横浜フリューゲルスとは、神奈川県横浜市をホームタウンとしていたかつて存在したサッカークラブ、及びプロサッカーチームである。
1998年シーズンまで活動し、1999年2月に横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)に吸収合併されて消滅した。
概要
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Jリーグ開幕時の加盟チーム(オリジナル10)の一つである。母体は全日空横浜サッカークラブ。チーム名の「フリューゲルス」は、「翼」を意味するドイツ語のFlügel (フリューゲル)から来ている。メディア媒体では「横浜F」と表記されていた。チームの愛称は「フリエ」。
同じくホームタウンを横浜市とする横浜マリノスは「横浜ダービー」として激しく争うライバルであった。また、Jリーグ開幕の1993年からアビスパ福岡がJリーグ昇格を果たす1995年までの間は長崎県・熊本県・鹿児島県を特別活動地域(≒準ホームタウン)としており、この三県での人気は撤退後でもアビスパを遥かに凌いでいた。
Jリーグに加盟した1991年から解散した1998年までの間に天皇杯を2度優勝。1995年にはアジアカップウィナーズカップとアジアスーパーカップを制し、リーグにおいても1996年に3位、1997年の1stステージで2位と優勝争いに加わる強豪チームであった。
フリューゲルスに所属したことのある選手として、前園真聖、山口素弘、楢崎正剛、三浦淳宏、遠藤保仁、ジーニョ、セザール・サンパイオ、エドゥー、モネールなどが挙げられる。クラブが活動した最後の年に開催された1998 FIFAワールドカップには山口素弘と楢崎正剛が日本代表として、セザール・サンパイオがブラジル代表として出場している。
2024年1月9日に遠藤保仁が現役を引退したことで、フリューゲルスに所属した選手は全員現役を引退したことになった。
歴史
1991年、全日空横浜サッカークラブを母体にJリーグに加盟。監督には日産自動車の黄金期を築いた国内屈指の名将・加茂周を招聘。その後、全日空と佐藤工業が共同出資して運営する形となり、横浜フリューゲルス(日本サッカー協会への登録名は「全日空佐藤工業サッカークラブ」)へ移行した。
Jリーグ発足の1993年、加茂監督は当時一世を風靡していたACミランのプレッシングサッカーをインスパイアした「ゾーンプレス」戦術を導入。森敦彦、エドゥー、モネールといった個性的な選手の活躍もあったが、当時の日本ではプレッシングスタイルは珍しいものであり、それ故にチームへの浸透に苦労し、1stステージ、2ndステージ共に7位に終わる。
しかし、年末の天皇杯では準々決勝でJリーグ王者のヴェルディ川崎を破ると、決勝では鹿島アントラーズとの激闘を延長戦の末に6-2で制し、Jリーグ開幕後初の天皇杯王者となる。
1994年の1stステージは8連勝を飾るなど一時は優勝争いを演じ、最終的には5位となる。しかし、2ndステージでは得点源のアマリージャの退団が響き、8位と低迷。フロントは所属していた外国人選手を全て退団させる荒療治に出る。また、加茂監督が日本代表監督就任のためこの年を最後に退任する。
一方、天皇杯王者として出場したアジアカップウィナーズカップでは決勝まで進出。翌年1月開催の決勝ではアル・シャアブ相手に勝利し、初の国際タイトルを獲得。
1995年、ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールの現役ブラジル代表トリオが加入。おおいに話題を呼ぶが、期待のブラジル代表トリオはチームへの適応に苦しみ力を発揮できず、1stステージは12位に低迷。監督交代があった2ndステージも守備の不安定さが目立ち低迷。年間では14チーム中13位となり、失点数はリーグワーストを記録した。
この年の8月に開催されたアジアスーパーカップでは、タイ・ファーマーズ・バンクを下し優勝。
1996年にブラジルの名門クラブで監督を務めた経歴のあるオタシリオが監督に就任。前年加わったブラジルトリオがチームにフィットし本来の力を発揮すると、前園真聖や山口素弘らチームの中心選手も本領を発揮。さらに楢崎正剛、三浦淳宏といった若手も台頭するようになり、開幕8連勝を記録するなど前半戦を首位で折り返す。後半戦はやや失速したことで最終的に鹿島アントラーズと名古屋グランパスに勝ち点で及ばなかったが、それでも過去最高成績となる3位でシーズンを終える。
1997年は前園、エバイールが退団したことで開幕前は苦戦が予想されたが、1stステージでは前年に続いて勝ち点を重ね、鹿島との優勝争いを繰り広げる。結局最終節まで優勝の可能性を残したが、勝ち点2の差で惜しくも優勝を逃し、2位に終わる。2ndステージは攻撃の中心としてチームの躍進を支えたジーニョが退団したことで攻撃力が大幅に低下、11位に終わる。
1998年、FCバルセロナでヨハン・クライフの参謀を務め、後にリオネル・メッシを発見した人物として知られるカルロス・レシャックが監督に就任。レシャックはクライフ・バルサ式の3-4-3の超攻撃的スタイルを導入。高卒ルーキーの遠藤保仁が抜擢されるなど収穫もあったが、守備の問題を解決できずに好不調の波が非常に大きくなる。結局、レシャックは2ndステージ第6節を最後に辞任。コーチのゲルト・エンゲルスが後任となる。そしてチームは運命の発表の日を迎えるのだった・・・・。
合併・消滅と涙の天皇杯
強豪チームとして名を馳せていたフリューゲルスであったが、1998年10月29日、運命の日がやってくる。
出資会社の一つであった佐藤工業の業績不振による経営からの撤退、当時赤字だったもう一方の出資会社全日空にチームを支える余力はなく、チームは横浜マリノスに吸収合併されることが発覚したのだった。
「事前発表が一切なかったこと」「よりにもよって吸収合併される相手が同じホームタウンを持つ最大のライバルチームであること」などから、サポーターは猛反発した。日本中から合併反対を願う署名が集まり、最終的には50万名を超えている。
そんな中、選手は戦うしかなかった。Jリーグは後期の佳境を迎えており、すでに優勝は不可能だったが、合併発表後は一度も負けなかった。また、並行して行われていた天皇杯でも、『負けたらその時点でチーム消滅』という中で強豪チームを次々と破り、ついに決勝へと到達した。
1999年1月1日、決勝。対清水エスパルス。横浜フリューゲルスはエンゲルス政権下で台頭するようになった久保山由清と吉田孝行の2トップによるゴールで2‐1と勝利し、最後のタイトルを手にするとともに、チームの歴史に幕を閉じた。
1999年2月1日、横浜マリノスとの正式合併により、「横浜フリューゲルス」は消滅した。その後横浜マリノスはチーム名称を横浜F・マリノスと変えている(Fはフリューゲルスの『F』である)。また、同年フリューゲルスサポーターの熱意により、横浜FCが設立されている。
クラブ消滅前に正GKであった楢崎正剛はフリューゲルスに愛着を持っていたようで、「「前所属:横浜フリューゲルス」という表記を消したくない」と語っており、実際に1999年に名古屋グランパスエイトに移籍してから2018年に引退するまで移籍することはなかった(移籍オファー自体はあった模様)。
私たちは忘れないでしょう、横浜フリューゲルスという非常に強いチームがあった事を。
東京国立競技場、空は今でもまだ、横浜フリューゲルスのブルーに染まっています。
その後
フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」を運営会社として横浜FCが設立され、日本フットボールリーグ(JFL)への参加が特例として認められた。2001年にJリーグへ加盟。
ただし、横浜FCはフリューゲルスとは別の存在であるという立場を明確にしており、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されていない。
「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も横浜マリノス株式会社が保有している。
主なタイトル
国内タイトル
国際タイトル
個人タイトル
かつて所属していた選手
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歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
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加茂周 | 1992年~1994年 | 天皇杯優勝(1993年) | |
木村文治 | 1995年~1995年5月 | アジアカップウィナーズカップ優勝(1995年) | |
アントニオ・シルバ | 1995年5月~12月 | アジアスーパーカップ優勝(1995年) | |
オタシリオ | 1996年~1997年 | ||
カルロス・レシャック | 1998年~1998年9月 | ||
ゲルト・エンゲルス | 1998年10月~12月 | 天皇杯優勝(1998年) |
関連動画
関連項目
- Jリーグ - Jリーグチーム一覧
- オリジナル10
- 横浜市
- 神奈川県
- 全日本空輸(全日空)
- 川平慈英 - フリエサポーター。1998年の存続運動にも参加。
- 以下はいずれも、歴史的経緯により横浜フリューゲルスが源流であるクラブ。
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