ストロングエイト(Strong Eight)とは、1969年生まれの日本の競走馬。鹿毛の牡馬。
重賞未勝利の「調教大将」から、ある日突然スターダムに上り詰めた「花の47年組」の有馬記念ホース。
主な勝ち鞍
1973年:有馬記念(八大競走)
1974年:鳴尾記念
1975年:アメリカジョッキークラブカップ
父*アイアンリージ、母*ストロングウインド、母父Scratchという血統。
父はBold RulerやRound Table、Gallant Manを擁したアメリカ競馬黄金世代のケンタッキーダービー馬。フランスで種牡馬入りした後、1967年末に日本に輸入され、栃木県で繋養された。ストロングエイトはその輸入初年度の産駒である。
母はアルゼンチンからの輸入繁殖牝馬で、戦績は不詳(不出走?)。ストロングエイトは第4仔。
母父スクラッチは1950年の仏ダービー・英セントレジャーなどの勝ち馬。
1歳下の全弟に福島民放杯を勝ったストロングナインがいる。
1969年3月23日、栃木県黒磯市(現:那須塩原市)のハイランド牧場で誕生。母*ストロングウインドがPharosとFairwayの全兄弟3×3のクロス持ちということで、Phalaris持ちの種牡馬をつけた仔はインブリードが濃すぎたかパッとしなかったことから、Phalarisフリーの*アイアンリージをつけて生まれたのがストロングエイトであった。
ハイランド牧場は藤山洋吉(藤山コンツェルン創立者・藤山雷太の息子で、岸信介内閣で外務大臣を務めた藤山愛一郎の弟)が1960年に創業した牧場で、生産馬は全て自前で所有するという純然たるオーナーブリーダーであったらしい。ストロングエイトももちろんそのままハイランド牧場の所有となった。
馬名の「エイト」は、生まれた時間が午後8時だったことからつけられたそうな。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。
1971年、3歳となったストロングエイトは、死去した父の厩舎を引き継いで同年開業したばかりの奥平真治厩舎(後の管理馬にメジロラモーヌ、メジロライアン、レオダーバンなど)に入厩。調教での動きが非常によく、奥平師もデビュー前からかなり期待をかけていた。
11月14日、東京・芝1200mの新馬戦で中島啓之を鞍上にデビューすると、3番人気に支持され、内目の枠からやや強引に逃げるとそのまま後続を突き放し、4馬身差の楽勝デビューを飾る。以後、1戦を除いて中島啓之が引退まで騎乗した。
続く朝日杯3歳Sと同日同条件の平場条件戦では控える競馬をして快勝。2戦2勝で3歳を終え、期待馬がなかなかパッとしないことが多かった藤山オーナーとハイランド牧場にとっても本格的に期待を感じさせる存在となった。
ところが、この年末から関東で馬インフルエンザの大流行が発生。これで東京・中山は2月末まで競馬開催自体ができなくなってしまい、1972年の春クラシックの日程はしっちゃかめっちゃかになってしまった。
これがストロングエイトにとってはケチのつきはじめになってしまい、復帰戦のヴァイオレットステークスは8着、菜の花賞は3着、ゆきやなぎ賞は9着と条件戦を3連敗。5月下旬開催になった皐月賞の前週の平場400万下条件を押し切ってようやく3勝目を挙げ、7月開催となったダービーを目指して6月のNHK杯に出走したが、16頭立て14着と全く問題外の大敗を喫してしまう。
それでもひっそりと「七夕ダービー」となった東京優駿の出走馬28頭に潜り込んだが、「関西三強」ロングエース・ランドプリンス・タイテエムの死闘のはるか後ろで見せ場なく13着。藤山オーナーは「ダービーに自分の馬を出せた」というだけで大喜びだったそうだが、オーナーの目標であった一桁着順にも届かなかった。17番人気だったので人気よりは上位ではあったが。
夏休みを挟み、菊花賞を目指して京王杯オータムハンデキャップ、セントライト記念と使うが、最下位7着、ブービー8着とやっぱり問題外の惨敗。こうなるとさすがに奥平師も藤山オーナーもストロングエイトに高望みはしなくなり、菊花賞を諦めて自己条件へ向かった。
自己条件の2戦目、東京の長距離特別(芝2300m)でスローペースで先行して4勝目を挙げると、続く中山のオープンでも好メンバー相手に2着に好走したが、その後が続かない。4歳末から5歳春は準OPの1000万下条件戦を走るが、6着、6着、2着、4着、3着、5着、2着、5着。おおむね賞金は持ち帰っているが、どう見ても完全にここで頭打ちの気配である。
相変わらず調教ではよく走るのだが、いざレースに出れば条件戦で勝ちきれない「調教大将」。身の丈の条件特別をコツコツ走って掲示板入りして食い扶持を稼ぐ、どこにでもいる条件馬――。この時点のストロングエイトは、明らかにそんな平々凡々な馬でしかなかった。
そんなストロングエイトに転機が訪れたのは、6月24日の中山芝2200m戦、ジューンハンデキャップ(1000万下)。楽なメンバーで1番人気に支持されると、クビ差凌いで久々の勝利を挙げる。
すぐに降級になってしまったが、続いて福島の条件戦・福島テレビ杯に向かうと、ここも5頭立ての楽なメンバーで逃げ切り勝ち。揉まれ弱く、ハイペースだとバテてしまうので、楽なスローで先行策、という好走パターンを掴み、連勝でオープン入りを果たす。
しかし準OPで頭打ちになりかけていた、楽なメンバー相手でしか勝ってない馬がうっかりオープン入りしてしまって大丈夫なのか? といういささかの不安の中、セントライト記念以来の重賞となる毎日王冠へ。結果は勝ったタクマオーに5馬身ほど離されての3着。複勝圏内だが6頭立ての手薄なメンバーなので手放しで好走と言えるほどでもない。
続くオールカマーでは中島騎手が同じ奥平厩舎の牝馬ラファールに回ったので増沢末夫がテン乗りしたが、ハクホオショウやオンワードガイといった実績馬相手に3番人気に支持されたものの、直線一杯になり勝ったハクホオショウから1.5秒も離されて5着。全く通用しないわけではないが、やはり一流メンバー相手ではいささか分が悪いと言わざるを得ない。
これなら天皇賞や有馬記念のような身の丈に合わない大レースではなく、ダービー卿CT(当時は11月開催の芝1800m)とかクモハタ記念あたりをコツコツ走るのが常道である。しかし藤山オーナーとハイランド牧場にとっては、自家生産馬が天皇賞や有馬記念に出られるならそれだけでも名誉なこと。オーナーはこの王道路線を進むことを要望し、開業したばかりで実績が欲しかった奥平師もそれに乗っかった。ストロングエイトは果敢に天皇賞(秋)、そして有馬記念を目指すことになったのである。
……もしこのとき、オーナーか調教師、どちらかが既に実績を積んでいて、分不相応なレース選択を避ける常識的なルートを選んでいたら、ストロングエイトの馬生は全く違っていたかもしれない。実績が欲しい新興牧場と新人調教師のタッグだったからこそ選ばれた、どう考えても無謀な選択がひとつのシンデレラストーリーを生むのだから、運命の巡り合わせとはまったく数奇なものである。
というわけでストロングエイトは天皇賞(秋)へのステップとして目黒記念(秋)に挑戦。重賞連勝中の同期タニノチカラ、前年には海外にも挑戦した2年前の天皇賞馬メジロムサシ、重賞3勝の逃げ馬トーヨーアサヒ、前年の春天勝ち馬ベルワイドといった一流どころが揃い、ストロングエイトは53kgと軽めのハンデを貰いながら13頭立ての9番人気に過ぎなかった。
しかしレースはトーヨーアサヒが逃げるのを単騎2番手で追走、直線でトーヨーアサヒを捕まえて先頭に踊り出る。最後はベルワイドの末脚に屈したものの、レコード決着に1馬身半差の2着。ストロングエイトは思いがけぬ好走を見せる。
そして迎えた天皇賞(秋)。8頭立ての6番人気に留まったストロングエイトだったが、1番人気ハクホオショウがスタート直後に骨折し競走中止になる中、ぽんと好スタートからナオキとともに先行し、1周目のホームストレッチで抑えてトーヨーアサヒを前に行かせて3番手に控えると、タニノチカラが3角でもう先頭に立ったのに直線でも内ラチ沿いで食い下がって4着。いつの間にやら一流どころ相手でも相手なりに頑張れるだけの力を身につけていたストロングエイトに、藤山オーナーもハイランド牧場のスタッフも、奥平師も「やはり大レースに挑戦させてよかった」と満足の結果であった。
続くストロングエイトの目標は、藤山オーナーにとってダービーと並ぶ大目標であった有馬記念。当時の有馬記念はファン投票上位とJRAの推薦馬のみが出走できるというルールで、重賞未勝利馬のストロングエイトがファン投票で選ばれるわけはなく、推薦委員会に選んでもらうしか出走する方法はなかった。しかし秋天4着とはいえやはり一介の重賞未勝利馬、6月まで条件戦で勝ちきれずにいた馬である。陣営は有馬記念出走を目指すことを表明していたが、推薦されるかどうかはわからなかった。
そんな中、推薦委員のひとりが奥平師に「ストロングエイトは本気で使う気があるのか?」と訊ねた。奥平師は「出られるなら使います」と答えた。すると委員は「じゃ、選んでやる」と答えたという。
1973年といえば、大井から殴り込んできて皐月賞を無敗で制した「怪物」ハイセイコーが空前の大ブームを巻き起こしていた年である。この有馬記念のファン投票では実に9割もの票を集めたというからわけがわからない。ダービーで連勝街道が止まってからは惜敗続きながら人気の衰えないハイセイコーが、初めて古馬に挑むグランプリであったが、ハイセイコーに煮え湯を飲ませた二冠馬タケホープは回避、春天を勝って古馬代表となるはずだったタイテエムは怪我で引退。宝塚記念を勝ったハマノパレードに至っては予後不良になってしまっていた。秋天馬タニノチカラこそ出てきてくれたが、少頭数ではいかにも寂しい。なるべく出走馬の数を揃えたいという思惑もJRAにはあったのだろう。
ともあれ、半ば温情出走というか数合わせというか、そんな形でストロングエイトは有馬記念の出走11頭の中に無事に選出されることになった。
もちろん、一介の重賞未勝利馬が本番で人気を集めるはずもない。「重賞初制覇が有馬記念」という馬は過去1頭もいないのである。大外枠のストロングエイトは単勝42倍のブービー10番人気に過ぎなかった。陣営も「恥ずかしくないレースは出来るだろう」と思っていたが、まさか勝つとまでは思っておらず、奥平師はレース前に中島騎手に対して特に指示も出さず、「気をつけて乗って来い」と言っただけだったという。
だが、大外枠から好スタートを切ったストロングエイトは、二冠牝馬ニットウチドリが逃げるのを単騎2番手で追走するという絶好のポジションを確保。ホームストレッチでナオキが上がっていって3番手になったが、後ろでハイセイコーとタニノチカラが牽制し合うの尻目に、ニットウチドリのスロー逃げを中島啓之とストロングエイトはインの経済コースで楽に追う。
3角から4角にかけて横にハイセイコーが迫ってきたが、中島騎手が追い出すとストロングエイトは負けじと脚を伸ばしていく。直線に入っても楽に逃げたニットウチドリが粘り、後続は伸びてこない前残りの展開。ハイセイコーを振り切ったストロングエイトは、内ラチ沿いで粘り倒すニットウチドリを残り100mで捕まえ、クビ差かわしてそのままゴールへと押し切った。
ブービー人気の重賞未勝利馬の勝利に、ハイセイコーを見に集まった大観衆はどよめき、まさか勝つとは思っていなかった奥平師も藤山オーナーも喜ぶ前に茫然、困惑。単勝4200円はもちろん当時の有馬記念史上最高配当(現在もダイユウサク、マツリダゴッホ、メジロパーマーに次ぐ4位)。枠連は13300円もつき、有馬記念史上初の万馬券となった(ちなみにこちらも現在は4位)。
史上初の「有馬記念で重賞初制覇」を為し遂げたストロングエイトは、半年前まで条件戦でもがいていた立場から、一日にしてグランプリホースの頂へ、満場の大観衆の前でスターダムへと上り詰めたのだった。
とはいえ、有馬記念を勝っただけでストロングエイトが即座に現役最強と見なされたわけではない。二冠馬タケホープは不在だったし、そもそもレース内容が典型的な、人気どころが牽制しあった結果のスローペースの前残り。逃げた4歳牝馬が2着に粘ったのだから、当時の競馬ファンがこの有馬記念に下した評価は「凡戦」であった。ストロングエイトはそんな凡レースで展開に恵まれただけのわけのわからん馬であり、どうせこの後は苦労するだろう、こんな馬が勝ってしまって有馬記念の格を落とすのでは、なんて口さがないことを言っていた。
そして実際、明けて6歳の始動戦となった目黒記念(春)でストロングエイトはトップハンデ58kgも嫌われて3番人気に留まり、11頭立ての9着に撃沈してしまう。ほらやっぱりな、と思われたのは想像に難くない。
しかしそんな競馬ファンの口を、ストロングエイトは自らの力で黙らせる。天皇賞(春)を目指して関西入りすると、鳴尾記念をトップハンデ58kgもものともせず逃げ切り楽勝。重賞2勝目を挙げ、いざ天皇賞(春)へと乗りこんだ。1番人気はハイセイコー。2番人気はタケホープ。この最大のライバル関係の2強に次いで、ストロングエイトは3番人気に支持された。
レース前には中島騎手が2番手で競馬をしたいと言っていたストロングエイトは、好スタートから序盤はハナを伺い、ホームストレッチで前を譲るいつもの展開に持ち込む。人気薄のサチモシローが先頭に立ち、ハイセイコーがそれを追って2番手に上がっていくのを、虎視眈々と3番手のインという絶好の位置につけた。3コーナーの頂上あたりでハイセイコーが先頭に立ち、ストロングエイトはそれを追う。さすがに距離が長いハイセイコーは4角でいっぱいになり、ストロングエイトは悠々とハイセイコーをかわして先頭で直線を向いた。直線では4番人気クリオンワードが食い下がってきたが、ストロングエイトは堂々と後続を突き放して押し切りを図る。残り200mを過ぎたところでは、明らかにストロングエイトが勝つ流れに見えた。
――だが、そこに大外から猛然と襲いかかる馬がいた。タケホープだ! その猛烈な追い込みにストロングエイトは最後の力を振り絞って抗ったものの、クビ差かわされたところがゴール板だった。
惜しくも2着に敗れたが、タケホープ鞍上の嶋田功はゴール後、ストロングエイト鞍上の中島啓之からの「おめでとう」という祝福に対し、「強いねえ」とストロングエイトの粘りを讃えたという。展開が利しただけのフロックで有馬記念を勝った凡馬ではない。自身が紛れもなく名馬であることをストロングエイトはこの力走で証明したのだった。
だが、この春天の激闘でストロングエイトはその力を限界まで振り絞りきってしまったらしい。ハイセイコーを抑えて1番人気に支持された宝塚記念で6着に撃沈したあと、夏休みに入ったがガレてしまい、馬体はなかなか戻らなかった。秋は平場のオープンで復帰したが9着、7着と見る影も無い凡走。天皇賞(秋)では8番人気まで評価を落とし、それに反発するでもなく10着。この時点で藤山オーナーは、有馬記念とAJCCを使ってストロングエイトを引退させることに決めた。
連覇の掛かる有馬記念では9頭立てのブービー8番人気に留まり、ハイセイコーのラストランの陰でひっそりと5着。そして明けて7歳、ラストランとしてアメリカジョッキークラブカップに臨んだ。前年の秋天勝ち馬カミノテシオが1番人気で、ストロングエイトは3番人気だったが、最後の舞台で再びストロングエイトは輝きを取り戻した。楽に先行して粘り込む、全盛期の走りを取り戻した彼は、ウエスタンリバーの追い込みをクビ差凌いで、最後のゴール板を先頭で駆け抜けた。
東京競馬場に集ったファンは、ラストランを勝利で飾ったストロングエイトを「さすが有馬記念馬だ」と祝福の歓声で迎えた。伝説のアイドルホースを下したときには大波乱のどよめきに迎えられたストロングエイトは、最後はその勝利を讃える歓声に見送られてターフを去った。通算37戦9勝。
なお、主戦を務めた中島啓之騎手もストロングエイトの有馬記念が八大競走初制覇。その翌年の1974年にはコーネルランサーでダービージョッキーの称号を掴み取り、一流ジョッキーの地位を確立した。後年中島騎手は寺山修司のインタビューに「一番好きな馬は、やっぱりストロングエイトかな」と答えている。
引退後はJRAが種牡馬として買い上げる予定だったが、藤山オーナーがそれを断って故郷のハイランド牧場で種牡馬入り。栃木での種牡馬生活ということもあって産駒数は多くなく、活躍馬と呼べるのは中山大障害2着のスパークリングぐらいだったが、ハイランド牧場では大事にされたようである。
1987年の種付けを最後に種牡馬を引退、その後もハイランド牧場で穏やかな余生を送った。1992年の年明けから肝機能の低下で体調を崩し、3月1日、牧場のスタッフに見守られて天へ旅立った。24歳だった。
ストロングエイトの遺骸は故郷の調教コース脇の杉林に埋葬され、小さな墓標が建てられていたそうだが、故郷のハイランド牧場は2000年の生産を最後に廃業、今やその墓標の場所も定かではない。
ちなみに「有馬記念で重賞初勝利」は2025年現在も彼のあとにはただ1頭、リードホーユーがいるのみである。
| *アイアンリージ 1954 黒鹿毛 |
Bull Lea 1935 黒鹿毛 |
Bull Dog | Teddy |
| Plucky Liege | |||
| Rose Leaves | Ballot | ||
| Colonial | |||
| Iron Maiden 1941 鹿毛 |
War Admiral | Man o' War | |
| Brushup | |||
| Betty Derr | Sir Gallahad | ||
| Uncle's Lassie | |||
| *ストロングウインド 1957 栗毛 FNo.4-d |
Scratch 1947 栗毛 |
Pharis | Pharos |
| Carissima | |||
| Orlamonde | Asterus | ||
| Naic | |||
| Tempestiva 1945 鹿毛 |
Full Sail | Fairway | |
| Fancy Free | |||
| Tempestad | Tiepolo | ||
| Talca |
クロス:Bull Dog=Sir Gallahad 3×4(18.75%)、Teddy 4×5×5(12.50%)、Pharos=Fairway 4×4(12.50%)
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最終更新:2025/12/08(月) 11:00
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