アイアンリージ 単語

アイアンリージ

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アイアンリージ(Iron Liege)とは、1954年生まれ米アメリカ合衆国生産・調教競走馬である。黒鹿毛

アメリカ競馬黄金世代のケンタッキーダービー

通算成績33戦11勝[11-9-5-8]

な勝ち
1957年:ケンタッキーダービージャージーS、シェリダンH、ローレンスアーマーメモリアルS
1958年:マクレナンH

概要

Bull LeaIron maidenWar Admiralという血統。
ブルリーブルーラスSなど27戦10勝。種牡馬として5回のリーディングサイヤー、4回のブルーメアサイヤーにいた大種牡馬である。
アイアンメイデンは61戦10勝した名前通りのである。
ウォーアドミラルは初代“ビッグレッドMan o' Warの代表産駒アメリカ三冠馬
Iron Rewardの子に1955年ケンタッキーダービーSwapsがおり、文句なく良血と言って良い血統である。

アイアンリージは名門カルメットファームによって生産・所有された。

当初は両名前からIron Lea(アイアンリー)と名付けられたが、オーナーのマーキー夫人がアイアンリージに改名した。

当時新創刊だった「スポーツイラストレーテッド」誌はケンタッキーダービーに出走する可性のあるの記事でカルメットファームの取材が最適と考え、著名な写真のユラ氏を送り込んだ。そしてちょうど生まれてくる子の撮に成功した。その子がのちのアイアンリージだった。なお、ユラ氏はインド水田でのでレースを撮するときに事故死亡したので、この子ケンタッキーダービーで走る所も自分の写真が「1/9066の子」のタイトル面を飾ることを見ることもわなかった。

アイアンリージは16ハンド(約162.6cm)のバランスの取れたで、Bull Lea産駒に見られるやや曲がった肢以外は欠点のないだった。性格はのんびり屋で体力を維持させるにはおやつで釣らなければならなかった。

さて、このアイアンリージ、同期Bold Ruler(ボールドルーラー)、Gallant Man(ギャラントマン)、Round Table(ラウンドテーブル)、General Duke(ジェネラルデューク)などがいる『黄金世代』であった。さらに同期には47戦21勝を挙げ、あのNorthern Dancer(ノーザンダンサー)のとなるNearctic(ニアークティック)がいるのだが、カナダで走りアメリカではど走っていないのでまた別のお話。

2歳時(1956年)

未勝利戦への準備中にアイアンリージは咳がでたため調整がやや遅れ、8月21日のアーリントンパークでのデビュー戦では6着に敗れた。9月5日ベルモントパークレースでにはエディ・アーキャロの騎乗で初勝利を飾った。その9日後、このコンビアローワンスで3着に入り、9月22日アローワンスで2勝を挙げた。その後房にあった帆布掛けに足をぶつけてしまい怪を負ってしまった。この怪は2歳時に走れるまでには回復したが、この年の残り4戦は未勝利に終わった。

2歳時は8戦2勝だった。

3歳時~4歳時(1957年~1958年)

カルメットファームはこのときはまだアイアンリージをGeneral Duke、Barbizon(バルビゾン)に次ぐ3番手として、General DukeこそがCitation(サイテーション)以来の最高のだと考えていた。

その裏でアイアンリージは1月アローワンス優勝し、2戦は2着に入った。

2月16日エヴァグレーズSでGeneral DukeとBold Rulerの3着、3月2日フラミンゴSでBold RulerGeneral Dukeの3着、フロリダダービーでGeneral DukeとBold Rulerの3着と好走した。同じ相手に負けているのがちょっと気になるが・・・。その後ケンタッキー州での7ハロンでのアローワンス勝利した。

ケンタッキーダービーの5日前に行われたダービートライアルではFederal Hill(フェデラヒル)が優勝General Dukeが2着に入り、アイアンリージは5頭立て最下位に終わった。この後Greneral Dukeは蹄が悪化し、ダービーの当日の9時にカルメットファーム営はアイアンリージのみで挑むこととなった。そのときGeneral Dukeの騎手であったウィリアム・ハータックが急遽騎乗することになった。

そして迎えた第83回ケンタッキーダービー、9℃と寒さの中に世紀の一瞬みようと多くの観客が押し寄せ、別路線から来たGallant ManRound Tableも加わった一戦となった。このレースではFederal Hillが先頭に立ち、アイアンリージはやや後方から様子を伺う展開となった。アイアンリージは中盤から徐々にポジションを上げていき、直線に入る頃にはFederal Hillに並び、追い抜いた。そして外からGallant Manが仕掛け一度はアイアンリージを追い抜くが、残り1/2ハロン標識Gallant Man騎手のシューメーカーが誤認して一手綱を緩めてしまい気づいて追いなおしたが、アイアンリージがハナ差で抜き返し優勝した。Round Tableは3着、Bold Rulerは4着だった。アイアンリージの優勝でカルメットファームは6個ダービートロフィーを飾ることになった。

続くプリークネスステークスGallant ManRound Tableは回避しアイアンリージは二冠を狙うことになったが、Bold Rulerに2馬身差の2着でゴールした。2着は確保したので一応ケンタッキーダービーはフロックではないことを明した。

1週間後のジャージーSで優勝したあと(走らせすぎのような気もするが同期Bold RulerRound Tableも似たような使い方をされてるしこの時代では常識だったのだろう)ベルモントステークスは回避して短期休養に入り、7月のアーリントンクラシックで2着、8月のシェリダンハンディキャップ優勝アメリカダービーRound Tableの2着となった。その後も走り続けローレンスアーマーメモリアルHなどに優勝し、この年は17戦8勝で終えた。

4歳時にはハンディキャップレースを中心に8つのレースに出走したがマクレナンHで1勝するのがやっとだった。

通算33戦11勝。

種牡馬として

そんな黄金世代のダービーだが、フランスマルセル・ブサック氏の牧場で9年間供用された後、なんと日本の静内スタッドで供用されることとなった。フランスでもそこそこの成績を残したようだが、日本では1973年有馬記念優勝ストロングエイト1976年目黒記念(秋)優勝タイホウヒーロー1973年フラワーカップ優勝ナスメロデイなどを残した。伝説ダービーの上位4頭の産駒は合わせて180以上のステークスを制することとなった。

アイアンリージは1972年12月心臓発作で死亡。直系は途絶えてしまったが、ホスピタリテイシングンマイケルシングオペラになるなど、その血は日本系にしっかり根付いている。

血統表

Bull Lea
1935 黒鹿毛
Bull Dog
1927 黒鹿毛
Teddy Ajax
Rondeau
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Rose Leaves
1916 黒鹿毛
Ballot Voter
Cerito
Colonial Trenton
Thankful Blossom
Iron Maiden
1941 鹿毛
FNo.A4
War Admiral
1934 黒鹿毛
Man o' War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Betty Derr
1928 鹿毛
Sir Gallahad III Teddy
Plucky Liege
Uncle's Lassie Uncle
Planutess

クロス:Sir Gallahad III=Bull Dog 2×3(37.50%)

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