帝珠丸とは、1938年6月9日に竣工したドイツ商船キトを、大東亜戦争中に日本が接収して特設潜水母艦にしたものである。1945年4月29日にボルネオ島南方で米潜水艦ブリームの雷撃を受けて沈没。
帝珠丸の前身は、北ドイツロイド汽船が南アメリカ西岸向けのフィーダーサービス用に発注したモーター船キト(Quito)。姉妹船にボゴタがいる。南米航路に就役する事から南米の国の首都から船名が取られ、キトはエクアドルの首都キトが由来。船尾部分にクルップ社製8気筒ディーゼルエンジン2基を内包し、船体中央部に船橋を持つ。
要目は排水量1230トン、全長75.9m、最大幅10.57m、出力1680馬力、乗員28名、最大速力13ノット(24km/h)、乗客定数12名。
1937年、北ドイツロイド汽船は10年以上運用してきた小型汽船カリ、マニサレスに代わる1230トンの貨物船2隻をウンターヴェーザーAG社に発注し、同年中にヴェーザーミュンデ造船所で起工。1938年3月15日の進水式でキトと命名され、エクアドルの首都の名を冠した縁から、在ブレーメンのエクアドル共和国領事ホセ・イグナシオ・ブルバーノ・ロサレスが後援者となった。そして1938年6月9日に竣工。北ドイツロイド汽船に引き渡された。キトとボゴタの就役によりカリとマニサレスは無事退役。
1938年6月14日、マキシミリアン・シュナイダー船長指揮の下、南米西海岸向けの物資を積載してブレーメンを出港し、処女航海に臨む。南米に到着した後はエクアドルを拠点に南米の北海岸と西海岸の港を往来し、内航海運業務に従事する。
しかし、次第に近づいてくる戦争の足音はキトの運命をも大きく狂わせていくのだった。
1939年8月21日にペルーのカヤオを出港したキトは、8月24日にエクアドルのグアヤキルへ入港。その翌日、ドイツ本国から発せられた戦争警告通信を受信し、姉妹船ボゴタとともにグアヤキルで待機する。そして9月1日にドイツ軍がポーランド侵攻を行い、2日後に英仏連合国がドイツに宣戦布告した事で第二次世界大戦が勃発、南米諸国は中立の立場を取ったがいつ連合陣営に入るか分からなかった。
1940年1月4日、キトとボゴタはグアヤキルを出港し、ボゴタより1日遅れて1月12日にコキンボへ到着。帰国しようにも道中の大西洋は強大なる英仏連合軍の箱庭であり、ドイツ政府はチリ政府と船の売却交渉を行ったが失敗、シュナイダー船長は同盟国日本の横浜へ向かうよう指示される。当時まだアメリカは参戦しておらず、太平洋にはイギリス海軍の姿も少なかったため、日本へ逃げ込む事がキトにとって唯一生き残る道だった。
だが1941年4月4日、ペルーのカヤオ当局は米英にキトとボゴタが「14日もしくは15日に脱出を試みる可能性がある」と通報。カナダの補助巡洋艦と中型歩兵揚陸艇プリンス・ヘンリーが警戒にあたる事態になり、4月19日にはプリンス・ヘンリーがアントファガスタまで進出してきたが、これを読んでいたのか2隻とも出港せずにやり過ごし、5月18日夜に出発。2隻同時に拿捕されるのを避けるためボゴタとは別行動を取っている。そして6月27日に無事横浜へ入港、7月28日にドイツ海軍に接収されて補助補給船となった。以降しばらく日本の勢力圏内で活動。
10月27日から31日まで上海にてガソリン、燃料、食糧を積み込む。船内には日本人海軍士官数名が乗船していた他、商船旗と軍艦旗が翻り、船体は灰色と緑色に塗られていたという。
大東亜戦争開戦後の1942年9月10日、政府直轄の帝國船舶株式会社に他のドイツ船ともども管理委託されてキトは帝珠丸に改名、帝國海軍に接収される形となったが乗組員はドイツ人のままだった。
1943年8月19日、シンガポールからペナンに向かう帝珠丸をオランダ潜水艦O-24が発見(O-24は日本のタンカーと認識していた)、同日16時にマラッカ海峡ホワイトロック灯台沖9kmの地点で雷撃されるも回避に成功。帝珠丸は雷撃された事を報告し、翌日特設砲艦長佐丸がペナンより出撃して対潜掃討を行ったが、18時20分頃にO-24の雷撃を受けて逆に沈没している。8月27日、東南アジアで開隊されるモンスーン戦隊に加わった最初の艦U-178がヨーロッパより到着。これに伴って9月にバタビアへ寄港した帝珠丸はドイツの封鎖突破船アルステルウーファーからUボートの予備部品を受領、モンスーン戦隊の拠点であるペナンに輸送した。
11月6日夕刻、U-178とともにペナンを出港してシンガポールに向かう。しかしその道中のマラッカ海峡で英潜水艦タリ・ホーが潜んでいるのを帝珠丸のドイツ人乗組員が発見、その15分後にタリ・ホーは5本の魚雷を扇状に発射して帝珠丸とU-178をまとめて撃沈しようとしてきた。が、帝珠丸は運に恵まれていた。発射した5本の魚雷のうち1本が左へ急旋回してタリ・ホーの左舷側をすり抜けたのである。突然の出来事にタリ・ホーが混乱している間にドイツ船2隻は速力を上げて振り切り、11月8日にシンガポールへ入港。
1944年3月に本土行きの船団とともに出発して内地帰投。6月から8月22日にかけて三菱重工横浜造船所第2ドックに入渠して特設潜水母艦へ改装された後、9月に神戸へ回航されてオーバーホールを受ける。
10月1日午前8時、音羽山丸、厳島丸、あかね丸、箱崎丸、大鳳丸等からなるヒ77船団に所属して門司を出港。護衛には海防艦千振、第19号、第21号、第27号が付いた。その日のうちに有川湾へ到着して一晩を明かし、10月2日午前7時にシンガポールを目指して出発、10月5日に高雄へ寄港した際に海防艦昭南と択捉が護衛に参加する。ところが10月6日14時10分、米潜水艦ホエールから5本の魚雷が発射され、その全てがあかね丸に命中して転覆。直ちに第21号海防艦が救助活動と対潜掃討を行うも、17時57分、新手の米潜水艦シーホースが扇状に6本の魚雷を発射して第21号海防艦を真っ二つにして沈めてしまった。
何とか米潜水艦を振り切ったのも束の間、マニラ西方にはバヤ、ベクーナ、ホークビルからなるウルフパックが配置されており、10月7日19時にベクーナのレーダーに探知される。そして21時49分よりホークビルから6本の魚雷が飛んできたが幸い命中せず、満珠丸が潜水艦へ突撃して爆雷投下するも敵潜の跳梁を抑えられず、バヤとホークビルの雷撃を受けて22時27分に衣笠丸が爆沈してしまった。10月12日15時、多くの犠牲を払いながらヒ77船団はシンガポールへ到着した。
11月に入ると連合軍の猛攻でペナンがUボート基地として使用出来なくなり、代わりにバタビアの外港タンジュンプリオクに新たなUボート基地が開設された。シャルロッテ・シュリーマンとブラーケの喪失によりモンスーン戦隊の燃料補給態勢は破綻をきたしており、やむなくキトとボゴタを代艦に指定するが、喪失した2隻より遥かに給油能力が劣るため、洋上補給ではなくバリクパパンや各基地へ燃料を輸送する程度の任務しか与えられなかった。
11月4日、シンガポールからバタビアに向かうU-862を護衛して出港するが、U-862のドライブシャフトカップリングが故障したためすぐに引き返さざるを得なくなる。バタビアに集結したUボートのために帝珠丸と帝宝丸(元ボゴタ)はバリクパパンから燃料を輸送する任務に従事。12月19日にスラバヤへ寄港して燃料を積載、12月21日に出発し、12月23日、バタビアで待つU-861に燃料を送り届けた。
1945年4月4日、第3号駆潜艇に護衛されてバタビアを出港、バリクパパンに向かう。4月12日19時20分よりB-24爆撃機3機から機銃掃射を受けて軽度の損傷を負った他、至近弾により通信士が海へ投げ出されて行方不明となる。何とか敵襲を切り抜けてバリクパパンに寄港。燃料を積載して4月27日19時に出発するが、オーストラリアのメルボルンにある連合軍の無線傍受部隊FRUMEL(フルメル)に行動予定を解読され、航路上に米潜水艦ブリームが待ち伏せる。
1945年4月29日、ボルネオ島南部を哨戒中のブリームは帝珠丸の航跡を発見し、数時間に渡って追跡した後、同日夜に6本の魚雷を発射。このうち2本が帝珠丸に直撃して燃料に誘爆、あっと言う間に炎の塊になって沈没してしまった。攻撃後、浮上したブリームは漂流する生存者を救助する。
到着予定日の4月30日20時になってもバタビアに到着しない帝珠丸を案じ、5月1日朝よりジャワ海西部で捜索が行われるも発見出来ず、更にスラバヤから水上機を送って南海岸側も捜索したがこれも空振りに終わってしまった。
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