野口英世(1876年11月9日 - 1928年5月21日)とは、日本の医師、細菌学者である。
概要
日本においては、何冊も伝記が書かれ、1000円札の肖像画にもなったことから、偉人の代表格とも言えるだろう。
不屈の精神をもって様々な実験を行い、多くの病原体の発見・報告した研究者ではあるが、現在、これらの発見の多くは間違いであったことが認められている。
ただし、現地に高額な医療機材を提供して惜しみなく医療技術を公開するなど、医学のために努力を絶やさなかった姿勢が多くの人の共感を呼び、黄熱病の研究を行ったエクアドルでは生誕100周年にあたる1976年に記念式典が行われ、ガーナには「野口記念医学研究所」も設立されるなど、今現在も時代を超え世界で愛されている。
略歴
1876年11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村字三城潟(現・猪苗代町)に郵便配達人の父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれる。幼名は清作。
1878年、1歳だった野口は囲炉裏に落ちて左手に大きなやけどを負う。このやけどが原因でいじめっ子にいじめられるなど灰色の少年期を過ごす。母親であるシカはこのことを悔やみ、勉強で見返すよう野口にはっぱをかけて育てた。
1892年、16歳のころ、会津若松の会陽医院でアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。手術費用は左手の障害を嘆く清作の作文に心を打たれた教師や同級生が工面した。後遺症は残ったものの左手の指が使えるようになり、これがきっかけで医師になることを決意。会陽医院に住み込みで働きながら勉学に励む。この時から英語やフランス語、ドイツ語を学んだことがのちの海外生活で大いに実を結んだ。
1896年、20歳のころ、渡部の友人で歯科医の血脇守之助と知り合い上京。血脇から金銭面で援助を受け、済生学舎(日本医科大学の前身)で学ぶ。血脇からはこれ以外でも多方面で様々な支援を受けている。
1898年、医者となった野口は伝染病研究所などで職務に励む傍ら海外雄飛を夢見るようになる。同年8月、知人から薦められて読んだ坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」の中に登場する、借金を重ねて自堕落な生活を送る野々口精作という人物が、名前も性分も自分そっくりなことに衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し、郷里の小林に相談して“英世”と改名。この際、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込み、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出し、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段を取っている。
1899年、中国人船員の中からペストに感染した者を発見した経験が買われ、清国で流行していたペストの国際医療調査団の一員に選出され、初の海外出張を経験。
1900年、日本へ帰国し箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約。婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航。北里の紹介状を頼りにサイモン・フレクスナーのもとを訪ねる。まだ準備ができていなかったフレスクナーは急な来訪に内心焦っていたらしいが、彼の取り計らいでペンシルベニア大学医学部での助手の職に就き、蛇毒の研究というテーマを与えられる。
1901年、ロックフェラー医学研究所が設立。ここで野口は、異例の早さで昇格していく。
1905年、渡航費にあてていた婚約持参金300円を血脇が斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。
1911年、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、一躍国際的な知名度を得る。ただし、この発表は今現在認められていない。この年の4月に同い年のアメリカ人女性メリー・ダージスと結婚する。
1914年、東京大学より理学博士の学位を授与される。ロックフェラー医学研究所正員に昇進し、さらにはこの年のノーベル医学賞候補となった。 この年に撮影されたと思われるオートクローム技術を使用した野口の写真が残っているが、これは日本人を写した初のカラー写真だとされる。
1915年、一時帰国し、故郷に錦を飾った。
1918年、アメリカに戻った野口は黄熱病研究のためエクアドルに派遣される。当時、アメリカが国家事業として完成させたパナマ運河の運営には、黄熱病の撲滅が不可欠であったからだ。この年に母をスペイン風邪で亡くしている。これ以降、ラテンアメリカやアフリカ諸国を渡り、現地で研究を続ける。
1926年、同じく黄熱病を研究していたマックス・タイラーらが黄熱ウイルスの単離に成功し、イクテロイデスが病原であるという野口の説の反証に成功。
1928年、英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)にて黄熱病に罹り死去。遺体はアメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。墓には「科学への献身により、人類のために生き、人類のために死んだ」と刻まれている。
野口の説を否定したマックス・タイラーは野口と同じように黄熱病に罹患したが無事生還し免疫も獲得。1937年には黄熱ワクチンの開発に成功し1951年にはノーベル生理学・医学賞を受賞している。後に野口の件で取材を受けたタイラーは「もう安らかに眠らせて上げましょう。あれはまさしく、野口の心の問題です。」と答えたという。
人物
- 何か国語も操る語学の天才だった。
- ナポレオンを真似た不眠主義で知られる。
- 夢中になると自我を抑制できない性質で、ストーカー癖もあったという。
- 遊び好きで浪費癖もあり、たびたび借金をしていた。なお、返したという記録はない。このため詐欺師や借金王というあだ名を持つ。
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関連項目
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