ベンノ(封鎖突破船)とは、第二次世界大戦中の1940年10月11日にドイツ海軍が拿捕した元ノルウェー船オーレ・ヤコブを封鎖突破船にしたものである。1941年12月24日、スペイン北方カリーニで航空攻撃を受けて大破、沈没を避けるために座礁したものの放棄された。
ベンノの前身はノルウェーの新型貨物船オーレ・ヤコブ(Ole Jacob)。
ノルウェー海運貿易使節団に加わって連合国の物資輸送を手伝っていたところ、インド洋にて仮装巡洋艦アトランティスに拿捕される。その後、オートメドン号事件でイギリス極東方面軍の重要機密を入手したアトランティスはオーレ・ヤコブで日本まで運ぶ事に決め、無事神戸まで送り届けられた。オーレ・ヤコブによってもたらされた機密は日本の対米英戦争決断に影響を与え、また一大拠点のシンガポールが早期陥落する要因にもなった。その後は日本の手で仮装巡洋艦用の補給タンカーとなり太平洋で活動中のオリオンやピングィンに燃料補給を実施。補給用燃料が無くなるとボルドーに帰投した。
1941年12月24日、封鎖突破船として日本に向かっている道中で航空攻撃を受けて大破、スペインのカリーノ沿岸に乗り上げて沈没を回避するもそのまま放棄された。
要目は排水量8306トン、全長465.1m、全幅59.4m、最大速力12.5ノット、出力3900馬力、乗組員33名。
1938年、ノルウェーの海運会社ハンセン・ジョース・アーレンダルはヨーテボリのイェータフェルケンに石油貨物用タンカーを発注。1939年4月20日に進水してオーレ・ヤコブ(Ole Jacob)と命名され、同年8月に竣工を果たした。母港はノルウェー南東部のアーレンダール。
記録上では8月竣工となっているが、7月31日にウェリントンへ向けて処女航海を始めており、8月以前の時点で既に航海が可能な状態だったと思われる。出港から僅か数時間後にキャンベル岬沖でリトルトンに行き先を変更するが、蒸気船アーマデールと衝突事故を起こして両船とも大破。オーレ・ヤコブは修理のためオークランドに向かった。
第二次世界大戦が勃発した後の1940年3月20日、1000隻以上の船舶を管理するノルウェー海運貿易使節団に所属し、連合国の物資輸送任務に協力。
11月7日、スーダンに輸送するための航空燃料11万バレルを積載してシンガポールを出港。
それから3日後の11月10日、マラッカ海峡西方にてオーレ・ヤコブは、英補助巡洋艦アンテノールと偽ったドイツの仮装巡洋艦アトランティスが右舷前方より反航してくるのを確認。不審に思ったオーレ・ヤコブのクロッグ船長は針路を変更しつつ無線通信士に強襲艦の襲撃を受けた事を意味するQQQ信号を打つよう命じた。対するアトランティスは停止信号を繰り返しながら追い回してくる。やがて速力差からアトランティスに距離を詰められ、また航空燃料を積んでいるので砲撃されればひとたまりもないとして、クロッグ船長は命令に従わざるを得なかった。
間もなくポール・カメンツ大尉率いる拿捕隊が移乗。彼らが最初に確かめたのは本当に救難信号が止められたかどうかだった。23名のノルウェー人をアトランティスへ移乗させた後、ロッゲ船長は拿捕部隊に「11月15日にクリスマス島沖で合流すべし」と命じ、アトランティスから分離させた。
翌11日午前7時頃、スマトラ島北西400kmでアトランティスは英商船オートメドンを発見。オートメドンはオーレ・ヤコブの遭難信号を受信していて逃走を図るも、1800mの距離から3分間に渡って砲撃を受け、あえなく航行不能に陥る。アトランティスの臨検隊が船内を捜索したところ金庫の中からイギリス極東軍司令部宛ての極秘文書が見つかった。ロッゲ船長はこの機密文書の重要性に気付き、同盟国日本の駐日ドイツ大使館へ送り届けるべく11月14日に再度合流したオーレ・ヤコブに素早く移送、ポール・カメンツ大尉と6人のドイツ人乗組員、61名の抑留船員に日本行きを命じた。またロッゲ船長は反乱を防ぐため「ドイツ人乗組員の指示に従い、破壊活動を行わない合意書に全員が署名すれば中立国の港で解放する」「指示に従わない場合は捕虜としてアトランティスで留置する」という取り引きを抑留乗組員に持ち掛け、24名全員が署名した。
11月16日正午、重要機密を携えたオーレ・ヤコブが日本に向けて出発。燃料や食糧は拿捕したノルウェー船テディから供出し、「撃沈された」と見せかけるためオーレ・ヤコブの救命ボート、いかだ、木片などを船外に投げ込んだ。食事は主に黒パン、コーヒー、極めて小さな肉が入ったスープで、ドイツ人乗組員も抑留船員も同じものを食べていた。
12月4日、ドイツの軍艦旗を掲げたオーレ・ヤコブが神戸港に到着。神戸にはドイツ大使館員2名が待っていて、午後12時20分発の特急燕号によって21時に東京へ移送、駐日ドイツ大使館付海軍武官パウル・ヴェネッガー少将の手に渡る。こうしてイギリス軍の重要機密は日独に漏洩。一連の出来事はオートメドン号事件と呼ばれ、日本の対米英戦争の決断に影響を与えた他、東洋のジブラルタルとまで言われた英東洋艦隊の一大拠点シンガポールが開戦劈頭に早期陥落する原因にもなった。
翌5日、抑留船員たちは独豪華客船シャルンホルストへ移動。そしてイギリス当局と連絡を取らない事を条件に12月9日、上陸を許可されてノルウェー領事館に向かった。ちなみにオーレ・ヤコブの積み荷だった航空燃料は日本側が回収、そして仮装巡洋艦が必要とする燃料や物資に積み変えて補給用タンカーに仕立て上げた。カメンツ大尉は当時国交があったソ連経由でドイツに帰国しUボートに乗ってアトランティスまで帰還。代わりにシュタインクラウスが船長に就任している。
12月31日、太平洋で通商破壊中の仮装巡洋艦オリオンは度重なるエンジン不調に悩まされ、カロリン諸島ラモトレック環礁に仮泊。日本から来たオーレ・ヤコブがオリオンに燃料補給を実施する。満杯になった捕虜たちをビスマルク諸島エミラウに降ろした際、オリオンについて知り得た情報をイギリス当局に報告しており、ラモトレックが敵艦に捜索されるのは時間の問題であった。このためオリオンはマリアナ諸島北部マウグにて修理を行う事に決めた。後に修理用部品と食糧を積んだレーゲンスブルクが横浜より到着し、オリオンとオーレ・ヤコブがそれらを受け取った。
1941年1月5日、封鎖突破船の第一便として極東を訪れていたエルムラントがマウグに来訪。オリオンから拿捕船員を引き取って去っていった。1月7日、オリオンとともにオーレ・ヤコブは出港し、1月12日にマウグ付近へ到着。航路から遠く離れていて敵に見つかりにくい場所でオリオンは機関の徹底的な修理を始めた。同日中に再びレーゲンスブルクと合流し補給物資と真水をオリオンに渡す。この時オーレ・ヤコブからも補給物資を供給した。1月18日、レーゲンスブルクから真水を、ミュンスターラントからはパウル・ヴェネッガー少将が購入した九五式水上偵察機を受け取る。
2月6日、オリオンとオーレ・ヤコブはマウグを出港。レーゲンスブルクとミュンスターラントは現地に留まった。オリオンはベルリンの海軍司令部からインド洋での作戦命令を受け、2月15日夜にブーゲンビル海峡を通過、タスマン海方面へと向かう。ところが翌16日午後、オリオンの上空を旋回しながら位置情報を通報している敵飛行艇を発見、急遽オリオンは東のサンタクルス諸島へ逃走し、オーレ・ヤコブは単独で指定された合流地点に向かった。
2月25日、ケルマディック諸島北東180海里でオリオンと合流して燃料補給を行う。その後、2隻はニュージーランド東方の貿易航路で獲物となる商船を探し求めたが、1隻も発見出来なかった。3月2日にチャタム諸島西方を通過。ニュージーランドの遥か南方を西へと進む。
インド洋ではオーストラリア西方、セイロン南方、マダガスカル東方の順に約2ヶ月に渡って索敵を続け、九五式水上偵察機による飛行偵察は38回に及び、オーレ・ヤコブも偵察船として献身的に支援したものの、発見出来たのは中立船舶1、2隻程度で成果は挙げられなかった。その間、オーレ・ヤコブは補給船ケティ・ブローヴィッヒを撃沈されて燃料不足に悩まされていた仮装巡洋艦ピングィンにも給油しており、ピングィンの活動を大きく助けている。
5月18日朝、セーシェル諸島北東で九五式水偵がオリオンの迎撃に向かう敵重巡洋艦を発見し、針路変更して何とかやり過ごす。これ以上インド洋に長居するのは危険なようだ。司令部からインド洋より離脱するよう命令が下り、6月3日にオーレ・ヤコブが最後の燃料補給を施す。今回の給油でオーレ・ヤコブも給油出来る燃料が底を尽いたためドイツ占領下フランスのボルドーに向けてインド洋を脱出。ノルウェー国旗を掲げて身分を偽装した。
7月19日にボルドーの入り口へ到着。出迎えの水雷艇M18、M25、M27、M30に護衛されながらジロンド河に入った。午前0時48分、シロンド河口北西60海里の地点で遊弋していた英潜水艦ツナは闇夜の中で動く物体を確認し、2分後に全速力で追跡を開始する。午前1時、約5400mの距離から魚雷6本を発射して午前1時14分に潜航。それから30秒後に6回に及ぶ爆発音が聴き取れた。実のところ魚雷は全て外れていたばかりか、ドイツ側は機雷に触れた程度にしか思っておらず、潜水艦に対する捜索も行われなかった。ともあれオーレ・ヤコブは目的地に辿り着いた。
8月30日、日本へ派遣される封鎖突破船の第一便としてボルドーを出港。この時には既にUボートに対する補給能力も備えていた様子。ところが道中で中止となってボルドーに引き返した。このため最初に日本へ到達した封鎖突破船は第二便のリオ・グランデとなっている(一部資料では10月1日に神戸到着、10月9日に神戸を発ち、12月1日にボルドーへ戻って来たとしている)。9月18日にベンノ(Benno)へ改名。
1941年12月24日、スペイン北方のカリーニ沖を航行中、オーストラリア空軍第10飛行隊所属のサンダーランド飛行艇に発見される。護衛にハインケル水上機が付いていたが反復爆撃を受けて損傷させられる。
ベンノはスペインの沿岸を通ってフランスまで戻ろうとするも、30時間の追跡を受けた末、プエルト・デル・カリーノ港沖でイギリス空軍第22飛行隊のブリストル・ボーフォートから雷撃を喰らって大破、沈没を避けるためにカリーノの海岸へ自ら座礁。船体からは少量の燃料流出が確認された。救命艇に乗って脱出した乗組員に向けて敵機が機銃掃射を加え、ドイツ人乗組員1名が死亡、救助活動中のスペイン人漁師2名が負傷した。
一連の攻撃は中立国スペインの領海内で行われたため、12月27日夜、スペイン政府はイギリス政府に対し、ベンノの沈没に関して迅速かつ強い抗議を行った。ヴィシーフランスもまたベンノの沈没はスペインへの主権侵害だと見なしている。
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最終更新:2025/12/24(水) 02:00
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