名古屋グランパスとは、愛知県名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとするJリーグのプロサッカークラブである。
2008年より呼称を、名古屋グランパスエイトから名古屋グランパスに変更した。[1]
概要
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Jリーグ発足時より参加しているオリジナル10の一つ。前身はトヨタ自動車サッカー部。 ホームタウンは愛知県名古屋市。ホームスタジアムは名古屋市瑞穂陸上競技場(パロマ瑞穂スタジアム)および豊田スタジアムである。
チーム名の「グランパス(Grampus)」は英語で鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は名古屋市の市章からきており、末広がりを表している。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は当時のトヨタ自動車の社長であった豊田章一郎氏が「トヨタ」のカタカナの総画数が「8」であることから命名したと中日新聞は報じている。
マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス (Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。
Jリーグ発足時は弱小チームだったが、1994年にドラガン・ストイコビッチ、翌1995年には監督としてアーセン・ベンゲルがチームに加わるとチームは一変。リーグ戦で健闘し、天皇杯ではタイトルを手にする。1996年途中にベンゲルが去って以降はリーグ戦で中位をうろつく状態(それでも99年に天皇杯を獲っていた)が続いていたが、2008年のストイコビッチ監督就任を機に躍進。3年目となった2010年に悲願であったJ1リーグ初優勝を成し遂げている。
世界的な自動車メーカーであるトヨタ自動車がメインスポンサーのクラブだけあって補強費を存分に投入することが多く、大型補強を度々断行している。ただ、チームがまとまらず、選手が反旗を翻すお家騒動が勃発することが珍しくない。フロントの不可解な監督人事によって迷走することもあり、2016年には監督経験のない小倉隆史に全権を与えたことがJ2降格という最悪の事態を招いてしまった。
クラブの歴史
チーム発足時
当初、トヨタ自動車はサッカー部がJSL1部に昇格したばかりだということもあり、初年度からのJリーグ参入を見送る方針だったが、Jリーグ側や当時の日本サッカー協会の副会長・長沼健の説得もあって方針を転換し、Jリーグ加盟に至った。1991年にチーム名を「名古屋グランパスエイト」としたプロクラブが発足。1992年には補強の目玉として元イングランド代表のスター選手であるゲーリー・リネカーを獲得する。
Jリーグ初年度となった1993年だったが、開幕戦の鹿島アントラーズ戦でジーコにハットトリックを決められ0-5で完敗。以降もチームの成績は振るわず、1994年も同じく低迷することとなった。頼みのリネカーは怪我で2年間ほとんど稼働することができず、当時のリーグ最高年俸3億円のスターは18試合4得点という成績で現役を引退する。チームは浦和レッズと共に「Jリーグのお荷物」と揶揄され、弱小チームのレッテルを貼られてしまう。
アーセン・ベンゲル就任
1995年、欧州で新進気鋭の監督として注目されていたアーセン・ベンゲルが監督に就任。チームの全権を任されたベンゲルは、自らのコネクションで外国人選手を呼びよせ、欧州式のモダンで組織的な戦術を導入。すると、これまで弱小チームと揶揄されたチームは見違えるような魅力的なサッカーを披露し、シーズンを追うごとに調子を上げていく。特に攻撃の全権を託されたドラガン・ストイコビッチは、ワールドクラスの実力を存分に発揮し、躍動。最終的に2ndステージで2位、年間順位3位と上位進出を果たし、ストイコビッチが年間最優秀選手、ベンゲルが年間最優秀監督に選出される。
また、この年の第75回天皇杯では決勝でサンフレッチェ広島を破り、クラブ初タイトルを獲得する。
1996年は開幕前にゼロックス・スーパーカップを制覇。優勝争いを演じる中で9月にベンゲルがイングランド・プレミアリーグのアーセナルFCの監督に就任するためチームを退団してしまう。チームに激震が走るが、後任となったカルロス・ケイロスのもとリーグ優勝こそ逃したものの年間2位という成績を残す。さらにサントリーカップ・チャンピオン・ファイナルでは決勝でリーグ王者の鹿島アントラーズを相手に勝利し、優勝している。
迷走する優勝候補
ベンゲルを去った後も充実した戦力を有していたことで優勝候補として期待されるが、当時のフロントには明確なビジョンが無く、ベンゲル時代の栄光を求めて結果を追い求めるあまりに場当たり的な経営や人事を繰り返してしまい、チームは迷走し続けていた。
1999年には楢崎正剛、山口素弘、呂比須ワグナーという日本代表の選手を3人も獲得する大型補強を断行。悲願のリーグ優勝へ本気を見せたことで優勝候補の大本命と見られていたが、一部の選手と監督の間で亀裂が走ったこともあり開幕から低迷。この年、3度の監督交代がおこなわれるほどチームは混乱していたが、10月にジョアン・カルロスが就任してからは10連勝するなど持ち直す。
さらに、この年の第79回天皇杯では、ストイコビッチの魔法のようなゴールもあって1995年度以来2度目の優勝を果たす。
2000年にはまたしても内紛が勃発。1stステージを不本意な成績で終えると、平野孝、大岩剛、望月重良のベンゲル時代を知る主力3人が「秩序や規律を乱す存在だった」として7月に解雇が発表される。背景にはジョアン・カルロス監督との確執があったとされているが、主力を失ったチームは歯車が最後まで噛み合わず、年間9位でシーズンを終える。シーズン後には2年連続チーム得点王だった呂比須がフロントから引退を打診され、サッカーを知らない人がフロントにいる」と怒りを露にする騒動も起きるなど最後まで後味の悪いシーズンとなった。
2001年の1stステージでは優勝争いに加わるが、結局3位に終わる。7月21日を最後にクラブの象徴として牽引し続けてきたストイコビッチが現役を引退。一つの時代が終わりを告げる。また、またしても選手との確執が表面化したジョアン・カルロスが解任となる。ウェズレイが孤軍奮闘するも、2ndステージは12位と低迷。
万年中位の2000年代
2002年には監督としてジェフ市原からズデンコ・ベルデニックを引き抜き、ベンゲル以降続いていたフラットな4-4-2から3バックを導入するが、高い守備力を誇りながらここぞというときの攻撃力に乏しいチームとなっていた。結局、ベルデニックも強化方針の違いからフロントと対立するようになり、2003年の途中で退任。なお、この年ウェズレイがクラブ初の得点王を獲得している。
その後もネルシーニョ、セフ・フェルフォーセンが監督を務めるが、一貫性のない強化方針もあって選手は監督が変わるたびに適応に苦しみ、気が付けばタイトル争いから遠のくシーズンが続くようになる。藤田俊哉や玉田圭司、ヨンセンら即戦力の選手を毎年のように補強していたが、場当たり的であったことは否めず、「万年中位」と揶揄されるようになっていた。なお、本田圭佑、吉田麻也といった後に欧州で活躍する選手が在籍していたのもこの時期である。
ストイコビッチ監督の時代
2008年よりチームの呼称を「名古屋グランパス」に変更。理由について中日新聞は、「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている。
この年より、GMが新設され、久光一正が就任。新監督にはクラブのレジェンドであるドラガン・ストイコビッチが就任。これまでのクラブの悪しき体質を払拭し、悲願のリーグ優勝へようやく本腰を入れた改革を打ち出す。
ストイコビッチ監督の戦術はサイドアタックとゾーンディフェンスの2つの柱を基本とした組織的なパスサッカーで、恩師であるベンゲルがアーセナルで採用しているものを参考としたものだった。ピクシー効果によって燻っていたチームは息を吹き返し、就任1年目の2008年は優勝争いに加わり3位という結果を残す。
2009年はヨンセンの退団によって核となるポストプレイヤーが不在となり、攻撃が機能せずに苦戦。7月にジョシュア・ケネディが加入することで問題は解決し、8月には三都主アレサンドロも加入。しかし守備面では、バヤリッツァの長期離脱によってCB不足に苦しめられ、結局9位に終わる。
ストイコビッチ体制3年目2010年は田中マルクス闘莉王を始め金崎夢生や千代反田充を獲得し、ダニルソンが期限付き移籍で加入。システムは4-3-3を採用し、3トップの中央のケネディを基準点として両翼の玉田と金崎が流動的に動いてチャンスメイクする戦術となっていた。
開幕戦は勝利したもののチームが馴染むのに時間がかかった。しかし、第18節に首位に躍り出てからは徐々に勝ち星を積み重ねていった。そしてついに最終節を残し第31節の湘南戦で初のJリーグ年間優勝のタイトルを手にした。ストイコビッチにとっては現役時代に成し遂げられなかった悲願の達成であった。最終的には一度も首位を明け渡すことなく、最終的には「シーズン23勝」(3分8敗)、「勝ち点72」(タイ記録)、2位G大阪との「勝ち点差10」など1シーズン制移行後最高の記録を残し、圧勝でリーグ戦を終えた。また、最後の砦としてビッグセーブを連発した楢崎がGKとしては史上初となるシーズン最優秀選手賞を受賞している。
2011年は、不調が続いていた小川佳純が復調したこともあって連続性のあるプレーが見られるようになる。終盤まで優勝争いを演じるが、最終的に首位の柏レイソルに勝ち点わずか1届かず、惜しくも2位でシーズンを終える。2012年はケネディ、玉田、中村直志といった中心選手が離脱してしまい、ストイコビッチの目指すサッカーが実現できなくなっていた。後半戦は闘莉王をFWとして起用する苦肉の策で乗り切るが、結果として前年までの良さを潰してしまい7位に終わる。
2012年シーズンより、ホームタウンを名古屋市のみから名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県に拡大した。
2013年シーズンをもって、丸6年チームを率いたストイコビッチ監督が退任。さらにチームは蓄積された累積赤字の補てんのために主力の放出を余儀なくされてしまう。
低迷期
ストイコビッチの後任には西野朗の就任が発表された。しかし、優勝を経験した主力は軒並みピークを過ぎており、さらには若手の育成を先送りにしてきたツケを払わされることになり、順位は振るわず就任二年目終了後に西野は退任となる。
2016年、小倉隆史が監督に就任し、GMを兼任する改革を打ち出すが、小倉は危惧された通り監督経験の無さを露呈。成績が振るわず大きく低迷する中、小倉の休養を発表の後コーチに復帰していたボスコ・ジュロヴスキーが監督に就任した。一時は残留圏まで順位を上げるも最終的に16位で初のJ2降格が決定。シーズン終了後にジュロヴスキーが監督を退任した。
クラブ初のJ2降格により多くの選手の流出するも広島から移籍した佐藤寿人を始め渋谷飛翔や押谷祐樹等が加入。また、期限移籍の櫛引一紀や宮原和也とC大阪から復帰の玉田圭司そして、移籍の噂があった田口泰士がクラブへの残留。新監督は前川崎の風間八宏が就任。
そんな中ではじまった2017年は開幕戦こそ勝利を収めるも第3節の敗北で13位まで下降するもその後4連勝を挙げ一時は首位に立つもその後6位に転落。最終的には自動昇格2位の長崎を抜くことが出ず3位でプレーオフに回った。
プレーオフ準決勝はシーズン2敗の千葉を相手に逆転勝利し、決勝では福岡にスコアレスドローであったもののプレーオフ規定によりシーズン上位であった名古屋が昇格となった。
これにより1年でJ1復帰を果たすもクラブシーズン得点数得点数1位の圧倒的な得点力を見せた反面、無失点試合は42試合中わずか7試合で、総失点数はリーグワースト6位(65失点)、かつJ2から翌年J1に昇格したクラブとしては史上最多の失点数を記録となった。
J1復帰後
J1に復帰した2018年はブラジル代表のジョー、オーストラリア代表のミッチェル・ランゲラクを獲得し、久しぶりの大盤振る舞いを見せる。しかし、前半戦に8連敗を喫するなどチームは低迷。再びJ2へ戻ることが危惧される中、夏場におこなった補強が功を奏し後半戦に7連勝を記録するなど盛り返す。最終節でJ1残留を確定させ、最低限の結果は残した。また、ジョーが24得点を記録し得点王を獲得。
なお、この年の天皇杯2回戦奈良クラブ戦でPK戦の末に敗退するが、「担当審判員による明らかな競技規則の適用ミス」があったとして、PK戦のみを後日やり直すという異例の事態の末に勝利している。
このシーズンを最後に長年守護神を務めた楢崎正剛が現役を引退。
2019年は開幕3連勝と好調なスタートを切るが、夏場に入ると勝ち切れない試合が続き10試合未勝利となる。事態を重く見たフロントは9月に風間監督の解任を決断。後任はイタリア人のマッシモ・フィッカデンティが就任する。だが、攻撃偏重の風間スタイルから堅守速攻のフィッカデンティと正反対のスタイルとなったことで選手が対応できず、何とかJ1残留を決めるシーズンとなった。
2020年はジョーが新型コロナウィルスによってリーグが中断している間に無断で帰国したうえに一方的にコリンチャンスへの移籍を発表してしまう。主張が対立したことからFIFAの紛争解決室に判断を委ねる事態となるが、結果的に勝訴となる。リーグでは、フィッカデンティの守備戦術が浸透したことによりリーグ最少失点の3位という結果を出す。これにより9年ぶりにACLへ出場することになる。
2021年からGMに山口素弘が就任。チームは開幕6連勝、さらには11試合連続無失点というリーグ記録を更新する。しかし、絶対王者となりつつあった川崎フロンターレ相手には4失点を喫して完敗し、後半戦になると守備の要である丸山祐市が負傷で長期離脱したことに加え、ACL絡みの過密日程で選手の動きが重くなり失速する。リーグのシーズン最多無失点試合数21試合を樹立するが、得点力の乏しさも露呈してしまい5位でシーズンを終える。
一方、ルヴァンカップでは決勝でセレッソ大阪を破り、初優勝を果たす。チームにとっては11年ぶりのタイトルであり、これで国内三大タイトル全てを制覇したことになる。しかし、タイトルをもたらしたはずのフィッカデンティとの契約を更新しないことが発表され、サポーターから数多くの批判が寄せられる。
クラブ創設30周年となった2022年、新監督に長谷川健太を招聘。しかし、新型コロナウィルスの影響で外国人勢の合流が遅れ、主力に怪我人が続出したこともあって苦戦。前任者と違ったアグレッシブなスタイルの浸透が遅れたことで8位でシーズンを終える。
2023年は浦和からキャスパー・ユンカーが加入。懸案事項だったストライカー不在問題が解決し、前年までの堅守とスピードのある速攻からユンカーが決めるという攻撃パターンが確立される。これによってチームは大きく躍進し、前半戦は神戸、横浜FMと共に優勝争いの一角に加わる。ところが、長谷川監督が「大黒柱」と評したマテウス・カストロがサウジアラビアへ移籍。これによって攻撃の再構築を余儀なくされてしまい、夏に補強した森島司や前田直輝もフィットせず、前半戦機能した攻撃のパターンが失われたチームは後半戦に大きく失速。優勝争いからも脱落し、最終的に6位でシーズンを終える。
長谷川体制3年目の2024年はCBの主力3人が移籍したうえに負傷者が続出し、成績が低迷。天皇杯では初戦で専門学校のJAPANサッカーカレッジに敗れる大失態を犯してしまう。ベテラン勢の奮闘や怪我人の復帰で巻き返したが、勢いが長続きせず、長谷川監督が就任してから最低順位の12位で終了。
一方、ルヴァンカップでは、プライムラウンドで広島、横浜Mを破って決勝に進出。新潟との対戦となった決勝では、62,517人の大観衆が集まった中、前半に2点をリードするが、後半に同点に追いつかれ、さらに延長戦でも前半にリードを奪いながら後半に追いつかれる苦しい試合となる。それでもPK戦では二人目のキッカーを務めたランゲラックも含めて全員が成功し、3年ぶり2度目の優勝を飾る。
主なタイトル
国内タイトル
- J1リーグ:1回
2011年 - 天皇杯:2回
1995年、1999年 - Jリーグカップ:2回
2021年、2024年 - スーパーカップ:2回
1996年、2011年 - サントリーカップ・チャンピオン・ファイナル:1回
1996年
個人タイトル
現在の所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
- | 監督 | 長谷川健太 | 1965.9.25 | 2022 | FC東京 監督 | ||
1 | GK | ミッチェル・ランゲラック(C) | 1988.8.22 | 2018 | レバンテUD | ||
2 | DF | 野上結貴 | 1991.4.20 | 2023 | サンフレッチェ広島 | ||
3 | DF | ハ・チャンレ | 1994.10.16 | 2024 | 浦項スティーラーズ | 【完】 | |
4 | DF | 井上詩音 | 2000.4.25 | 2024 | ヴァンフォーレ甲府 | 【完】 | |
5 | MF | 吉田温紀 | 2003.12.26 | 2021 | 名古屋グランパスU-18 | 【H】 | |
7 | MF | 和泉竜司 | 1993.11.6 | 2023 | 鹿島アントラーズ | ||
8 | MF | 椎橋彗也 | 1997.6.20 | 2024 | 柏レイソル | 【完】 | |
10 | FW | パトリック | 1987.10.26 | 2024 | 京都サンガF.C. | 【完】 | |
11 | FW | 山岸裕也 | 1993.8.29 | 2024 | アビスパ福岡 | 【完】 | |
14 | MF | 森島司 | 1997.4.25 | 2023 | サンフレッチェ広島 | ||
15 | MF | 稲垣洋 | 1991.12.25 | 2020 | サンフレッチェ広島 | ||
16 | GK | 武田洋平 | 1987.6.30 | 2016 | 大分トリニータ | ||
17 | MF | 倍井謙 | 2005.9.7 | 2022 | 関西学院大学 | 【卒】【H】 | |
18 | FW | 永井謙佑 | 1989.3.5 | 2022 | FC東京 | ||
19 | MF | 重廣卓也 | 1995.5.4 | 2022 | FCソウル | 【復】 | |
20 | DF | 三國ケネディエブス | 2000.6.23 | 2024 | アビスパ福岡 | 【完】 | |
24 | DF | 河面旺成 | 1994.5.3 | 2022 | 大宮アルディージャ | ||
27 | MF | 中山克広 | 1996.7.17 | 2024 | 清水エスパルス | 【完】 | |
28 | FW | 榊原杏太 | 2005.9.7 | 2022 | 関西学院大学 | 【卒】【H】 | |
32 | MF | 鈴木陽人 | 2005.5.17 | 2023 | 名古屋グランパスU-18 | 【昇】【H】 | |
33 | MF | 菊地泰智 | 1999.5.7 | 2024 | サガン鳥栖 | 【完】 | |
34 | MF | 内田宅哉 | 1998.6.2 | 2022 | FC東京 | ||
35 | GK | ピサノアレク幸冬堀尾 | 2006.1.10 | 2024 | 名古屋グランパスU-18 | 【昇】【H】 | |
37 | GK | 杉本大地 | 1993.7.15 | 2023 | ベガルタ仙台 | ||
41 | MF | 小野雅史 | 1996.8.9 | 2024 | モンテディオ山形 | 【完】 | |
42 | FW | 杉浦駿吾 | 2006.5.14 | 2024 | 名古屋グランパスU-15 | 【2】 | |
43 | MF | 西森悠斗 | 2006.5.23 | 2024 | 名古屋グランパスU-15 | 【2】 | |
44 | DF | 森壮一郎 | 2007.6.29 | 2024 | JFAアカデミー福島U-15 | 【2】 | |
45 | MF | ホセ・カラバリ | 1997.5.19 | 2024 | オールウェイズ・レディ | 【完】 | |
46 | DF | 大磯龍輝 | 2004.12.15 | 2024 | 東海学園大学(在学中) | 【特】 | |
55 | DF | 徳元悠平 | 1995.9.12 | 2024 | FC東京 | 【レ】 | |
66 | DF | 山中亮輔 | 1993.4.20 | 2024 | セレッソ大阪 | 【完】 | |
77 | FW | キャスパー・ユンカー | 1994.3.5 | 2023 | 浦和レッズ | ||
99 | FW | アヴェレーテ・イーブス | 2003.3.6 | 2024 | シャールジャFC | 【完】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
過去に所属したおもな選手
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歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
平木隆三 | 1992年~1993年 | ||
ゴードン・ミルン | 1994年~1994年11月 | ||
三浦哲郎 | 1994年11月~12月 | 監督代行 | |
アーセン・ベンゲル | 1995年~1996年9月 | 天皇杯優勝(1995年) | |
ジョゼ・アルベルト・コスタ | 1996年9月~10月 | 監督代行 | |
カルロス・ケイロス | 1996年10月~1997年11月 | チャンピオン・ファイナル優勝(1996年) | |
田中孝司 | 1997年11月~1999年4月 | ||
ダニエル・サンチェス | 1999年4月~8月 | ||
マザロッピ | 1999年8月 | 監督代行 | |
ジョアン・カルロス | 1999年9月~2001年8月 | 天皇杯(1999年) | |
三浦哲郎 | 2001年8月~12月 | ||
ズデンコ・ベルデニック | 2002年~2003年8月 | ||
ネルシーニョ | 2003年8月~2005年9月 | ||
中田仁司 | 2005年9月~12月 | ||
ヤン・フェルホーセン | 2006年~2007年 | ||
ドラガン・ストイコビッチ | 2008年~2013年 | J1リーグ優勝(2010年) | |
西野朗 | 2014年~2015年 | ||
小倉隆史 | 2016年~2016年8月 | GM兼任 | |
ボスコ・ジェロヴスキー | 2016年8月~11月 | J2降格(2016年) | |
風間八宏 | 2017年~2019年9月 | J1昇格(2017年) | |
マッシモ・フィッカデンティ | 2019年9月~2021年 | ルヴァンカップ優勝(2021年) | |
長谷川健太 | 2022年~ |
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関連項目
関連リンク
脚注
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