九九式双発軽爆撃機とは、大日本帝國陸軍が運用した双発機である。略称は九九式双爆など。
連合軍側のコードネームはリリー(Lily)。
概要
開発の経緯
帝國陸軍はソビエト連邦を仮想敵としており、実際に戦う事になった時を想定して1937年、川崎重工に九三式双発爆撃機に代わる近代的な新型機キ-48の開発を要求した。要求性能は最高速度480キロ以上、航続力6時間以上、爆弾搭載量600kg以上などがあった。設計のベースになったのは、仮想敵のソ連や中国国民党が運用していたSB軽爆撃機。爆弾搭載量や航続距離よりも、運動性能と軽快さを優先。基地と前線を行き来し、敵飛行場や敵部隊を反復爆撃で撃破する運用思想だった。
川崎は土井武夫技師を据え、設計を開始した。ちょうど同じ双発機である二式複座戦闘機が開発中であり、盛んな情報交換が行われた。当時極めて斬新な空冷式エンジンを使用し、引き込み脚を採用するなど意欲的な設計となった。1939年7月に試作一号機が完成し、翌8月に飛行テストが行われた。水平尾翼のフラッターに課題を残したが、それ以外の性能は良好。試作機9機の増加生産を命じられ、1940年5月に九九式双発軽爆撃機と命名されて制式採用された。川崎では二式複座戦闘機の開発に苦慮していたが、先に成功した九九式双爆を参考にした結果、こちらも制式採用に漕ぎ着けている。さっそく7月から一型が生産され、557機が量産された。すぐに高出力エンジン(ハ-115)を搭載した改良型が設計され、開発の遅延により若干遅れたが1943年2月に制式採用。こちらは二型と呼称、1411機が量産された。急降下爆撃に耐えうる強度を持っており、同年8月から改修が加えられた主力の二型乙が生産を開始した。
実戦
まず支那戦線に投入され、味方の支援のもとで作戦に従事。良好な操縦性と稼働率の高さが評価され、前線の将兵から好まれた。九七式軽爆撃機や九八式軽爆撃機より高評価されていたとも。重爆撃機の運用が不可能な最前線の小規模飛行場で発着できた事も人気の後押しとなった。しかし元から考慮されていなかったとはいえ、爆弾搭載量が単発機と同じくらい少なかったため敵陣上空に侵入しても攻撃力に乏しかった。
大東亜戦争が勃発すると、南方作戦に参加。隼に護衛された九九式双爆がパレンバン飛行場の攻撃に参加している。蘭印作戦にも参加し、九九式襲撃機とともに150輌からなるオランダ軍の装甲車や戦車を攻撃して反攻を阻止した。しかし連合軍戦闘機との交戦で速度・装甲・武装のいずれも劣っている事が露呈してしまう。支那戦線では日本側に制空権があったため問題化しなかったが、味方の支援が受けられない太平洋戦線では苦戦。被害が急増した。爆撃機として運用される事もあったが、爆弾の搭載量が乏しく効果は少なかった。加えて元々は対ソ連向けに設計されているため航続距離が短く、せっかく得た急降下爆撃能力も苦労に見合わない戦果しか出なかった。
それでも生産数の多さから多種多様な航空作戦に従事し、畑違いの任務でも請け負った。ソロモン方面の島々に物資を空中投下する事も行った。偵察や武装を外しての夜間爆撃、果ては輸送任務まで八面六臂の活躍を見せ、稼働率の高さや良好な操縦性によって前線の部隊から信頼を勝ち取った。一部では軽爆最高傑作とまで言われたとか…。しかし戦争中期になると連合軍の快足な新型機が登場し、急速に旧式化。撃墜される事が更に多くなった。九九式双爆の役割は二式複座戦闘機に譲る形となった。
内地にある機体は様々な実験に参加。明石工場では、川崎と陸軍が小型ジェットエンジンの開発に腐心。実験用機体として九九式双爆が使用された。実のところ三式戦を第一、二式複戦を第二希望に指定していたが、最前線から引き抜く事が出来ず、やむなく鈍足の九九式双爆二型で妥協した。1943年12月23日より実験が開始され、1944年1月上旬には各務原飛行場でラムジェット「ネ0」を搭載した九九式双爆が飛行した。飛行自体は何事も無く終わったが、主燃料タンクが引火爆発寸前だった事が判明。続いてネ1、ネ2、ネ3、ネ4を爆弾倉に懸架して飛行実験を行ったが、途中で打ち切られている。努力は結実しなかったが、ここで得られたノウハウが後の橘花開発に活かされている。余談だが、見慣れないタンクを付けて飛んでいる九九式双爆を見て、周辺住民は「凄い新兵器らしいぞ」と噂したとか。他にもイ号一型乙無線誘導弾のテストに参加し、計画が頓挫しなければ搭載される予定だった。
戦争末期の1944年10月21日、陸軍初の特攻隊である耳朶(ばんだ)隊が結成。支給された機体は九九式双爆であった。フィリピンを拠点としていた耳朶隊は、レイテ湾に上陸したアメリカ軍に向けて特攻を仕掛けるのである。11月12日、最初の特攻命令が下った。しかし岩本益臣隊長は敵艦への体当たり攻撃に反対しており、機体に付けられた800kg爆弾を独断で投下できるように改造。「出撃しても爆弾を命中させて帰って来い」と命令した。命令どおり部下は爆弾を投下して離脱、緊急避難先に指定されていたミンダナオ島に着陸した。大本営は戦艦を撃沈したと囃し立てたが、第四飛行師団の参謀長猿渡篤孝大佐は生還した操縦士を叱責した。特攻は12月18日を最後に中止となり、日本軍はレイテの戦いに敗れた。1945年には沖縄のアメリカ軍飛行場を標的とした特攻が行われている。
一方、戦力不足のビルマ、マレー、フィリピン、支那戦線では最後まで運用され続けた。重爆が足りないので九九式双爆を改造し、防御武装を廃して航続距離を増大させた夜間爆撃タイプが誕生した。
最終的な生産数は1965機。
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関連項目
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