギリス軍の潜水艦が潜んでいるスカゲラク海峡を細心の注意で通過し、翌日ノルウェーのクリスチャンサンに寄港。現地で飲料水と清水の補給を受けて即日出港。シェトランド諸島南方を通って北大西洋に入り、アイスランド南東で獲物を求めて遊弋する。
9月12日からウルフパック「プファイル」に所属し、割り当てられた海域に移動。9月15日午前11時21分、北方より接近する敵機を発見して潜航退避。午後12時59分に浮上を試みたが、距離6000mから新手の敵双発機が出現したため再度潜航を余儀なくされた。「プファイル」は9月22日に解散。続いてウルフパック「ブリッツ」に所属するが、今度はハリケーンに巻き込まれて凄まじい雷雨と波がU-615に襲い掛かる。乗組員は安全ベルトを締めて吹き飛ばされないように位置を固定する。9月24日午前9時、距離6000mから接近する敵の陸上攻撃機を探知して急速潜航。20時50分に浮上してみると4海里先に敵駆逐艦が鎮座しており、4分後に敵飛行艇が襲撃してきたため再び潜航退避しなければならなかった。9月26日、「ブリッツ」は解散。この頃からようやく天候が回復し始め、また正午にはU-617から20隻の船団を発見したとの報が入った。すぐに現場へ急行したいU-615だったが、視界不良に阻まれて断念。その後、戦果を挙げられなかったUボートだけで編成された「ティーゲル」に参加するも、9月30日に解散となった。10月5日より「ヴォータン」に所属。10月7日、ロリアンに帰投するU-118と会合して洋上補給を受ける。
なかなか獲物に恵まれなかったU-615だったが、ここでようやく幸運が回ってきた。10月11日16時13分、悪天候でONS-136船団からはぐれたパナマ蒸気船エル・ラーゴ(4211トン)を発見。水上航行をしながら追跡し、19時12分に急速潜航。19時56分、ニューファンドランド北東で2本の魚雷でエル・ラーゴの船体を真っ二つに折って撃沈。30分後、僚艦U-607が応援に駆け付けたが、既に勝負がついていたため去った。20時42分、U-615は1隻の救命艇を捕獲し、フィン・アブラハムソン船長と船員1名を尋問したのち捕虜とした。助かったのはこの2名だけで、残りの57名は死亡。10月15日にイギリス空軍のリベレーターから攻撃されたが、無傷で脱出。
10月23日18時15分、2000個の郵便袋、弾薬、航空機等の軍需品1万555トンを載せてケープタウンに向かっている英大型貨物冷蔵船エンパイア・スター(1万2656トン)を捕捉。荒天のためジグザグ運動を止めて14ノットで航行していた。18時52分、フィニステレ岬北西沖で4本の魚雷を扇状に発射。そのうち1本が67秒後に右舷後方に命中し、機関室を破壊して航行不能に追いやる。船体は徐々に右舷へ傾斜し、船員たちは遭難信号を発信した上で船を放棄。19時15分、トドメを刺すため艦尾魚雷発射管から魚雷を発射したが命中せず。20時24分、三度目の雷撃を行い、35秒後に命中。海中から様子を見ていたが、1万トン級の船体は中々沈まず、U-615は21時16分に再度雷撃。今度こそトドメとなり、5分以内にエンパイア・スターは撃沈された。海中でエンパイア・スターが爆発し、U-615や救命艇が激しく揺さぶられた。10月30日、ドイツ占領下ラ・パリスに帰港。乗組員には休暇が与えられた。
11月25日にラ・パリスを出撃し、北大西洋、アイルランド西方、アイスランド南方で遊弋する。哨戒エリアに到達したU-615は敵船団を捕捉し、位置情報を通報。他のUボートを誘導する触接役を担った。12月1日から11日までウルフパック「ドラウフゲンガー」に所属し、12月11日から「ウンゲシュトューム」に所属。クリスマスの少し前、U-615は司令部から北アフリカ行きの敵船団を攻撃するよう命じられる。南下したのち、獲物の敵船団を発見するが、適切な雷撃位置ではなく攻撃に手間取る。やっとの思いで4本の魚雷を扇状に発射して潜航。だが戦果は無く、護衛艦艇からの対潜攻撃を受けて退散しなければならなかった。浮上した時には船団の接触は断たれていた。12月下旬、U-615はQシップと思われる敵船を発見した。Qシップとは囮船とも呼ばれ、捕鯨船に見せかけているが重武装が施された脅威の船であり、Uボートに対する罠として機能していた。カピツキー艦長は罠と知った上で攻撃を行うと決意、暗くなるまで待った。そして6本の魚雷を発射したが、敵船は突如15ノットに速度を上げて回避。予想通り強烈な反撃をしてきたため潜航退避する。翌日にも同様の船を見かけたが、懲りたのか攻撃は行わなかった。12月30日、「ウンゲシュトューム」から離脱。攻撃の機会には恵まれなかった。
1943年1月2日、U-225から燃料補給を受けて港までの燃料を確保する。ビスケー湾に近づくと敵船団が見えてきたが、燃料に余裕が無いため攻撃を断念した。1月9日、ラ・パリスに帰投。修理と整備を受けて次の出撃準備を行っていたU-615だったが、航海士のミスで岸壁に突っ込んでしまい、右舷側の前方燃料タンクを損傷。急遽修理が必要になってU-615の出撃が遅れた。
2月18日、ラ・パリスを出撃。北大西洋やグリーンランド南方で通商破壊を行う。2月末、U-615はHX-228船団を発見して通報。およそ10隻のUボートが参加するウルフパック「ラウプグラーフ」が結成され、連絡役を務めた。隙を見てU-615も攻撃に加わったが、護衛艦艇による妨害を受けて水深100mまで潜航。しかし爆雷が近くで炸裂したため180mまで潜航してやり過ごした。U-615が浮上すると既に船団は去った後だった。3月23日午前7時45分、U-463と会合して燃料と食糧の補給を受ける。17時45分に作業が完了、U-615は北方に向かった。
4月10日午前9時時50分、ニューヨークからイギリスに向かっているHX-232船団を発見。14時34分、4000トンの弾薬や食糧を運んでいる米リバティ船エドワード・B・ダドリー(7177トン)に向けて4本の魚雷を発射し、1本を命中させる。敵船の足を止める事に成功したが、反撃を受けてトドメを刺せずにいた。翌11日午前4時46分に2本の魚雷を発射し、更なる損傷を与えたものの、敵船はしぶとく浮かび続ける。午前5時6分、浮上して距離800mから砲撃を開始。10分後に積み荷の弾薬に誘爆して大爆発が起き、エドワード・B・ダドリーは沈没した。その際にカピツキー艦長が上腕と肩に破片の直撃を受けて骨折してしまい、帰投を余儀なくされた。船員に生存者は無く、69名全員が死亡。4月20日、ラ・パリスに入港。
整備のついでに8.8cm甲板砲を取り外して20mm機銃を増備。もし急速潜航が遅れた際はこの20mm機銃で応戦せよとの事だった。一部の乗組員は対空学校に入学して操作を学んだ。6月7日、魚雷、弾薬、燃料、真水を積載。6月10日までに出撃準備を整えた。
6月12日午前8時、U-257やU-600とともにラ・パリスを出港。今やビスケー湾はイギリス軍の制空圏内であり、出撃するUボートは2隻以上に固まって対空砲を撃ちまくる戦法を取っていた。出港した当日に早速英第547航空隊所属のヴィカース・ウェリントン爆撃機が襲撃してきたが、艦への被害は無かった。6月14日午前8時59分、湾内を航行中にサンダーランドの銃撃を受け、甲板砲を操作していたハインツ・ヴィルケ砲手が出血多量で死亡。U-615、U-267、U-600の3隻は決死の対空砲火を上げてサンダーランドを撃墜し危機を脱出。死亡した砲手は水葬に付された。
ビスケー湾を抜けた後は僚艦と別れて南西に進み、6月26日にアゾレス諸島南西でU-488と合流。消耗品や修理部品を補給を受けて狩り場のカリブ海方面へ向かった。カリブ海の入り口にて後退するU-535と会合して約20トンの燃料補給を受ける。U-535は航空攻撃により司令塔を損傷している様子だった。7月19日にカリブ海へ進出。カピツキー艦長は司令塔に立って自ら双眼鏡で海岸を観察。カリブ海西部に移動したU-615は各地の港を偵察。途中何度か敵機が飛来したが、U-615に気付かぬまま去っていった。時には照明弾が投下される一幕もあったが、味方と誤認したのか攻撃は無かった。その後、スウェーデンとスペインの船舶を発見したが、どちらも中立国だったため見逃した。
7月28日午前2時、キュラソー島南方で蘭商船ロサリア(3177トン)を発見し、2本の魚雷を喰らわせ、積み荷の原油に引火して大破炎上させる。午前4時25分、ロサリアは沈没した。7月29日、U-615はB-18爆撃機に襲われて退避。8月6日、キュラソー島南東で第204飛行隊所属のマーティンPBMマリナー飛行艇2機に襲われ、潜航したものの3~4発の投弾を受けて深刻な被害を受ける。機関は停止し、高圧気線が断裂して浸水被害が発生。やむなくU-615は浮上して20mm対空機銃2基に要員を配置して反撃。姿を現したU-615を見て、2機のマリナー飛行艇が攻撃を再開したが、20mm機銃の集中砲火でマリナー飛行艇1機を撃墜。だがマリナーの攻撃は続き、更なる損傷を負ったU-615は漂流を強いられる。カピツキー艦長も太ももに銃弾を受けて重傷を負い、船体の放棄と乗組員に別れを伝えた。生き残った乗組員は遭難を意味する信号弾を発射。これが連合軍機を招き寄せてしまう事に…。
1943年8月7日朝、ベンチュラ爆撃機1機とマリナー飛行艇5機に襲われ、多数の爆雷攻撃を受けて沈没。投げ出された生存者43名は約1時間後に到着した米駆逐艦ウォーカーに救助された。U-615が敵機を引き付けたおかげで、カリブ海に残っていた他のUボートが航空機の罠から脱出出来たという。
生存者はアメリカ軍の捕虜となって収容所に連行。このうち5名は先に捕虜となっていたU-118の元乗組員ドレクスラーから尋問を受け、Uボートの技術的構造を聞き出そうとしたが、敵の犬に成り下がったドレスクラーを5人は裏切り者と判断して口を割らず。1944年3月12日、オクラホマ州のパパゴ・パークへ移送された際に5人と新たに加わった別の元乗組員2人は結託し、同日夜にドレスクラーをリンチして殺害。8月16日に加害者7名は死刑宣告され、8月25日に絞首刑となった。
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