中津競馬場単語

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中津競馬場なかつけいばじょとは、かつて大分県中津市大字大貞にあった地方競馬競馬場である[1]

概要

1924年に大分県下毛村(現在中津市郊外)に開場。1933年競馬場を大村大貞に移転する。1938年には軍保護法により一時場となるが、1948年には競馬開催を再開した。

1997年からは地方・中央の女性騎手を招待し、女性騎手騎乗限定競走の「卑弥呼杯」を開催。中津競馬所属の小田騎手を始め全から女性騎手が集い話題となった(2000年までの開催)。

1999年度には佐賀競馬場荒尾競馬場と共に九州地区合同で独自の格付けである九州グレードを導入し、2000年6月には九州3つの競馬場で組んで「九州競馬」を始動。この革は順調に進んでおり、中津競馬場も1日当たりの売り上げが前年50%増を記録。収支は善に向かっていった。

この時、後に中津競馬場の悲劇としてられる止騒動が面下で始まっていたことを関係者のもが知る由もなかった。

誰も知らなかった廃止決定

2001年2月10日大分合同新聞に大きな写真付きの記事が掲載されました。その内容は

『中津競馬場は赤字が20億円をえたため、来をめどに閉鎖する』

「…は?中津競馬場が閉鎖?」関係者にとっては寝耳に水であった。実は管理者である鈴木一郎中津市長、監督省庁である農林水産省には止の意向を伝えていたが、肝心の当事者である中津競馬関係者には何一つ伝えていなかったのだ。

……確かに中津競馬1995年度からは単年度収支で赤字を計上し続け、2000年までの累計赤字は21億円までに膨れ上がっていた。こんな状況では止と言われても文句は言えない。だが、関係者たちにとって職を失うということは死活問題である。それを当事者に伝えず一方的止を決めるとは、あまりにも横暴すぎる。

そして報道から3日後の2月13日中津競馬組合会議鈴木市長は「2001年6月3日をもって閉鎖する」と正式に表明。調教師騎手、厩務員、医や装蹄師、開催中のアルバイトなどを含めた約400名の関係者たちの不安は計り知れないものであっただろう。

しかし、これすらも悲劇の始まりに過ぎなかった……。

突然の閉鎖

2001年6月3日閉鎖が決まった中津競馬場。関係者たちはその後の処遇や職探しに不安を抱きながらもの前の開催を遂行しようとしていた。しかし、3月22日の開催を最後に突然閉鎖されてしまう。

開催予定であった4月1,2日、8,9日の開催中止は、テレビ競馬メディアにも知らされず、当日の正門はシャッターが下ろされ、「都合により開催中止」と書かれた看板が立て掛けているのみで警備員すらいない状態であった(最寄りには開催告知ポスターや横断幕がそのまま掲示されていたのだが…)。

本来4月から6月の開催日程も発表されていたが、ゴール判定写真を行う映像業者との契約更新ができなかった(中津市側が意図的に希望価格を異常に下げたとも言われている)のが理由であった。電話契約も締め日前日には解除し、携帯基地局の契約も解除してしまったために競馬場に加えて厩舎団地への電話突然全て不通となった。

こうして4かの猶予があったはずが、2かも待たずに職を失うこととなってしまった。

さらに側は6月末までに厩舎団地からも退去せよ」との通告を出し、これにより約150名の競馬従事者が職を失い、約400名の家族が路頭に迷うこととなった。

おまけ鈴木市長は「直接の雇用関係にない競馬関係者に補償を支払う義務も責任もない」と一切の補償を拒否するという始末。こいつ人間か?

競馬関係者を中心に反対署名運動が行われもしたが、突然止決定故にノウハウどない状態での活動ということもあり署名集めに苦戦。結果、標数に届かず議会でも反対意見が上がることはなかった。

所属馬の大量処分

当時の中津競馬場には約300頭の競走馬が在籍していた。そのうちの100頭ほどは他の地方競馬場へ移籍したり、牧場などで引き取ることができた。

しかし、全ての所属を救うには閉鎖決定があまりにも性急すぎた。残りの所属は立ち退き期限までに受け入れ先が見つからず、中津競馬場での活躍が期待されていたヤマノシルエットを始めとした約200頭もの競走馬処分となった。

実のところ処分された競走馬たちの中には引き取り先が決まっていたも存在していた。しかしながら競馬場・厩舎団地電話契約が解除されため音信不通状態で、連絡は全ての担当者を通す形となっていたが、これがど機していなかった。これにより連絡が途絶えたことで破談となった事例電話がつながらないことを不審に思った受け入れ元が訪問した時には既に屠殺されていた事例もあった。泣く泣く屠殺場へと送った競走馬が実は助かった命だと知った関係者の思いは計り知れないものだったであろう。

中津競馬止後、週刊現代では本来グラビア写真が掲載されるページが処分される様子の写真が生々しく掲載された

補償問題の行方

中津市は補償は一切しないとの立場であったが、当然のことながら中津競馬関係者は大反発。厩務員会を労働組合化して連合に加盟して法的に補償めた。側は払う気など一切なく、挙句の果てには詰め寄る関係者たちに生活保護を貰えばいい」うそぶく始末。職業安定所で旋される仕事も「競馬」や「」とは関係のない的外れな仕事ばかりであった。

補償問題は裁判所での法廷論場は62億円、紀三井競馬場は25億円の補償であり、中津競馬場は労働組合馬主会を合わせても3億円にも満たない額であった。これは中津競馬場の関係者数や経営規模を考慮しても少額であり、何より関係者が奔走した結果がこれである。そこまでにかかった費用などを考えると手元に残った補償はもっと少ないであろう。

鈴木一郎市長の顛末

あまりにも強引な方法で中津競馬場を止に追い込んだ鈴木市長であったが、もとは農水省出身であり(建前上とはいえ)競馬には理解がある立場であり、選挙時にはあろうことか『中津競馬場の存続』約として掲げていたのである。

論、約が必ずは果たされるわけではないが、少なくとも関係者や所属の今後を考慮したやり方で止するのが筋であろう。

も中津競馬場を潰してた上で、その跡地にダイハツ九州誘致をするという止ありきの誘致であったあたり、鈴木市長にとっての約とは単なるその場限りの人気集めの手段でしかなかったのであろう。

ちなみに止後の市長選は落選した。ざまあみろ。

競馬場跡地

中津競馬場止後、跡地には場外馬券売り場が設置されることもなく、大貞総合公園ダイハツ九州アリーナ中津市合体育館)が整備・建設された。敷地内にはホームセンタースーパーなども建っている。

一方で、公園の計画・整備にかかった工費は約40億円を計上。これは中津競馬の累計赤字21億円のおよそ2倍にあたるであった。

現在競馬場の面として残っているのは競馬場内に通っていた用水路コースの形状を沿うように不自然カーブしたコンクリート塀、厩舎団地の壁のみであり、しばらく放置されていた頭観音も2010年代頃にいつの間にか撤去されてしまっている。

『中津以後』の地方競馬

この一連の騒動の騒動を称して『中津以前』と『中津以後』というふうに地方競馬関係者は認識している。

中津競馬場の止以前の競馬場止には、必ず関係者への補償が支払われており、それが暗黙の了解であった。しかし、中津競馬場の止では補償を一切行わないことを宣言し、実際に関係者の努でかき集めた見舞も今までの競馬場止の補償べればはるかに少額であった。

これにより競馬場止する抑止の役を果たしていた補償を行う必要がないという認識が広まり、この一件を『中津方式』とモデルケース扱いし、ドミノ倒しのように11もの地方競馬場を止へと導いた

総括

このように中津競馬場の強引な止は関係者たちを路頭に迷わせただけではなく、所属していた競走馬たちの命すらも踏みにじられた悪夢としかいいようがない出来事であった。

論、競馬というものが馬券での売り上げで成り立っている以上、赤字が続けは止は当然のことである。しかし、競馬場くなるということはそこで働いていた関係者の人生や所属生をも左右する重大なことである。

近年でも地方競馬場の存についての議論は絶えない。存続・止の意見にせよこの中津競馬場の悲劇について思い出してほしい。

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関連静画

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関連項目

廃止された日本の競馬場
中央競馬 目黒 - 横浜 - 鳴尾 - 宮崎
地方競馬 旭川 - 北見 - 岩見沢上山宇都宮 - 足利 - 高崎 - 三条
- 三井 - 益田 - 福山 - 荒尾 - 中津
競馬テンプレート

脚注

  1. *かつて岐阜県中津町(現中津川市)に存在した競馬場とは関係。こちらの競馬場は移転し、笠松競馬場となっている。
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最終更新:2023/11/29(水) 11:00

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