ロシア民謡 単語

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ロシアミンヨウ

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ロシア民謡とは、ロシアの民衆の間で歌われている歌の総称である。戦後日本紹介された。

民謡と呼ばれるが、その中には民謡ではないものも多く含まれる(後述)。

概要

ロシア民謡が日本に入って来たのは、戦後すぐの昭和20年代のことである。それまでロシア音楽クラシックは入って来ていたものの、こういった大衆歌謡は入って来ておらず、紹介のため盛んに訳された。最初は食堂喫茶店BGMとして使用されたに過ぎなかったが、やがて昭和30年代になると、若者たちが同好会を作って喫茶店で歌を歌い合う「歌」で大変に重宝されるようになり、大きなブームとなった。

また、コーラスグループもこれらの歌を歌い、なかんずくダーク・ダックスはそのカヴァー数の多さと重厚なコーラスから、「ロシア民謡」=「ダーク・ダックスというイメージまで生んだ。

昭和40年代前半に「歌」がれ、ブームが過ぎ去った現在も「懐かしの歌」として多くの歌手が歌っており、外の歌としては較的容易に聞くことの出来るものとしてしまれている。

「民謡」の意味合い

民謡」というと、日本では一般的に地方地域で歌い継がれて来た作者不明の愛唱歌(「〜節」など)をイメージがある。

しかしロシア民謡の場合はそうとは限らない。実はロシア語では民謡」も「流行歌」も"народная песня"(ナロードナヤ・ペスニャー)=「民衆の歌」として一緒の単で表しており、区別が存在しない。

戦後日本にこれらの歌が紹介された際に、を直訳して「民謡」としたため、元々が外の歌であまり知識がないことや、広めた側の説明不足から、「ロシア民謡」=「ロシアで古くから歌い継がれた歌」という誤解を生んでしまうことになったのである。

このため「ロシア民謡」とされている歌の中には、本物の「民謡」以外に、作詞者名や作曲者名、発表年がはっきりした流行歌が混在している。これは他のの「民謡」と異なる特異な側面であり、注意が必要である。

また、「ロシア民謡」とは言うが、実際にはソ連初期=戦前・戦直後までの古い歌のみしており、ソ連崩壊後の現在ロシア連邦歌謡曲はこれに含まない。この場合の「ロシア」は地理的な意味での「ロシア」である。そもそもロシア民謡ブームが消滅する昭和40年代前半以降、特殊な例を除き新しい歌がほとんど持ち込まれていないため、必然的にそうなってしまうのである。

有名なロシア民謡

以下、「ロシア民謡」として日本に伝えられている歌のうち、特に有名なものを紹介する。

『カチューシャ』

該当項目を参照。「流行歌」が「民謡」扱いされている曲の代表格である。ソ連時代の1938年昭和13年)、ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・イサコフスキー作詞、マトヴェイ・イサコーヴィチ・ブランテル作曲により制作・発表。

『トロイカ』

ロシア語では"Тройка"。これは本当の「民謡である。「トロイカ」とは三頭立てのないしはそりのことである。

内容は日本ではトロイカが軽快に走り過ぎるさまを見ながら、今パーティーを楽しみにするという明るい歌詞で知られる。メロディ歌詞とつり合わずゆっくりとしており、しっとりとした雰囲気であることが多い。

ところが、これは本家ロシアではまるきり歌詞が違っている。内容はヴォルガ河のそばを流すトロイカに乗る農日本でいう小作人)の青年が、「去年想い人がくらんで地いで行った、自分にはどうにもならない」と憂い悲しみながら者にこぼす、というこの上ないものである。当然メロディもどんと暗い。これが先述の日本での歌詞メロディ齬の要因である。

なぜこのような変が生じたかは諸説ある。この曲を紹介した楽団カチューシャが、紹介したいと思ったもののあまりの歌詞の暗さ、救いのなさに困ってしまい、別の歌につける予定の歌の歌詞変してつけたものとする説、日本語訳の際に誤って歌詞のすり替えが起こってしまったとする説などがあるが、いずれにせよ藪の中である。一つ言えるのは、ロシア人が聞いたらを抜かすということであろう。

『ともしび』

ロシア語では"Огонёк"(アガニョーク)。「火」「明かり」「ともしび」を意味する"огонь"(アゴーン)の小形(優しく呼びかけたり「〜ちゃん」としくりかける形)である。『カチューシャ』を作詞したミハイール・ヴァシーリエヴィチ・イサコフスキーに曲をつけたものであるが、本来は歌として作られたものではなかった。その内容(後述)に心打たれた人々が後から曲をつけて歌い出したことにより歌となったものであるが、これが『カチューシャ』でコンビを組んだマトヴェイ・イサコーヴィチ・ブランテルなどプロ作曲がつけたり、民衆が勝手にいろいろつけたりと混沌状態となってしまう。その数の多さにとうとう自然淘汰が起こり、結果的にプロの曲より民衆の曲の方が残ることになった。このため作曲者は不明であり、半分「流行歌」、半分「民謡のような状態となっている。また、このようなこともあってか、日本ではイサコフスキー名前クレジットされないこともあった。

発生年代であるが、原の発表が1942年昭和17年なので、少なくともそれよりは後であると思われる。内容は出征する人を送り出す乙女切ない想いを描いたものである。年代を見れば解る通り、世はあたかも第二次世界大戦っ直中、しかも独ソ戦が日に日に苛になって行くという世情であり、このような日本と同じくソ連のあちこちで見られた。詞の内容が歌になるほど民衆の支持を得たのもむべなるかなというところである。

日本ではこの歌の名前が著名な歌名前になるなど大流行し、上二曲などとともに唱された。ただし、日本では本ロシアべてテンポが非常に遅く、鈍重な雰囲気になっている。出征の歌なのだからよさそうなものであるが、ロシアでは行進曲調で叙情豊かに歌い上げるのが普通であるため、日露の歌手が一緒に演した場合に大変な苦労を要することもあるという。

『コロブチカ』

該当項目を参照。元々のみであったものに、途中までかが作曲を行った半「民謡」とでもいうべき曲である。詞はロシア帝国時代の1851年(文久元年)にニコラーイ・アレクセーヴィチ・ニクラーソフによって書かれたもので、作曲者は上述の通り不明。

『カリンカ』

ロシア語では"Калинка"。意味は「ガマズミ」という植物の名の小形。長いこと「民謡」と思われていたが、何と作詞作曲者が存在したという事実が判明したという曲である。イヴァーン・ペトローヴィチ・ラリオーノフなる作曲ロシア帝国時代の1860年(万延元年)に作曲した劇中歌で、知り合いの歌手にも提供したものであるが、いつしか忘れられてしまっていたと思われる。

内容は日本ではさる飼いの散々な一日を描いた大変滑稽な歌である。後述のような事情から訳がつけづらいため、これは日本独自の歌詞である。そので元の「植物名」という設定は消されており、そので歌い出しの"Калинка, калинка, калинка моя!"(カリンカ、カリンカ、カリンカ、マヤ!)は単なるかけとなっている。また、テトリス』のBGMとしても知名度が高い。

本家ロシアではガマズミと様々な庭木やを歌い、をする歌となっている。ただし、内容は意味をなさない文が入るなど解ったような解らないようなものである。その代わり韻を踏んだ同じフレーズが何度も何度も繰り返され、テンポは極めてよい。要は一種の言葉遊びであり、それが日本での受容に大きくを及ぼしたと言える。

『一週間』

ロシア語では"Неделька"(ニジェーリカ)。意味はそのまま「一週間」。本当の「民謡である。

内容はある庶民の一週間日曜日から土曜日まで2日ずつ描いて行く歌で、最後の「テュリャテュリャ……」というスキャットから大体想像がつく通り、たわいもない戯れ歌である。しかし小学校の歌集に載ったりするなど、日本人には染みの深い曲である。

本家ロシアでも水曜日人に会う日だったり(日本語では「友人がやって来る日」)、土曜日が礼拝の日(日本語では「おしゃべりばかりの日」)である以外はほぼ同じ歌詞がついている。ただし、日本と違い知名度は極端に低い。

『ポーリュシカ・ポーレ』

該当項目参照。交響曲第1楽章のそれも第2題だけが独立したものという独特な出自を持つ軍歌である原曲ソ連時代の1933年昭和8年)にレフ・コンスタンノーヴィチ・クニッペルが作曲して発表、1934年昭和9年)にヴィクトル・ミハイラヴィチ・グーセフが作詞して歌として独立めて発表された。

特異例

ロシア民謡は何らかの形で直接ソ連から持ち込まれたものであるが、特異な、しかも考えがたいほどの壮大なスケールをもって伝わった曲がある。

それが『長いを』("Дорогой длинною"=「ダローガイ・デュリンナユ」)である。民謡」ではなく「流行歌」で、コンスタンチン・ニコラーエヴィチ・パドレーフスキー作詞、ボリースイヴァーノヴィチ・フォーミン作曲の曲である。発表はロシア帝国末期1917年(大正6年)頃と考えられている。内容は今は疎遠となってしまった友人を懐かしむ歌である。

ところが、これが以後数奇な運命をたどることになる。アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・ヴェルチンスキーというモスクワで著名な道化師が、この曲を歌おうとロシア革命で成立したばかりの臨時政府に申請を出した。しかし、それどころではないとばかりにはねつけられ、結局モスクワでの行が出来なくなってしまう。

やむなくヴェルチンスキー1919年(大正8年)にロシア南部行を行ったその足で亡命、同じく亡命したロシア人を訪ねて東欧をさまよい歩き、ついにドイツなどを経て、1923年(大正12年)にパリへ進出。ここで大成功を収め、その後アメリカにまで足を伸ばして行った。この頃には既に『長いを』はヴェルチンスキーの持ち歌と化しており、同時に多くの亡命ロシア人の心を慰めていた。なお、彼はさらにを越えて上海に渡り、1936年昭和11年)には満洲演を行うなど、日本ニアミスを起こしているが、まだこの歌が日本に伝わるのは先のことである。

さて、ヴェルチンスキー1957年昭和32年)に白玉楼中の人となった後も、『長いを』は亡命ロシア人の心の歌として歌い継がれていた。しかしこれが「流行歌」であるという事実はいつか忘れられてしまっていた。

それが、イギリスで活躍していたシンガーソングライタージーンラスキンに入ったことで、運命が大きく変わる。彼はこの曲が「詠み人しらず」扱いになっているのをいいことに、勝手に詞を英訳し、さらに自分が作詞作曲した曲として発表してしまったのである。かくして、『長いを』は"Those Were the Days"と言名前も強制的に変えられる羽になってしまった。

しかも、これで事態は終わらなかった。何と、この曲を1960年昭和35年)頃にザ・ビートルズポール・マッカートニーが偶然聞き、自分がプロデュースしようとしていた女性歌手メリー・ホプキンデビュー曲に採用したのである。

ポール論見は果たして当たり、"Those Were the Days"は際的に大ヒットした。当然、日本でもヒットし、『悲しき天使の邦題がついた。時に1968年昭和43年。こうして末期とはいえロシア帝国時代の歌が、ソ連の時代となってから、「ロシア民謡」と知られることもなく原題を知られることもなく、最終的に英語の歌として半世紀をかけ地球をほぼ2周して、隣日本へたどり着いたのである。なお、その後しばらくしてロシア民謡であったことが知られたようで、名実ともにこれで日本へ伝わったことになった。

『長いを』は歌い手「長いを」歩みながら昔を回想するという内容の歌であるが、いみじくも歌自体が「長いを」歩んで隣にようやく伝わるという経緯をたどってしまったのは皮な話である。

関連動画

ロシア語によるもの。当然『トロイカ』は陰な歌として歌われている。

日本語訳による歌唱。

ガールズ&パンツァー』でカヴァーされた『カチューシャ』。途中までである。

数奇な運命をたどった『長いを』=『悲しき天使』。上段が『長いを』、下段が『悲しき天使』。

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