ヒカルメイジ 単語

ヒカルメイジ

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ヒカルメイジHikaru Meiji)とは、1954年生まれの日本競走馬黒鹿毛

競走馬としても種牡馬としても活躍し、青森産馬黄金時代徴する第24代ダービー

な勝ち
1957年東京優駿(八大競走)スプリングステークスNHK杯

概要

Bois Roussel*イサベリーン、Canon Lawという血統の持込
ボワルセル1938年エプソムダービーで、セントサイモン系中の祖となった名種牡馬日本でも五冠シンザンなどを輩出した名種牡馬*ヒンドスタンとして一時期大きな存在感を誇った。
イギリスで、戦績は9戦1勝ながら1947年オークス2着の実績があり、近にも多くの活躍がいる良血1952年競走馬海外からの輸入が再開されると、1954年に有力牧場が資金を出し合って欧州から19頭の繁殖牝馬輸入して、抽選で各生産牧場に配布した。彼女はそのうちの1頭で、このとき購入された中では安価な繁殖だったため、当たった盛田牧場の場長はちょっとガッカリしたそうだが、受胎しているのがボワルセルだと聞いて「それならまあ……」と思ったそうである。
カノンローは、僅か2世代しか残せなかった産駒から多くの活躍を出し折を惜しまれた名Coloradoの数少ない産駒の1頭で、1933年のセントジェームズパレスSの勝ち

2歳下の半に、史上2組ダービー兄弟制覇を果たしたコマツヒカリトサミドリ)がいる。
イサベリーンは輸入後4頭の産駒を産んだが、第2映画』の撮中に事故死、第4は生後間もなく病死してしまい、その後イサベリーンも病気で繁殖力を失ったため、事にデビューした産駒はヒカルメイジとコマツヒカリダービー2頭のみである。

1954年3月14日青森県上北七戸町の盛田牧場で誕生。盛田牧場青森近代サラブレッド生産の嚆矢となった当時の青森の大牧場で、顕彰馬トサミドリの生産牧場というのが一番わかりやすいか。
今では産地としてはすっかり衰退してしまった青森だが、1950年代はまさしく青森産馬黄金時代というべき時期で、ヒカルメイジ・コマツヒカリ兄弟を含め10年間で5頭のダービーを輩出している。

ボワルセル産駒の持込が産まれたという連絡を盛田牧場から受けたのは、ゴールデンウエーブダービーを勝ったばかりの藤本良調教師と、トキツカゼを管理した大久保調教師。ふたりは偶然同じ汽車青森に向かったのだが、大久保師は途中で益田牧場に立ち寄るために下。当時、当歳のうちの購買はしかったそうだが、一足先に到着した藤本師はその場でヒカルメイジの購入を決めたという。
と言っても決して見栄えがしたからではなく、むしろオーナー馬主仲間から見栄えの悪さをバカにされて悔しがるような不格好なだったそうだが、藤本師は何かるものを感じたらしい。なお、一足違いでダービーを逃した大久保師のところには2年後にコマツヒカリが預けられることになった。

オーナーメイヂヒカリ馬主である新田新作。上述の通り新田オーナーはヒカルメイジの見栄えの悪さからあまり期待していなかったそうな。結局新田オーナーはヒカルメイジのデビューの3ヶ前にそのダービー制覇を見ることなく亡くなってしまい、妻の新田江がメイヂヒカリともども権利を引き継ぐことになった。

※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

光輝ある明治

メイヂヒカリと同じ東京競馬場藤本厩舎に入厩したヒカルメイジ。腸が弱いうえに脚部不安まであって仕上げにやや手間取ったが、1956年9月29日東京・芝1200mの新馬戦にて、メイヂヒカリ戦でもあった藤本厩舎所属の名手・蛯名五郎上にデビューした。良血から2番人気に支持されたが、逃げて沈んで7着。以後、1戦を除いて蛯名五郎が騎乗した。
2週間後の折り返し新馬戦で勝ち上がったが、3歳のうちのヒカルメイジは全然パッとしなかった。重賞初挑戦となったジュニヤーステークスは特に見せ場なく4着、続く場のオープンも4着。朝日盃3歳ステークスには加わることもできず、年末の中山条件戦も2着に敗れ、5戦1勝で3歳を終える。

彼が本格化を迎えたのは明け4歳。中山での初戦をレコードタイムハナ差2着と覚醒の兆しを見せると、翌週の4歳特別で前走の勝ちボストンに3馬身半差で圧勝。この勝ちっぷりに藤本師は手応えを掴み、しい記者に「やっとダービーが見つかったよ」と漏らしたという。
東京に戻り、オープンでジュニヤーS勝ち朝日盃3歳S2着のラプソデーを蹴散らし勝すると、スプリングステークスは堂々3馬身半差で圧勝。これで一躍ヒカルメイジはこの年のクラシック三冠大本命に躍り出ることになった。

中山でひと叩きオープンを4馬身差のレコードで圧勝し、いよいよ迎えた本番皐月賞では単勝支持率53.5%という全な一本被りに支持される。現代のオッズに直すと1.4~1.5倍ぐらいか。
しかし稍重となったレーススタート直後に他と接触する不利があり、前レースを進めたものの、先に抜け出した同じ青森産馬悪巧者カズヨシを1馬身半捕らえられず念の2着。「重の」の前にんだが、藤本師はカズヨシ柴田調教師に「今日は敗けたが、ダービーでの着順は反対だよ」と言ったという。

皐月の悔しさをらすように、ダービーへの叩きとして向かったNHK盃では直線猛な末脚で3馬身差の圧勝。ラプソデーオンワードゼアを蹴散らし、いよいよダービーでは絶対的大本命という評価を固めた。
……ただ、藤本師はこのとき既に、ヒカルメイジの脚に再び不安が鎌首をもたげていることに気付いていたという。

ともあれ迎えた東京優駿快晴の良馬場となり8万人の大観衆が詰めかけたこの年のダービーには、なんと8戦8勝敗の二冠牝馬ミスオンワードスプリングS2着・オークス3着のセルローズ2頭がオークスから連闘で参戦。昭和ローテってすごいな。しかしそんな中でもヒカルメイジと蛯名五郎皐月賞カズヨシを抑え、堂々単勝1.6倍という断然の人気に支持された。
の25番からスタートしたヒカルメイジは、1から2にかけて外から殺到する群に包まれてしまう。しかし蛯名騎手は慌てず前が開くのを待ち、狙い通り向こう正面で前が開くと先行するカズヨシ1頭に狙いを定めてその後ろにぴったりとつける。そして直線、一度は内にササったヒカルメイジだったが、蛯名騎手が外に誘導すると、先に抜け出したカズヨシを今度は並ぶ間もなくかわしてあとは独走。終わってみれば3馬身半差をつける圧勝でゴールを駆け抜けた。
勝ち時計2:31.0は1952年の「トキノミノルタイム更新する堂々のレコードタイム。持込ダービー制覇は史上初。蛯名五郎騎手は4年前のボストニアンに続くダービー制覇で、史上3人ダービー2勝ジョッキーとなった。
この年のダービーは2着カズヨシ、3着ギンヨクとも青森産馬で、青森産馬が1~3着を独占。またヒカルメイジのオーナーは上述の通り新田江、カズヨシも史上初の女性馬主(里和カツエ、柴田師の)の皐月賞だったのだが、3着ギンヨクも小説家・吉屋信子の持ちで、1~3着が女性馬主ということでも話題になった。

かくして栄ダービーとなったヒカルメイジだったが、代償は大きかった。デビュー前から弱かった脚はダービー走でとうとう屈腱炎を発症。長期休養を余儀なくされ、4歳のは全休となってしまう。

明けて5歳、ヒカルメイジはターフに戻って来た。天皇賞(春)し、3月東京オープンで復帰すると、3番人気に留まったが、あのあと菊花賞となった1番人気ラプソデーを蹴散らして快勝。屈腱炎明けでも全く衰えのない走りを見せる。
勇躍西下し、京都オープンも2馬身差で楽勝。いよいよ本番・天皇賞(春)へ臨む……はずだったのだが、念の屈腱炎再発。走らせようと思えば春天に出られなくもないぐらいだったらしいが、「ここで天皇賞を使ったら取り返しがつかないことになる」と判断した藤本師は出走を断念。ヒカルメイジはそのまま現役引退となった。通算15戦9勝。
翌年、半コマツヒカリダービーを制覇。カブトヤマガヴアナーに次ぐ史上2組ダービー兄弟制覇を達成した。

引退後は故郷の盛田牧場種牡馬入り。2年産駒から菊花賞グレートルカと、天皇賞(春)勝ちアサホコを輩出、現役時代の念を産駒らし、産の北海道集中が進む中で青森の中核種牡馬として活躍。輸入種牡馬が猛威を振るう中で、内種牡馬の一としても大いに健闘した。もっとも持込のヒカルメイジはどっちかといえば輸入種牡馬に近い存在で、内種牡馬として扱っていいのかはやや疑問が残るが……。[1]
前述した通り、50年代から60年代半ばぐらいが青森産馬全盛期であり、青森産馬馬券内を独占したダービーの勝ちで、種牡馬としても2頭の青森八大競走を出したヒカルメイジは、まさに青森産馬黄金時代徴すると言えるのではないだろうか。

25歳となった1978年まで種牡馬を続けたようで、1979年産の産駒が最後。日本サラブレッド最長寿記録(満34歳6ヶ)を持っていたイサベリーン同様に長生きであったが、30歳(現29歳)となった1983年3月6日、老衰のため死亡
現在は故郷の盛田牧場業してしまったが、地元七戸町の道の駅しちのへに、同じ七戸生まれの1962年ダービーフエアーウインとともに立像が飾られ、産地・七戸の栄を伝えている。

血統表

Bois Roussel
1935 黒鹿毛
Vatout
1926 鹿毛
Prince Chimay Chaucer
Gallorette
Vashti Sans Souci
Vaya
Plucky Liege
1912 鹿毛
Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
*イサベリー
1944 黒鹿毛
FNo.10-a
Canon Law
1930 鹿毛
Colorado Phalaris
Canyon
Book Law Buchan
Popingaol
Legal Tender
1928 鹿毛
Son-in-Law Dark Ronald
Mother in Law
Beloved Beppo
Silesia

クロスSpearmint 3×5(15.63%)、Chaucer 4×5(9.38%)、Beppo 5×4(9.38&)、St. Simon 5×4(9.38%)、Dark Ronald 5×4(9.38%)

主な産駒

関連動画

YouTubeにはダービーの動画exitがあります。フルじゃないけど。

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *なお『日本の名』(1971年)や『日本の名名勝負物語』(1980年)では、ヒカルメイジはいわゆるホモ鹿毛で、産駒は全て鹿毛黒鹿毛であるとされているが、JBISの登録データ検索してみると栃栗毛産駒が1頭だけ確認できる(あと芦毛が4頭)。
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