初代将軍・徳川家康の血を引く家系の藩。つまり江戸将軍家の分家。
概要
親藩の中でも御三家・御三卿は、「徳川」姓を名乗ったり(それ以外の徳川一門は通常「松平」姓を名乗る)、「三つ葉葵」の家紋を使うことが認められた。
6代将軍・徳川家宣が尾張徳川家の徳川吉通に将軍職を譲る可能性を検討して以来、江戸将軍家に世継ぎが生まれなかったときは御三家から養子を出すという流れが生まれた(天皇家における親王宮家のような役割)。
その後選択肢を増やすために「御三卿」も創設され、実際に御三家・御三卿から、8代将軍・徳川吉宗(紀州徳川家から)、11代将軍・徳川家斉(一橋徳川家から)、14代将軍・徳川家茂(紀州徳川家から)、15代将軍・徳川慶喜(一橋徳川家から)の4人が江戸将軍家の養子に入って将軍となっている。
江戸幕府の機構の中では、安政・文久の改革以前は親藩大名が制度的実権を持つことは許されず(役職に就けるのは譜代大名や旗本のみ)、親藩は、将軍を家族・相談役としてサポートするむしろ名誉的な立場であるとされた。
なお、「親藩」という呼称が使われはじめたのは幕末からであり、それ以前には使用例はなく、単に「家門」「一門」と呼ばれていた。[1]
親藩の一覧
徳川御三家
それぞれの家祖は徳川家康の九男・十男・十一男。
みな家康が老いてから側室が産み、江戸時代になってから物心がついて健康に育った子たちである。幼少期に領地が与えられ、いずれも初期は家老たちが藩の実政を任された。
- 尾張徳川家
- 紀州徳川家
-
水戸徳川家
- 下妻藩(1606-1609)→水戸藩(1609-1871)
藩庁は水戸城。家康の十一男徳川頼房を祖とする。
藩主自身は代々ほとんど水戸には赴かず、江戸常駐で幕政の相談役にあたった。藩の規模(実石高収入)も尾張や紀州の半分ほどにすぎなかった。
2代目藩主の徳川光圀は「水戸黄門」のモデル。
江戸時代には長く尊王史観の発信地であったことから、幕末には「天狗党」と呼ばれた士農混合の攘夷過激派が存在し、日本史上稀に見る凄惨な内乱を経験した(なぜか教科書ではほとんど扱われないが・・・)。
15代将軍・徳川慶喜は水戸家から一橋家に養子に入ったため、江戸将軍家は最後になって紀州から水戸に血統が移ったことになる。
- 下妻藩(1606-1609)→水戸藩(1609-1871)
徳川御三卿
御三卿は、江戸時代中期以降に、特定の藩を治めない新しい名門家として設立された。
いずれも、幕領から10万石ずつを分け、全国各地に分散して領有した。
その他
ほかにも将軍家の分家として、多数の徳川家・松平家が大名になったり出戻ったりしていたが、長期にわたって大きな勢力をもちつづけたのは、御三家・御三卿・越前・会津の家系のみである。
このほか、譜代大名にも多数の松平家(家康の叔父・遠戚・異父兄弟などの子孫)が存在し、十八松平などと呼称される。
その中で最大の所領を持った桑名松平家(久松松平家の一支流)に限り、田安徳川家から松平定信を養子に迎えて以降は親藩として扱われていたようである。
将軍継承と親藩
江戸幕府の政治機構はかなりしっかりしているようであって、実は大きな問題として、将軍の継承者を決める方法が定まっていなかったことが挙げられる。
常識的には、前任の将軍による最終的な後継者指名が絶対的であったが、儒教的な近縁優先や本人の力量などさまざまな要素によってたびたび周りが後継者問題で紛糾している。
7代将軍・徳川家継は幼くして病弱であり、近縁にも適当な後任者がいなかったため、次の将軍を「尾張藩から出すか、紀州藩から出すか」ということで暗闘があったと見られ、この時期両藩の資格保有者などに不審死が相次いでいる(結局は紀州藩の徳川吉宗が8代将軍に就任)。
14代将軍をめぐって、紀州藩の徳川慶福と一橋家の徳川慶喜のどちらを将軍にするかで揉めた話はあまりに有名だが、これは先代の将軍との近縁者を優先する考えに則れば徳川慶福(慶福は13代・徳川家定の従弟。慶喜は水戸藩から一橋家に養子に入ったため前任将軍との血縁ははるかに遠い)が適任。年齢的な成熟や能力の高さを見れば徳川慶喜が適任。ということであった。
結局、大老井伊直弼の裁定で若い徳川慶福が14代・徳川家茂として就任するが、家茂は幕末の目まぐるしい情勢に対して主体的に関わることもできないまま病床に伏し、1866年、20歳にして没してしまう。
家茂は「田安徳川家に生まれた亀之助(のちの徳川家達)を後任に」と遺言するが、のっぴきならない情勢の中で3歳の子どもを将軍にすることなど幕府の執行部にとっては問題外であり、当時畿内の情勢で幕府側としてのあらゆる対応を一手に負っていた一橋徳川家当主の徳川慶喜が、当然のように15代将軍に任じられるのであった。
関連項目
脚注
- 6
- 0pt