甲府城 日本100名城 25 |
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別名 | 赤甲城 一条小山城 甲斐府中城 舞鶴城 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 徳川家康 羽柴秀勝 加藤光泰 浅野長政・幸長 |
築城年 | 1582年?(天正10年) |
廃城年 | 1873年(明治6年) |
甲府城とは、山梨県甲府市にあった日本の城である。山梨県史跡、日本100名城に指定されている。
概要
甲府城は甲府市街中心部のJR甲府駅から南に徒歩10分程度にある一条小山と呼ばれる丘に建てられた平山城である。
「山梨、甲府……武田信玄!」というイメージが強いが、甲府城は武田氏滅亡後に築城された城なので関係は無い。武田氏で有名な躑躅ケ崎館(現在は武田神社が建立されている)はJR甲府駅から北に徒歩で約30分ほどの位置にあり、一条小山は当時の甲府の領域の南端に位置したとか。
明治になり廃城され、城を構成していた建物は撤去されたため、現在は石垣と遺構、復興された建物で舞鶴城公園として整備されている。やはり天守があってなんぼという見方もあるものの、資料が残されておらずそもそも天守があったのかどうかも謎という現状で、天守についての資料に賞金までかけられているらしい。
歴史
詳しい概要などはWikipediaの記事にまかせておくとして、大雑把に記しておく。
西暦(元号) | 出来事 |
---|---|
1582年(天正10年) | 武田氏滅亡
本能寺の変で織田信長が斃れ、なんやかんやで甲斐国は徳川家康が掌握する。 |
1590年(天正18年) | 豊臣秀吉の天下統一。徳川家康が関東に移封されたことにあわせて、甲府城には秀吉の甥の羽柴秀勝が入った。 |
1591年(天正19年) | すぐに羽柴秀勝が美濃へ転出。甲府城には忘れられた加藤さんなどとネタにされる加藤光泰が入る。 |
1593年(文禄2年) | 甲府城の築城は概ね加藤光泰によるものと思われるが、光泰は朝鮮出兵中に病死してしまう。
光泰はもともと病身を押しての出兵で遺言状も遺しており、息子の貞泰は若年のため甲斐国は任せられないという光泰の遺言に則って貞泰は美濃国に転出。 甲斐国は浅野長政が入る。 |
長政は上方にいることが多かったので、甲斐国の運営は息子の幸長が主に行っていたとか。甲府城も築城完了。 | |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦いの勝利により甲斐国は再び徳川家康が掌握。その後、甲府城は親藩や城番に任せられる。 |
1705年(宝永2年) | 当時の城主の徳川綱豊が5代将軍綱吉の後継と決まって江戸に入ったことに伴い、甲斐国には綱吉の側用人として権勢を揮っていた柳沢吉保が入る。 |
1709年(宝永6年) | 綱吉の死去に合わせて柳沢吉保が致仕し、吉保の息子の吉里が藩主となる。これまで甲府藩は藩主が入ったことがない状態が続いていたが、初めて藩主を国元に迎えることになった。 |
1724年(享保9年) | 吉里が大和郡山に転封され、甲斐国は天領に。 |
1867年(慶応3年) | 大政奉還。 |
1868年(慶応4年) | 3月、官軍が甲府城に無血入城。一方、甲州鎮撫を命じられて甲府入りを目指していた新選組が官軍との交戦(甲州勝沼の戦い)で壊滅する。
9月、明治と改元される。 |
1873年(明治6年) | 廃城。 |
謝恩碑
街中を歩いていると、丘の上の城址に約18m(台座を含めると約30m)のオベリスク型の石柱がドン!とそびえ立っているのが目に入る。
この石柱は、慢性的な水害に悩まされていたものの復旧で首が回らない状態に陥っていた山梨県に対し、明治天皇が県内の御料林全て(山梨県の面積の約1/3)を県に下賜されたことへの感謝と水害の教訓を伝えるために建てられた。
耐震性も考慮されていて、1923年(大正12年)の関東大震災で甲府の街も震度6の烈震に襲われたものの謝恩碑はびくともしなかったという。
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