後円融天皇(1358~1393)は、北朝第5代の天皇(在位1371~1382)である。
DVダメ、絶対。
「治天の君」の権威を失墜させ、院政を形骸化させたと評されている。
出生
延文3年(1358年)、出生。諱は緒仁(おひと)。室町幕府3代将軍・足利義満とは母親が姉妹同士の従兄弟で、おまけに同じ年の生まれ。(現代の暦では1歳差。天皇が早生まれで義満と同学年)。生まれた時からいじめられる運命が決まっていたとしか思えない(´・ω・`)
即位
応安4年(1371年)、即位。それぞれの皇子を即位させたい伯父の崇光上皇と父の後光厳天皇が対立していたが、幕府管領・細川頼之の裁量で緒仁の即位が決まった。
その細川頼之は数年後、クーデターで失脚。幕府は足利義満が親政を始める。
この傑物将軍は幕府の権力をどんどん増大させ、裁判権、警察権、課税権、さらには京都の支配権…と、朝廷の権限をも次々に奪っていった。
譲位
永徳2年(1382年)、息子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位し、上皇となる。
義満が太上大臣の二条良基と相談して、天皇になんの報告もなく勝手に決めた譲位の話だった。
ある日突然、義満に「譲位してちょ(*^ー゚)」と言われた天皇…。
新帝の即位を巡り義満と対立した結果、上皇は、後小松天皇の即位の儀式に不参加。
傀儡
「治天の君」となり、仙洞御所(※以後、天皇の住まう御所と区別するため「仙洞」と呼ぶ)で院政を行うはず…だった後円融だが
「院別当」(院の司の最高長官)の義満が、仙洞の事務にも介入。上皇が完全に置き物に(´・ω・`)
一方、新帝がおわす御所で、朝廷の政務は「事実上の治天の君」義満の指導の下、滞りなく行われた。
日和る公卿とキレる上皇
義満と対立した上皇、ついに義満との面会を拒絶─要するに義満を仙洞の「出禁」にした。
結果─ 義満に遠慮した公卿たちが、仙洞に来なくなった。
永徳3年(1383年)1月29日─ この日は上皇の父・後光厳天皇の命日だった。仙洞で仏事が行われた、のだが…。
なんと!
上皇と数名の近臣しかいない法事。広々とした部屋に空しく響く僧侶の読経…(地獄絵図)。
上皇のストレスゲージ◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼………(カンスト)
DV
上皇が出産を終えて間もない妃の三条厳子(たかこ/いずこ)を、実家から仙洞に呼び戻した。
当時の感覚でも非常識な命令だったらしい。厳子の父、三条公忠が「苛烈すぎる!」と憤ったほどだ。
ある時、上皇が厳子に、御湯殿(浴室)に参上するよう命じたが、厳子は「用意ができないので」と断った(貴人の入浴なので、準備や人手等、色々と手間がかかるのである)。すると、なんと上皇が刀を持って厳子の部屋に乗り込んできた。
かねてより義満と厳子の密通を疑っていた上皇は、刀の峰で厳子を殴打した。─情状酌量の余地もないDV(Domestic Violence)…。
上皇の実母・広橋仲子の機転で厳子は実家に担ぎ込まれ、医師の手当てを受けた。翌日まで出血が止まらず何度も気を失ったという(一体どれだけ殴られ続けたんだ…)。幸い、厳子は一命を取り留めたのだが、事件以降、彼女が仙洞に戻ることは二度となかった。
この人、殴る相手を間違えてるだろうと、筆者は思う。
※ちなみに事件後、三条邸に医師を派遣したのは義満である。上皇、完全に悪役…。
殴打事件からわずか10日後、まるで反省していない上皇が、今度は愛妾の按察局に義満との密通の疑いをかけ、出家させた上、仙洞から追放してしまう。上皇の立て続けの乱行に、当時の人たちも完全にドン引き。
自殺未遂騒動
困惑した義満が、上皇の相談に当たらせようと仙洞に使者を派遣したが…。
その話を聞いた上皇は、なんと自分が流罪にされると思い込み、持仏堂に立て籠り「腹を切って死ぬ」と喚き出した(上皇の自殺未遂騒動)。上皇の立て籠りは、なんと3日も続いたのだった。実母の説得や義満本人が起請文を書き謝罪までしたことで、上皇の自殺はどうにか回避。騒ぎの後で、上皇と義満が牛車に同乗して仙洞に帰った(仲直りアピール)。牛車の中で二人がどんな会話を交わしたのかは定かでない。この一連の騒ぎを、公卿の一条経嗣は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書いている。
※3日も立て籠って死ぬ死ぬと騒いでたのに結局死ななかったのって、要するに腹を切る度胸がなかったんだろ、などと言ってはいけない。
その後の上皇
騒動の後、燃え尽きたように大人しくなった上皇は、南北朝の合一が成った翌年の1393年(明徳4年)にひっそりと崩御された。宝算36(満34歳)─。崩御の直前に落飾。法号の「浄光」が、なんとも皮肉である。
関連項目
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