スチュワート(USS Stewart, DD-224)とは、アメリカ海軍の駆逐艦である。
数多く存在するアメリカ海軍艦艇の中でも、極めて数奇な運命を辿った艦として知られている。
時は太平洋戦争の最中、太平洋の制海権を巡り大日本帝国と連合国が鎬を削っていた頃。
米軍の航空機が“それ”を発見したのは日本の勢力圏内を偵察飛行していた時であった。
その海は明らかに日本の勢力圏内であり、そんな場所を味方の艦が堂々と航行しているなどあり得ないはずだったが、
誘導煙突や三脚マストなど日本の艦の特徴を持っていながら、しかし日本の艦と明らかに違う「平甲板型船体」を持つ“それ”を米軍パイロットが見間違うはずもなかった。
その艦を見たパイロットはこう叫んだ。
「あれは、アメリカの艦だ!」と。
そして、“それ”を見た者の間では「沈んだ駆逐艦が幽霊船となって今も作戦を続けている」という噂話が囁かれたと言われている。
無論、そこにいたのは幽霊船でも何でもなく、“かつてアメリカの艦だったもの”。
その名前を『スチュワート』という。
スチュワートは遡ること1920年9月15日、ウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社のフィラデルフィア造船所でクレムソン級駆逐艦33番艦として竣工した。
コールドウェル級駆逐艦から始まった、“フラッシュ・デッカー(平甲板の意)”、あるいは“フォー・スタッカー(4本煙突の意)”の異名を持つ「平甲板型船体」[1]最後の艦級であるクレムソン級は合計156隻が建造されており、スチュワートもその数ある駆逐艦の中の1隻だった。
艦名はチャールズ・スチュワート提督に因み、進水式の際にはスチュワート提督の孫娘も参加したという。
また、「スチュワート」の名を持つ軍艦としてはベインブリッジ級駆逐艦「スチュワート(DD-13)」に次いで2代目となる。
就役後、1年間沿岸部における作戦行動の後に大西洋駆逐艦隊に合流し、カリブ海での艦隊練習に参加。
1922年6月20日にはアメリカ海軍アジア艦隊に配属され、20数年余りをそこで過ごす。
スチュワートがアジア艦隊に配属された翌年の1923年9月1日、日本を激震が襲った。関東大震災の発生である。
地震によって甚大な被害を受けた日本に対し、当時のアメリカ合衆国大統領カルビン・クーリッジは日本への支援活動を行う事を決定。これは、諸外国が行った支援の中でも最大規模のものであった。
そして、その時日本に派遣されたアジア艦隊の中に「スチュワート」も含まれていたのである。
関東大震災において日本を支援した米海軍艦艇 |
---|
重巡洋艦「ヒューロン」(旧ペンシルベニア級装甲巡洋艦サウスダコタ) |
駆逐艦「スミス・トンプソン」「バーカー」「トレイシー」「ボリー」「ジョン・D・エドワーズ」「ウィップル」「ハルバート」「プレストン」「プレブル」「ノア」「スチュワート」 |
駆逐艦母艦「ブラックホーク」 |
輸送艦「メイグス」「メリット」「アバレダー」「ベガ」 |
給炭艦「ぺコス」 |
日本に到着した「スチュワート」は東京湾に展開、避難民や救援物資の輸送に従事。それはまさしく、“90年前の『トモダチ作戦』”であった。
こうして震災から立ち直る為に手と手を取り合った日本とアメリカだが、その20年後には互いを殺しあう戦争の道へと進んでゆくというのは、何とも悲しい話である。
時は流れ1942年。太平洋戦争勃発後、アメリカはイギリス、オーストラリア、オランダと共に「ABDA連合軍」を結成。
スチュワートも艦長のハロルド・P・スミス少佐[2]の指揮の下、第58駆逐隊(DesDiv 58)[3]の旗艦として連合軍艦隊に組み入れられる。
しかし、「連合軍」と言うと聞こえはいいが、その実情は単なる烏合の衆の寄せ集めに過ぎず、 東南アジアにおける数々の敗北に繋がった。
そして1942年2月20日深夜、スチュワートの運命を大きく変える「バリ島沖海戦」が始まる。 ジャワ島攻略の先駆けとしてバリ島攻略を決定した日本軍は19日に陸軍輸送船2隻と第八駆逐隊の朝潮型駆逐艦「朝潮」「大潮」「満潮」「荒潮」と共にバリ島南部のサヌールに上陸、これを占領した。
一方、日本軍の輸送船団を発見した英潜水艦「トルーアント」、米潜水艦「シーウルフ」の報告により、米陸軍航空隊が日本の輸送船を攻撃、これを小破させる。
損傷した輸送船は「満潮」「荒潮」の護衛の下先立って離脱、残った艦隊を攻撃する為、
蘭軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」「トロンプ」、蘭駆逐艦「ピート・ハイン」、
米駆逐艦「ジョン・D・フォード」「ポープ」「パロット」「ピルスバリー」「ジョン・D・エドワーズ」そして、「スチュワート」で構成された連合軍艦隊がバドゥン海峡に赴く。
バドゥン海峡へは「デ・ロイテル」「ジャワ」「ピート・ハイン」「ジョン・D・フォード」「ポープ」で構成された第1梯団が先に突入したが、連携の取れていない連合軍艦隊は「朝潮」と「大潮」の反撃を受け、「ピート・ハイン」が沈没という損害を被る。そして午前3時5分、「トロンプ」「パロット」「ピルスバリー」「ジョン・D・エドワーズ」そして「スチュワート」で構成された第2梯団が単従陣で海峡に突入する。
第2梯団は直ちに先制魚雷攻撃を開始するが命中せず、逆に海峡を北上してくる敵艦隊を発見した「朝潮」「大潮」は敵艦隊に突撃、砲撃戦を開始する。午前3時16分、「スチュワート」は砲弾1発を被弾、1名が戦死するものの航行能力に支障はなく右に回頭し北上を続けた。この砲撃戦によって「大潮」は艦橋に被弾し11名が戦死、「トロンプ」は11発の砲弾の直撃によって小破した。
午前3時37分、海峡を北上していた「スチュワート」と「ジョン・D・エドワーズ」は味方の救援の為に戻ってきた「満潮」「荒潮」と遭遇、距離3500mからの砲戦が始まる。
片や第一次世界大戦当時に設計された型落ちの駆逐艦、片や当時最新鋭の駆逐艦という不利な状況ではあったが、2隻から放たれた砲弾が機関部に命中した事により「満潮」を大破させる事に成功する。
しかしその代償として「スチュワート」が12.7cm砲弾を浴びた事で小破、戦線を離脱する。
結果、バドゥン海峡の戦いは連合軍の敗北に終わり、後にスラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦でも敗北を重ねた事によってABDA連合軍は完全に壊滅する事となる。
戦線を離脱した「スチュワート」はすぐにスラバヤの浮きドックへと入渠するが、その際に作業員の不手際によってドックの排水作業中に船体が左に傾斜、更なる損傷を負ってしまう。
その上、進撃してきた日本軍が目と鼻の先にまで迫っており、連日の爆撃によって味方艦は撃沈され、施設も破壊され、24日には「スチュワート」にも爆弾が直撃する。
こうなると最早修理は不可能であり、米軍に出来るのは「スチュワート」が日本軍の手に渡らないように処分する事だけだった。
同年3月2日、全身に爆弾を仕掛けられた「スチュワート」は浮きドックごと爆破され自沈処分。その生涯を終える事となる。
・・・・・・はずだった。
日本に占領されたスラバヤの港、その中に「スチュワート」の姿はあった。
米軍による自沈処分は失敗に終わり、結果的にこの艦は日本軍に鹵獲される事になったのである。
1943年2月、第102工作部の手によって浮揚され、「スチュワート」は現地で損傷の修理、及び1番、2番煙突の結合といった改装工事が施され、艦名を『第102号哨戒艇』に改称。魚雷発射管や機銃、主砲などの兵装は全て取り外され、代わりに占領地で鹵獲されたオランダ軍の高角砲や機銃が搭載された。
かつて「スチュワート」だった艦はこうして“日本の軍艦”として新たな艦歴を刻む事となった。
しかし、この時既に1920年の就役から22年という超老朽艦であったため、哨戒艇として就役後も度々ボイラーの故障に悩まされたという。
そして、“敵国の艦になる”という事はすなわち、“かつての味方”と相対する事が避けられなくなっていく事も意味していた。
1943年9月28日に試験航海、10月11日に兵装試験を終えた「第102号哨戒艇」は主に東南アジア方面の船団護衛任務に就く事になる。
1944年1月8日、バリクパパンからパラオへ向かう石油タンカー「日本丸 (山下汽船)」「国洋丸」「健洋丸」からなる輸送船団を駆逐艦「島風」「早波」と共に目的地まで護衛する任に就いており[4]、
6日後の1月14日にはトラック諸島を出港した「日章丸 (初代)」の護衛を駆逐艦「谷風」から引き継いでいる。
(なお、本艦の経歴とは関係ない事であるため詳細は割愛するが、この時任務を共にした「早波」と「谷風」は約半年後・・・・・・)
3月14日、「第102号哨戒艇」はパラオ泊地に停泊していた工作艦「明石」によってダイバーを使っての損傷検査を受けているが、この時には特別な異常は発見されなかった。
その後、3月22日にタラカン島から出発したタンカー「那須山丸」「安城丸」「昭南丸」等で構成された船団を「第4号駆潜艇」と共に護衛していた最中に“敵の”潜水艦から雷撃を受けるが、幸い発射された魚雷は全て回避に成功し、潜水艦も撤退したため船団は無傷のまま24日にバリクパパンへと入港している。
5月1日、マニラにおいて上海からやってきた『竹一船団』に参加。絶対国防圏の設定によるニューギニア方面への戦力輸送計画「竹輸送」の一環として行われ、護衛艦艇も旗艦を務める急設網艦「白鷹」を始め、駆逐艦「白露」「五月雨」、「第104号哨戒艇」「第38号駆潜艇」などで構成された船団であり、「第102号哨戒艇」もその中に組み入れられたのである。
・・・が、出港直後にまさかのボイラーが故障、修理に1日を費やしてしまい結果的に船団に置いて行かれる形となってしまう。
結局ハルマヘラ島ワシレに入港したのは船団到着の2日後である5月11日。その間に船団はガトー級潜水艦「ガーナード」の襲撃によって輸送船3隻を喪失、ニューギニアへの輸送を断念せざるを得なくなり「竹一船団」の輸送任務は失敗に終わってしまう。往路はこのような結果となってしまったが、復路においては潜水艦の襲撃もなく帰還に成功した(が、ここでもまたボイラーが不調を起こしている)。
「竹一船団」の失敗後も増援部隊や物資の輸送のために引き続き輸送作戦が計画されており、「第102号哨戒艇」はその内の『竹四船団(H27船団)』に駆逐艦「栂」などと共に参加しているが、こちらも往路復路共に損害なくワシレへの輸送を成功させている。
6月27日、本格的な修理の為にカヴィテのドックに入渠。7月31日に修理が完了し、1ヶ月間の試験航行を行っていた・・・・・・
その最中であった。
8月23日、「ヒ71船団」から分離後に「タマ24A船団」を編成しマニラへと向かっていたが、ルソン島北部のダソル湾にて敵の潜水艦に狙われ身動きが取れなくなっているタンカー「二洋丸」の救援をするという任務を受ける事となり、「第102号哨戒艇」は丁型海防艦の「第22号海防艦」と共にマニラを出撃した。
しかし、この時「二洋丸」を狙っていた潜水艦とは、ガトー級潜水艦「ハッド」「ヘイク」そして「ハーダー」だったのである。
「ハーダー」はこれまでの間に駆逐艦「雷」「水無月」「早波」「谷風」の撃沈など、大量に日本の艦船を倒してきた歴戦の潜水艦であり、前日の8月22日にも護衛にあたっていた海防艦「日振」と「松輪」を撃沈していた。
対する「第102号哨戒艇」は先述したようにボイラーの故障が相次ぎ、僚艦の「第22号海防艦」も修理中の体に鞭打って出撃しているという、歴戦の艦を相手にするには余りにも分が悪い状況であった。
8月24日、「第102号哨戒艇」はダソル湾から脱出する為に「二洋丸」の誘導を開始。対潜警戒に当たっていた「第22号海防艦」は海面から出ている潜望鏡を捉え爆雷攻撃を開始した。
その後、「第22号海防艦」が爆雷を投下した地点からは重油やコルク片が浮かび、同時刻には「ヘイク」も幾多もの爆発音を確認したという。
撃沈されたのは・・・「ハーダー」であった。※
※なお、誤解の無いよう付け加えておくと、上記の通り「ハーダー」を撃沈したのは「第22号海防艦」であり、「第102号哨戒艇」は「二洋丸」に随伴、誘導を行っただけで「ハーダー」に対しては特に何もしていない。
もしかしたらこの時「第102号哨戒艇」は『“かつての味方”を撃沈した艦』になっていたのかもしれないが、片や半年前に就役したばかりの最新鋭海防艦、片や就役から24年という超老朽艦となれば、どちらが対潜戦闘を行うかは考えるまでもないという事なのだろう。
やがて、「二洋丸」を引き連れダソル湾を脱出した「第102号哨戒艇」のもとに「第22号海防艦」が再び合流し、マニラへの帰還に成功した。[5]
1944年8月29日、海防艦「択捉」「占守」「昭南」「第7号海防艦」「第28号海防艦」、「第41号駆潜艇」からなる『マモ02船団』に参加。マニラを出港してきた「香椎丸」「日章丸」「能登丸」、陸軍特種船「摩耶山丸」と共に高雄へと向かう。
8月31日、高雄に到着。護衛任務を駆逐艦「若葉」「初霜」に移譲し船団から分離するが、その日の夜、そして翌日にも高雄港にアメリカ軍機が襲来。艦載砲や機銃による迎撃を行っている。
10月18日、佐世保の港にて『ミ23船団』に参加。東南アジア有数の石油の産地であったボルネオ島ミリに向かうために、「第16号海防艦」「第20号海防艦」「第34号海防艦」「第38号海防艦」「第46号海防艦」、かつては駆逐艦「蓬」であった「第38号哨戒艇」と共に日本を出港。敵潜水艦の襲撃を警戒してか大陸沿岸を進むルートを取り、朝鮮半島の羅老、東シナ海の舟山群島を経て台湾海峡へと到達した。
なお、出港の翌日である19日には「第38号海防艦」と共に“敵潜水艦を撃沈した”という報告を行っているが、アメリカ海軍には該当する喪失艦はない。
10月24日、台湾北西の東引島付近において高雄に向かう「広田丸」「陽海丸」、「雲仙丸」を護衛するために「第38号哨戒艇」と共に船団本隊から分離、翌日の25日に高雄市左営に到着する。
(この時分離した船団本隊、この直後に台湾海峡においてバラオ級潜水艦「タング」の襲撃を受けているのだが、こちらも本艦の経歴とは関係ないため割愛する)
詳細な時期は不明であるが、11月には呉にて再び改装を施されており、ボイラーや兵装の換装、マストの交換などを行っている。
11月12日、高雄に戻ってきた「第102号哨戒艇」は「第38号哨戒艇」と共に貨客船「さんとす丸」を護衛するため往路『タマ31B船団』を編成。先月に発生したレイテ沖海戦の敗北によって最早安全な場所ではなくなっていたフィリピンへと出発、度重なる空襲を退けて21日にマニラへと入港する。
11月23日、マニラにおいて新たに「第33号駆潜艇」を加えた、復路『マタ34船団』は一路高雄を目指し出港。この時、「さんとす丸」には約1,500名程の人員が乗り込んでいたとされるが、その中には先の海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の生存者420名が含まれていたという。船団は12~13ノット程の速力を保ちつつ北上、24日の深夜にはバシー海峡へと差しかかっていた。だが、それと同時に船団に忍び寄る影もいたのである。
日付も変わり25日の午前1時10分過ぎ、突如「第38号哨戒艇」から、そして間を置かずに「さんとす丸」からも巨大な水柱が上がる。
それは、事前に船団の存在を探知していたバラオ級潜水艦「アトゥル」からの雷撃であった。魚雷発射後に「アトゥル」はその場を離脱、被雷からおよそ1分後に水煙が消えた時にはもう「第38号哨戒艇」の姿は存在しなかった。文字通りの「轟沈」であった。
そして、しばらく浮いていた「さんとす丸」も間もなく沈没。「第102号哨戒艇」は「第33号駆潜艇」と共に生存者の救助にあたった。最終的に700名程が救助され、先述した「武蔵」の生存者もこの攻撃により300名が死亡、120名程が救助されている。
11月30日、高雄においてシンガポールへと向かっていた『ヒ83船団』にタンカー「みりい丸」と共に合流。護衛艦艇として「第35号海防艦」「第63号海防艦」「第64号海防艦」「第207号海防艦」、護衛空母「海鷹」で構成された船団は、今やいつどこで起こるか分からぬ米軍の襲撃を警戒しながらの航海を余儀なくされていた。
12月3日早朝、海南島の沖を航行していた船団はバラオ級潜水艦「パンパニト」「パイプフィッシュ」の襲撃を受け、「パンパニト」の雷撃によってタンカー「誠心丸」が被雷、「パイプフィッシュ」の雷撃によって「第64号海防艦」が撃沈されてしまう。「第63号海防艦」が潜水艦に対し爆雷を投射するが、一撃を与える事が出来ず潜水艦は離脱していったという。
船団は一時的に海南島南端の楡林港に避難するが、被雷による損傷によって身動きが取れず漂流していた「誠心丸」救助のために「第207号海防艦」と共に出港、捜索の末12月5日に「誠心丸」を発見し、「みりい丸」が同船を曳航している間の護衛を務め、船団への再合流に成功する。その後は敵の襲撃もなく、12月13日に船団はシンガポールへと入港した。
12月26日、資源や物資を搭載して日本へと戻る『ヒ84船団』に引き続き加入。「第63号海防艦」「第207号海防艦」「海鷹」が同じく参加した他、新たに海防艦「沖縄」を加えた船団はシンガポールを出港した。30日には船団の仮泊のためカムラン湾に入港しているが、その際に「礼号作戦」を終えたばかりの日本艦隊と遭遇している。
12月31日には南シナ海を北上していた船団をガトー級潜水艦「デイス」が襲撃する。「デイス」が放った3本の魚雷は船団に随伴していた「海鷹」に接近するが、この時は幸運にも3本とも命中せず、「デイス」もその場を離脱していった。
(なお、この時デイス側は海鷹を「千歳型航空母艦」であると認識していたようである)
その後、トゥーラン(ダナン)、香港、舟山群島にて仮泊を繰り返し、1945年1月13日に船団は門司へと入港する。
1月14日、呉において三度改装を施され、主砲を40口径三年式8cm高角砲へと換装、13号対空電探、22号対水上電探の装備、そして船体の修理などを行った。3月14日、全ての工程を完了し呉を出港する。
4月26日、舟山群島から門司へと向かう『シモ03船団』に加入するが、この任務において「第102号哨戒艇」に最大の危機が訪れる。護衛艦艇に駆逐艦「朝顔」、海防艦「宇久」「第26号海防艦」、「第20号駆潜艇」及び「第29号掃海艇」が参加していたこの船団は、当初は何事もなく黄海を東進していた。
翌日の27日、この時期になると日本の制海権は無きに等しく、どこにいても敵機が爆弾を落としてくるのが珍しい光景ではなくなっており、今回もまた度々空襲に見舞われながら朝鮮半島の木浦沖を航行していた船団であったが、午後10時34分頃、ソナーに敵潜水艦らしき反応を探知。「第102号哨戒艇」も即座に対潜攻撃に移るが・・・
突如、上空から2機のPBYカタリナが襲来し船団に機銃掃射を行ってきたのである。「第102号哨戒艇」も機銃に滅多打ちにされ舵を損傷、一時航行不能となってしまう。その後も戦闘は続き、最終的に襲撃してきた敵機の内1機を撃墜、1機を撃退するものの、この時の戦闘における船団の総死者数17名の内10名が「第102号哨戒艇」の乗員であった。
その後も断続的に空襲が相次いだが、途中から海防艦「崎戸」「屋代」「第41号海防艦」の3隻も加わり、奇跡的に1隻の戦没艦も出す事なく門司への入港に成功したのだった。そして、これが「第102号哨戒艇」において最後の船団護衛任務となった。
5月3日、修理のために呉海軍工廠のドックへ入渠。同月中旬には、先の4月25日に創設された『海軍総隊』の隷下部隊であり、「榛名」「伊勢」「日向」「天城」「龍鳳」「鳳翔」「第48号海防艦」「第77号海防艦」「第126号海防艦」などで編成された『呉鎮守府部隊』に配属される・・・・・・と、言えば聞こえはいいが、要するにこの頃の日本には最早まともに動かせる艦など存在しなかった事の裏返しであるとも言える。
6月11日、呉から海軍航空隊のパイロットを輸送するため大分の佐伯基地へと移動。到着後はそのまま大入島に係留され、乗員達は空襲時避難用シェルターの造成に従事したという。
そして、「第102号哨戒艇」は再び、呉への移動を命じられた。時にして1945年8月15日の事であった。
“かつての味方”によって、世界最強の機動部隊も、世界最大の戦艦も海の底へと消えた。しかし、この艦は“かつての味方”に沈められる事なく、終戦の日を迎えたのである。
終戦後、日本に進駐した米軍は呉市の広地区においてとある艦を発見する。
それは、改装によって形状はやや変わっていたものの、紛れもなくあの時喪われたはずの「スチュワート」そのものであった。
1945年10月29日、日本の軍艦となっていた「第102号哨戒艇」こと「スチュワート」は再びアメリカ海軍艦艇として再就役した。
しかし、既にスチュワートを喪われた艦であると認識していた米軍はエドサル級護衛駆逐艦「スチュワート(DE-238)」に艦名を継承しており、名前の無いこの艦は単に「DD-224」とだけ呼ばれた。
中には「浮気なお転婆娘」と揶揄する者もいたが、敵軍に鹵獲されながらも再び戻ってきたこの艦を、軍人たちはこう呼んだという。
『RAMP(Recovered Allied Military Personnel)』・・・「帰ってきた連合国軍人」と。
その後、1946年3月に長年離れていたアメリカ本国へと帰還。1922年に米海軍アジア艦隊へと配属されてから実に24年ぶりの事だった。
(なお、本国へ帰還した際の様子がブリティッシュ・パテのカメラマンによって撮影されており、映像が現在も残っている。映像内からは、外形こそアメリカ製のそれであるものの、艦橋部に据え付けられた電探や内部計器類など中身は完全に日本の艦船となっていた事が窺える。)
そして、帰ってきた「スチュワート」はこの国における“最後の奉公”を行う事となった。
1946年5月24日、標的艦となった「スチュワート」はサンフランシスコ沖にてF4Uコルセア及びF6Fヘルキャットからのロケット弾攻撃によって沈没。その極めて数奇な生涯を終えたのである。
排水量 | 1,215t |
全長 | 95.83m |
全幅 | 9.68m |
機関 | フォスター式重油専焼水管缶4基 +ウェスティングハウス式ギヤード・タービン2基2軸推進 |
最大速力 | 就役時:35kt(哨戒艇時:26.0kt) |
航続距離 | 就役時:15kt/4,900海里(哨戒艇時:12kt/2,500海里) |
乗員 | 101名(哨戒艇時:120名) |
兵装(スチュワート) | Mk.9 10.2cm(50口径)単装速射砲4基4門、Mk.14 7.6cm(23口径)単装高角砲1基1門、53.3cm三連装魚雷発射管4基12門 |
兵装(第102号哨戒艇) | 3インチ(40口径)単装速射砲2基2門(オランダ製)、爆雷72個、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機 |
兵装(最終時) | 40口径三年式8cm単装高角砲2基2門、爆雷72個、八一式爆雷投射機2基、九四式爆雷投射機2基、三式水中探信儀、13号対空電探、22号対水上電探 |
これは、日本が鹵獲した戦闘艦艇の中では最大のものである。[6]
掲示板
42 ななしのよっしん
2019/11/30(土) 16:15:40 ID: T6lfHewMsg
>>41
今イベが蘭印ですから可能性が高いですね。
(新艦7隻中4隻公表済み残り3隻)
43 ななしのよっしん
2022/01/28(金) 23:17:18 ID: 4QbnReIgED
44 ななしのよっしん
2023/06/04(日) 01:44:21 ID: 0eR89w/Ida
wikipediaの方では最終時の兵装に45cm魚雷落射機4基とか書いてあるけど(ソースは『歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.45』か?)落射機て、魚雷艇みたいに舷側から正面にポイっと放るタイプのを装備してたのか?腐っても元駆逐艦の長い船体でそんな事出来たんだろうか
急上昇ワード改
最終更新:2024/05/04(土) 21:00
最終更新:2024/05/04(土) 21:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。