スタンリー・キューブリックとは、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス生まれの映画監督である。代表作は『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』など。
1928年7月26日生まれ。1999年3月7日没。死因は心臓発作とされるが、正式な死因は未だに明らかにされていないため、死因については現在も様々な憶測を呼んでいる。
略歴
大学を中退し、カメラマンとして出版社に勤めていた。この頃、仕事の合間を縫って多数の映画を鑑賞し、『今活躍してる若い奴らよりは、自分の方がよっぽどうまく撮れるのではないか』と考え、出版社を退社。
親戚などから借金をして、映画製作を始める。初期の頃は赤字つづきで、いまいちパっとしなかったが、徐々に頭角を現し始める。特に、1957年制作の戦争映画『突撃』は、当時ハリウッドで名の知れた俳優だったカーク・ダグラスに脚本の初期稿をえらく気に入られ、ダグラスのバックアップを受け制作にこぎつけた(しかしクランクイン直前になって安易なオチに改稿した結果、ダグラスの逆鱗に触れ、結局最初のオチに戻されたが、これがきっかけでダグラスとは確執が生まれてしまう)。
その後もダグラスの推薦で、大作『スパルタカス』の監督を任されるが、すべてスタジオとダグラスに決定権があり、自分の意志で映画作りをできないことに窮屈感を覚え、以降アメリカで映画を製作することはなかった。
特に、『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』は世界的にも高く評価されており、この頃がキューブリックの絶頂期と言われている。
その後、制作期間を開けて数本の映画を製作し、1999年、イギリスの自宅で静かに息を引き取った。享年70歳。残念ながら代表作の『2001年宇宙の旅』の時代を生きたまま迎えることなく旅立った。
評価と人物
ユダヤ人の家庭に生まれ、幼少期は比較的裕福だった。また、ユダヤ人としての人脈を生かし、初期の頃は映画を作る予算などもある程度容易に調達できたのではないか、と言われている。
極めて難解な作風と、ただ見るだけではその良さが分からない深い考察が必要で、賛否の分かれる監督である。しかしハマる人はとことんハマる。
私生活に関してほとんど語ることが無かったため、インターネットが普及した21世紀に入ってからはそのミステリアスな側面だけが強調され、気難しく人との付き合いを好まない天才(あるいは鬼才)監督と言う評価が付きまとっている。しかし近しい人たちを中心に、彼に対する好意的な意見も多く、少し変人ではあるが気難しい人物ではなかったようである。死因が明かされていないため暗殺説が出たり、アポロ計画陰謀論に関わっていたなど都市伝説の対象とされたり、死後も彼に対する様々な考察が行われている。
俳優にあれこれ指導するタイプではなく、「自分で演技できる俳優」には比較的自由に演技させていた。一方で、自分で演技できない俳優には徹頭徹尾辛辣に当たり、追い詰めて演技を引き出す演出も行っていた。テイクがかさむ事が多く、完璧主義者といわれていた。
映画『フルメタル・ジャケット』でハートマン軍曹を演じたロナルド・リー・アーメイとはこの映画がきっかけで親しい間柄となり、プライベートでも友人となった。アーメイのことはかなり気に入っていたらしく、『今まで仕事をしてきた中で最高の俳優』と最上級の賛辞を送っている。また、スティーブン・スピルバーグとも仲が良く、『シンドラーのリスト』を絶賛し自身が企画していたホロコースト映画の制作を取りやめている。遺作『アイズワイドシャット』の次作として企画していた『A.I.』も、もともとスピルバーグと共同で作る予定で、生前この映画の打ち合わせを頻繁に行っていたという。
高校時代成績は平均以下だったが、IQは平均以上あり、映画の撮影に入る前には膨大な資料をかき集めて読みふけり、専門家並みの知識を付けていたという(小説版『2001年宇宙の旅』前書きより)。また、撮影の合間にも常に資料となる本を携えており、そのシーンにもっとも合った演出や画作りなどを検討していたという。
『2001年宇宙の旅』や『バリー・リンドン』など、映画史に残るような鮮烈なビジュアルの映画を手掛けており後の映画監督にも多大な影響を与えている。しかし本人は、自身のビジュアルには無頓着だったらしく、特にファッションセンスは壊滅的だった。映画の撮影風景を映した映像や写真を見るに、初期の頃は常にスーツ、中期の頃はスーツにダボダボのパンツ、晩年はミリタリー・ジャケットを好んで着用していた。おそらく同じ服を何着も所持していたのでは無いかともいわれており、実際に一緒に仕事をしたニコール・キッドマンによると『毎日同じ服だったが特に臭わなかった』とのこと。
『時計じかけのオレンジ』公開当時、興行的には成功したがその内容の過激さから賛否が分かれ、自宅に脅迫状が送りつけられたことがある。そのため、身の危険を感じて本国イギリスでの上映を全面中止にしてしまい、ひどく落ち込んだという。その後、『バリー・リンドン』を製作。評判は上々で汚名は挽回したが興行成績が芳しくなく、再び自信を無くし落ち込んだという。結局そのあとに作った『シャイニング』(原作:スティーブン・キング)で評価も興行成績も挽回できたが、原作を改変しすぎた結果、原作者のキングの怒りを買い、激しく罵倒されることとなった。
ステディカム(手持ち撮影の際にカメラがぶれないようにする機材)が一般的に普及する以前から手持ち撮影を好んで多用しており、移動撮影はキューブリックの映画を代表する演出である。
友人を飛行機事故で亡くしており、そのため航空機恐怖症だった。海外ロケなどは行わず、イギリス国内のスタジオで極力撮影していた。アフリカを舞台にした『2001年宇宙の旅』冒頭シーンでは、現地にスタッフを派遣してその写真を撮影させ、広大なサバンナの写真をフロントプロジェクション(スクリーンに背景を投影する合成方法)でイギリス国内のスタジオで人類の夜明けのシーンを撮影している。
逸話
- 『時計じかけのオレンジ』の撮影の際に主人公アレックス役のマルコム・マクダウェルが装置でまぶたを固定される場面の撮影中に装置の位置がずれて目の中に直接入ってしまうが撮影を強行。これでマクダウェルは失明しかけている。このとき、キューブリックは「もう片方の目は大事に扱うよ」と言い放った。
- 『バリー・リンドン』では室内のシーンで照明を使用せず蝋燭の明かりのみで撮影するため、NASAで開発されたアポロ計画用のプラナー50mmF0.7レンズを入手し、カメラを改造して装着した。
- 『シャイニング』ではなんてことない場面で132テイクも撮影した。しかもそのシーンは公開の際にカットされている。
- 『フルメタル・ジャケット』の日本公開の際に日本語字幕を再英訳させてチェックした。このチェックにてスラングの汚さが表現出来ていないことに憤慨。元の翻訳家(戸田奈津子といわれる)を解雇し、別の人物に新たに日本語字幕を再編集させた。
- 『アイズ・ワイド・シャット』で主演したトム・クルーズ、ニコール・キッドマン夫妻(当時)を撮影に集中させるため、撮影地のイギリスに移住させようとした。それに応えたいトムと、家を空けたくないニコールとの間に軋轢を作ることになり、それが離婚の遠因になったともいわれる。
- また同作品の撮影期間は休暇を含めて46週、およそ400日である。破格の撮影期間であり、「撮影期間最長の映画」としてギネス記録に載っている。
- 『時計じかけのオレンジ』以降の作品はすべてイギリスでセット及びロケーション撮影が行われていた。
- リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』の初期劇場公開版のラストの空撮は『シャイニング』のオープニングの別カットであるが、キューブリック監督から届いた空撮フィルムの長さは目を疑うほど長かったとか。
フルメタル・ジャケットの監督
おそらくニコニコではこの作品が最も有名であると思われる。
詳しくは“フルメタル・ジャケット”ならびに“ハートマン軍曹”の記事を参照のこと。
関連項目
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