小宮山悟とは、千葉ロッテマリーンズ、横浜ベイスターズ、ニューヨークメッツに所属した元プロ野球選手(投手)である。
通称は「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」など。現野球解説者。
略歴
OB | |
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小宮山悟 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県柏市 |
生年月日 | 1965年9月15日 |
身長 体重 |
183cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1989年ドラフト1位 |
引退 | 2009年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
1965年9月15日生まれ、千葉県柏市出身の右投げ右打ちの投手。
小学生の頃から野球を始め、偶然テレビで見た東京六大学野球の早慶戦をきっかけに「早稲田のマウンドで投げたい」という夢を抱くようになる。ろくに勉強もせずに喫茶店で新聞を読んだり公園を散歩したりしながら、二浪の末に憧れの早稲田へ合格。4年次には主将を務め、日米大学野球のメンバーにも選ばれた。
89年、ドラフト1位で当時暗黒真っ盛りのロッテオリオンズへ入団。ルーキーイヤーからローテを担い、ムエンゴ病に悩まされながらロッテのエースへと成長。インテリヤクザ牛島和彦に師事してその野球観を吸収・発展させ、球界を代表する頭脳派ピッチャーとして知られるようになった。
95年には恩師ボビー・バレンタイン監督の下で伊良部秀輝、エリック・ヒルマンとともにチームの2位躍進の原動力となり、97年には最優秀防御率のタイトルを獲得した。
しかし99年のオフ、球団の体質改善を求めて度重なる提言をしていたことがフロントに疎まれ、チームの若返りを名目に戦力外通告を受けてしまい、喧嘩別れという形で横浜ベイスターズへ移籍。移籍先では01年にチーム最多の12勝を挙げ、横浜のAクラス入りに大いに貢献した。
02年には長年の夢であったメジャーリーグへの移籍を決断しニューヨーク・メッツへ移籍するも、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、日本国内でも横浜以外はFA保証が必要だったせいか獲得する球団は現れず浪人状態に。03年は「現役投手」との肩書きで野球解説者を務める傍ら、復帰を目指してトレーニングを続けていた。
そして04年、ボビー・バレンタインが再びロッテの監督に就任したことにより、小宮山も再びロッテへ復帰。主に敗戦処理や緊迫した場面でのリリーフを務め上げ、05年、一度は決別した球団で、ともに暗黒時代を支えた初芝清や堀幸一らとともに優勝の喜びを味わうこととなった。
その後もチームを支え、09年に体力の衰えを理由に現役引退を表明。
10月6日、千葉マリンスタジアムの本拠地最終戦で引退試合が行われ、9回表2死から登板。楽天のフェルナンド・セギノールを1球でライトフライに打ち取り、以前から(冗談半分で)目標としていた史上最年長セーブ記録(44歳21日)を手土産に、19年に及ぶ現役生活に終止符を打った。通算117勝141敗、防御率3.71。7度の開幕投手を経験した。
引退後は解説者として活動中。また、2014年から2018年2月まではJリーグの非常勤理事をつとめていた。
2019年1月1日より母校早稲田大学野球部の監督に就任。さらに「軟式野球」という授業の講師を担当しているとのこと。
プレースタイル
前述の「投げる精密機械」「ミスターコントロール」の通称が示す通り、高い制球力を持ち味とするとともにほぼ全ての球種を使いこなし、両者が噛み合う時には緩急自在のピッチングで相手打者を打ち取った。一方球速の遅いピッチャーの印象が強いが、ストレートの球速が147㎞を記録したこともあり、プロ入り当初は荒れ球を武器とするタイプだった。
05年には唯一習得できなかったナックルボールの代用として新魔球「シェイク」を発明。通常とは明らかに違うフォームで投げる80㎞ほどの球であり、独特の変化をする(変化をするには多少の風が必要らしく、強い風が吹き荒れる千葉マリンスタジアムで本領を発揮する)。また05年4月5日の西武戦では、シェイクを投げるフォームで110㎞のスライダー(通称「フェイク」)を投げ、和田一浩を見逃し三振に斬って取るという芸当を見せたこともある。
もう一つ特筆すべきはその故障の少なさである。90年代の10年間で最も多くのイニングを投げたピッチャーであり、年間投球回数が200を超えたシーズンも3度ある。また先発投手として活躍した1990~2001年の間では、94年以外は全て規定投球回に達するというフル回転ぶりを見せながら、19年に及ぶ現役生活の中で一度も身体にメスを入れることは無かった。本人曰く、「自分は野球の才能は無かったが、故障を察知して回避することを才能と呼ぶならば、その才能には相当長けていたと思う」とのこと。まことに頑丈な精密機械でした。
エピソード
- 熱狂的な柏レイソルサポーターとして知られる。自主トレではレイソルのトレーニングウェアを着用し、ベイスターズ在籍時に横浜F・マリノスから応援メッセージを求められれば断り、05年にレイソルがJ2降格の危機にあればロッテ優勝のビールかけに「がんばれレイソル」と書かれた水泳帽を被って参加し、ジェフユナイテッド千葉にゲストとして招かれれば対戦相手のレイソルのアウェイユニフォームを着て登場し、ジェフサポーターのブーイングを浴びてご満悦。「野球選手としての立場が無ければブリーフ一丁になって応援する」とは本人の弁。
- ちなみに上述のビールかけの際に被っていた水泳帽には「横浜Aクラスおめでとう」と古巣・ベイスターズへのメッセージも書かれていた。
- 2011年、柏レイソルのJ1初優勝の報告会に登場し、「自分が優勝した時よりも嬉しい」と発言。同席していた柏市長を差し置いて記事のタイトルになった。
- 98年のロッテ18連敗の最初の負け投手であり、連敗を18で止めた際の勝ち投手でもある。また翌99年の七夕には、小宮山の勝利によってロッテが首位に立っている。
- ロッテの「魂のエース」こと黒木知宏が「エースの手本」として尊敬していた人物。98年の七夕の悲劇において、黒木がプリアムに同点ホームランを打たれマウンドにうずくまったシーンは有名だが、小宮山は黒木に「ふざけるな、なぜあの時マウンドにうずくまった?まだ同点だっただろうが」と厳しい言葉をかけた。黒木は自伝で、「あの日を境に、周囲は僕を『悲劇のエース』として美化するようになった。だけど日本中でおそらくただ一人、小宮山さんだけが僕の甘さを喝破してくれた」と述懐している。
- 92年にチームの本拠地が千葉マリンスタジアムに移転した当初、視力が悪くコンタクトレンズを入れていた小宮山は強風に苦しんだ。そこでチームメイトのマイク・ディアズにサングラスを借りて登板したところ完封勝利。以降風除けのサングラス(とヒゲ)が彼のトレードマークとして定着した。球場によって何種類も使い分けているとか。
関連動画
関連項目
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