一色義定 / 一色満信/ 一色五郎(不明~天正10年9月8日(1582年9月24日)?)とは、細川伊也の旦那四職一色氏の当主であり、その末期を飾る猛将である。
なお、史実上は一色五郎とのみ残っており諱は不明であるため梅本政幸といった地元の一色氏の研究者は実名について留保しており、『細川家記』の一色義有、『総見記』の一色義定、『一色軍記』の一色義俊、といった具合に軍記などの二次史料でも名前がまちまちである。
一色氏とは、足利泰氏の庶子・一色公深に始まる足利氏の分家である。
細川氏や仁木氏のように完全に被官化していたわけではなかったが、庶長子の家である吉良・斯波・渋川に比べれば弱い存在だったと言える。
その転機は南北朝の争いであり、公深の息子・一色範氏が足利尊氏が制圧した後の九州を初代九州探題として任されたのである。しかし足利方だったとはいえ少弐・大友・島津の西国三人衆は探題の設置そのものには不満であり、さらに九州には南朝方の懐良親王が下向し、範氏はこれらの勢力を抑え込む必要があったのである。
しかし探題の権限はあまりにも弱体であり、さらに観応の擾乱というめんどくさい政争が起きてしまったた。更に足利直冬の下向や少弐氏の離反が起き、範氏とその息子・一色直氏は大宰府を守り切れず京都に撤退したのであった。
そこからは直氏の弟、一色範光の時代に移る。京都に戻った一色氏は足利義詮に重用され、斯波氏失脚後の若狭と、さらには三河の守護になったのだ。さらにその子、一色詮範も活躍し、丹後と尾張の海東郡、知多郡も任されるようになった。
一色詮範の孫・一色義貫が足利義教の命を受けた安芸武田氏(豆州家)の武田信栄に殺され、丹後は将軍近臣の一色教親に、三河は阿波細川氏の細川持常に、若狭は武田信栄に分配されてしまったのだ。
幸いなことに一色教親は子がないまま亡くなり、彼の有していた丹後と伊勢の守護権は一色義貫の息子・一色義直の手に戻ってきたのである。
さてここで問題になるのが、海上交易の重要拠点である若狭が若狭武田氏(豆州家)に奪われたまま、ということである。
そこで一色義直は応仁の乱で山名氏率いる西軍につき、逆に東軍に就いた武田氏と争っていく。その結果足利義政に丹後と伊勢の守護を解任され、さらに丹後に武田氏の侵入を招くものの、終戦後この二国の守護職は無事戻ってきた。
息子・一色義春が早くに亡くなったため、再び当主になった一色義直は足利義尚時代にも六角攻めへの参戦など依然と変わらない活躍ぶりを見せた。
ところがここで領国にある問題が起こる。
丹後で国人一揆がおき、当主となっていた一色義直のもう一人の息子・一色義秀が自害に追い込まれたのである。この後丹後は守護代延長春信と国人石川直経の対立、若狭武田氏の攻撃などもあって大混乱に陥るのである。
その後丹後守護職は一色義有、一色義清が継いでいく。彼らは三河から迎えられた義直の弟・一色義遠の子孫ということだが、系図上実際はよくわからない。
武田家の総攻撃は細川政元の暗殺のために失敗したものの武田氏は強く、丹後守護職も武田氏に奪われたといわれるほどであった。これに対し新たに当主となったのはこれまた系図上よくわからない一色義幸である。
その子である一色義道はもはや完全に凋落しきっており、織田信長への謁見でやっと丹後一国の支配権を安堵されるほどであった。
しかし彼は足利義昭に味方し、織田信長と対立してしまったのである。その結果起こったことが細川藤孝、細川忠興親子(当時は長岡姓)の攻撃であり、次いで明智光秀の攻撃である。
この時父親を支え奮戦したのが一色義定である。父親が自害に追い込まれた天正7年(1579年)の戦いにおいても、彼は細川軍の本陣に侵入して大立ち回りをやってのけたのである。
彼は家督を継ぎ弓木城にこもり細川軍相手に抗戦する。細川軍はついにこれを攻略することができず、明智光秀の斡旋で和睦、細川藤孝の長女を娶る。彼女こそが信長の野望 201Xでおなじみの細川伊也である。
その後は、京都の御馬揃えにも参加したほど織田軍配下として活動したが、天正10年(1582年)の山崎の戦いにおいて明智光秀に味方した為、極めて立場が悪化する。
その結果、秀吉から謀反の疑いをかけられ、細川幽斎(藤孝)から「舅と婿になったからには是非命あるうちに親子の対面をしたく」として宮津城に呼ばれ、酒宴の席で細川忠興によって誅殺された。
『細川忠興軍功記』には暗殺時の顛末が記されている。
それによると義定と家老の日置主殿介は八畳敷の座敷に招かれ、義定の向かいに忠興が座を占めた。忠興は小姓の中島甚之充に命じて名刀・浮股信長を持たせておき、席についた折に傍に置かせたが、取りにくい位置になってしまった。しかし酒肴を運んできた米田宗堅がそれに気づき、うっかり触れた風を装ってさりげなくベストポジションに置きなおした。
まずは一献と酒を注ごうとした忠興は抜刀、脇差に手をかけた義定を抜き打ちに斬り、返す刀で主殿介に向かった。主殿介は逃走したが細川家中の者に討ち取られ、義定は供の侍の手を借りて外に逃げたところで倒れて死んだ。
彼の死後一色氏の当主は叔父の一色義清が継ぐが、下宮津の海辺で壮絶な討死を遂げた。ここに丹後一色氏は滅亡したのである。
一色氏の嫡流が実際のところいつ滅んだかは、実のところよくわからない。というのも、系図が混乱しており、最後の義道、義定、義清一門もどこから来たのかわからないからである。
とはいえこの一門も完全に滅亡してしまい、一色氏の嫡流は絶えてしまったといってもいいのである。
その後は関東の幸手一色氏の一族が寄合の一色氏となっていく。
また高家でも公家の唐橋家からきた一色在通が名跡を継ぐが、こちらは幕命違反で早くに断絶してしまった。ほかにも一色藤長の子孫などがいるが、やはり相伴衆の中ではその後がパッとしない。
わずか2年を夫婦として過ごした伊也だったが、夫・義定に対しては思い入れがあったらしい。
彼の死後細川家に戻った彼女は、夫を殺害した兄・忠興に短刀で切りつけ、鼻に横一文字の生涯消えない傷をつけた。お兄ちゃんどくな!お前を殺せない!
ちなみにこの時伊也14歳、兄に勝るとも劣らぬ苛烈な気性である。
その後伊也は細川家と縁のある神道家・吉田兼見の子、兼治に再嫁。静かに余生を送ったそうな。
信長の野望にもほぼ毎回登場している。そこそこ使える地方領主といった具合の能力値といった塩梅である。
なお、最新作である創造では一色満信名義である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 68 | 政治 | 63 | 魅力 | 90 | 野望 | 60 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 52 | 政治 | 51 | 魅力 | 64 | 野望 | 55 | 教養 | 58 | ||||
覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 23 | 政治 | 51 | 野望 | 47 | ||||
天翔記 | 戦才 | 134(B) | 智才 | 46(B) | 政才 | 112(B) | 魅力 | 70 | 野望 | 48 | ||||
将星録 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 38 | 政治 | 54 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 63 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 44 | 政治 | 54 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 56 | 智謀 | 36 | 政治 | 45 | 野望 | 51 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 60 | 知略 | 44 | 政治 | 46 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 58 | 知略 | 45 | 政治 | 46 | 教養 | 59 | ||||||
革新 | 統率 | 65 | 武勇 | 69 | 知略 | 50 | 政治 | 52 | ||||||
天道 | 統率 | 65 | 武勇 | 60 | 知略 | 50 | 政治 | 52 | ||||||
創造 | 統率 | 62 | 武勇 | 60 | 知略 | 52 | 政治 | 52 |
掲示板
4 ななしのよっしん
2022/12/28(水) 12:02:55 ID: vmsnVtIlJS
>>2
呼ばれる方だって舅と婿という関係で細川パパンに呼び出されてるわけだから、そこに幽斎も忠興もいなかったら
怪しむでしょ。
この手の地方領主を宴と称して呼び出して
領主自らが忙殺するって黒田長政とか結構他にも
同じようなエピソード多い。
しかし、ここの項目で
なんで創造で忠興の顔グラに横一文字の傷が付いたんや…
戦傷か?と思っていたが
まさか妹につけられた傷だとは思わなんだ
5 ななしのよっしん
2023/07/01(土) 15:22:53 ID: vRTj9BHYMa
赤松も一色も「よくわからない」としか言いようがない状態で滅んじゃったのか。
さすが戦国時代と言うべきか。
6 ななしのよっしん
2024/01/08(月) 22:35:01 ID: 5gWl2u3nO2
中日新聞で義定が主役の時代小説の連載やってるけど面白いわ
次回作からはもっと強化されるかも
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/24(日) 18:00
最終更新:2024/11/24(日) 17:00
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