エルヴィス・プレスリーはアメリカ合衆国のロック歌手。1935年1月8日生まれ。1977年8月16日に急死。
概要
デビュー当初は黒人のように歌うことのできる白人ミュージシャンという形で発掘された。当初、黒人のブルースは白人マーケットには出されず、白人がカバーしたものが白人の耳に入る形であった。しかし、白人ミュージシャンでは黒人のリズムは出せず、ブルースではなく、カントリー調になることが多かった。
カントリーとブルースを融合し、「ロックンロール」という新しいサウンドを誕生させた人物として知られている。
1954年にシングル「That's All Right」でデビュー。
1955年、大手レーベルのRCAに移籍。1956年、移籍後初シングル「Heartbreak Hotel」をリリースする。
社会現象を巻き起こしながらもエルヴィスは着々とキャリアを積み、映画にも出演。サウンドトラックや映画が大ヒットしたこともあり、「ミュージシャンが主題歌を引っさげて出演する」という新しい映画のビジネスが生まれた。
1958年、徴兵令を受ける。もともとエルヴィスには他の有名人同様スター用の特例任務が用意されていたが、マネージャーであるパーカー大佐が大人から社会問題の根源扱いされているエルヴィスの好感度を上げようと特例措置を拒否。エルヴィスもこれに同意した。
除隊後、初の映画となる「GIブルース」に出演。大ヒットしたこともあり、パーカー大佐はスタジオと映画出演の長期契約を取り付けてしまう。これが影響してエルヴィスはまともな音楽活動ができなくなってしまった。映画スタジオが用意した曲や脚本にも満足できなかった。
エルヴィスが主演のみという触れ込みだけで収益があげられるため、スタジオはできるだけ低予算な曲や脚本を用意していたのである。
エルヴィスの映画に対する不満は次第に積っていき、1968年、パーカー大佐の反対を押し切りテレビ番組「ELVIS」(のちにカム・バック・スペシャルと呼ばれる)に出演。もともとのバック・バンドであったスコティ・ムーア、DJ・フォンタナ、友人であったチャーリー・ホッジらと一緒に演奏した模様が放送された。
1969年、念願のライブ活動を再開する。ここでもパーカー大佐はベガスのショーに当たって、「ラスベガス万才」のようなステージを演出しようとしたが、エルヴィスはこれを拒否。バック・バンドを見えるところで演奏させて、女の子もはべらかさないステージを演出した。
従来のロックンロールのほか、カントリー・アンド・ウェスタン、ゴスペルにも活動を広げ、保守派層にも愛される偉大な歌手となった。
このころから映画でくだらない曲を歌わされた経験から「好きな曲しか歌いません」と宣言。
1970年、ステージとリハーサル模様を撮影した映画「エルビス・オン・ステージ」公開。
1972年、コンサート・ツアーの模様を撮影した映画「エルビス・オン・ツアー」公開。
ライブ活動を再開した時点では筋肉質で痩せていたが、このころより体重が増加。ステージ前には過激なダイエットを行うなど、体に負担をかけていた。
1973年、初のソロ歌手による世界衛星中継「アロハ・フロム・ハワイ」を放送。
精力的にライブ公演を続けてきたが、1977年8月16日、処方薬の極端な誤用による不整脈で死亡。42歳であった。死後の翌日にはエルヴィスのレコードを購入する人が続出し、後に1日の売上のギネス記録を作った。
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