シャルロッテ・シュリーマン 単語

シャルロッテシュリーマン

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シャルロッテ・シュリーマン(Charlotte Schliemann)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した封鎖突破兼補給である。東南アジア方面で活動し、モンスーン戦隊の補給としてインド洋方面におけるUボートの活動を支えた。1944年2月11日インド洋にて軽巡洋艦ニューカッスル駆逐艦レントリス撃を受けて沈没

概要

可憐なる少女は青き戦場で舞う

ドイツ海軍が徴用した石油輸送用タンカー

カリブからドイツへ燃料を持ち帰っている中で第二次世界大戦の開戦を迎え、スペインカナリア緊急避難。以降は密かに同へ来訪するUボートへの給油任務に就く。1942年2月にタンカーの減少で補給定されると仮装巡洋艦ミヒェル、シュティーア、ドッガーバンク(封鎖突破船)の随伴タンカーを務め、半年後に封鎖突破として極東の同盟日本へ移動。横浜で停泊中に横浜港ドイツ軍艦爆発事件に遭遇した。

1943年6月からはインド洋で通商破壊を行うモンスーン戦隊給油支援となり、ブラーケとともに作戦期間の延長と戦果の向上に一役買うなど八面六臂の活躍を見せる。しかし、シャルロッテの存在を疎ましく思ったイギリス海軍から三度に渡る大捜索を受け、1944年2月11日インド洋にて撃沈された。シャルロッテブラーケの喪失はドイツ海軍部に衝撃を与え、「マスク」と呼ばれる強力な暗号解読手順を導入。連合軍の暗号解読班を悩ませた。

排水量7747トン、全長123.57m、全幅18.03m、喫7.84m、機関ディーゼルエンジン2基による6気筒、最大速力11.5ノット、出力3500力、乗組員90名。しばらくは非武装であったが、横浜へ寄港した際に日本製の75mm1門、37mm高射機関1門、20mm対機関4門を自衛用に装備。乗客100名分の収容スペースを持つ。

開戦以来一度もドイツに帰していない事もあり、燃料と食糧以外の供給設備を持っていなかったり、オンボロモーターボート1隻しか艦載艇がかったりと補給力に難があった。一方でロー船長以下乗組員の勤務態度は模範的で優しさに満ちていたとの記録が残っている。余談だが、シャルロッテから補給を受けたU-196が225日間という第二次世界大戦中最長の作戦期間を記録した。

船歴

シャルロッテ・シュリーマンの前身は、ノルウェーのタンカーサー・カール・クヌーセン(Sir Karl Knudsen)」。

1924年ノルウェー首都オスロに拠点を置くクラベネス.A.F.社が本の建造を発注デンマークナクコウ所で起工し、1928年9月29日に進、同年12月工・納入された。1937年に同じノルウェー運会社スキップス A/S ゴールデンウェストに売却、そして1939年ハンブルク運会社シュリーマンメンツェルAGが購入。シャルロッテ・シュリーマンに改名した。本シュリーマンメンツェルAG社が保有する一の外洋タンカーであった。第二次世界大戦開戦直前にドイツ海軍が徴用。

ちなみにシャルロッテドイツ語圏で使われる女性名。フランスではシャルロットと呼ばれる。

1939~1941年

1939年8月21日、カリブオランダアルバ石油燃料1万800トンを積載して出港。本へ持ち帰ろうとしていた時、9月1日第二次世界大戦の開戦を告げる、ドイツ軍ポーランド侵攻が発生。ドイツvsイギリスフランスの戦いが始まった。大西洋を支配する強大なイギリス海軍に拿捕されるのを防ぐため、本から最寄りの中立港へ避難するよう緊急通信が入り、9月2日(8月31日とも)にスペインカナリアラスパルマスへ入港。ドイツまでののりを連合軍の勢力圏に閉ざされてしまい実質困難だった。

11月末、ドイツ海軍武官を通じてスペインフランコ政権に、Uボート行動半径を拡大させる事を承認させた。シャルロッテは、現地で一緒に留まっている独タンカーコリエンテス(4565トン)とともにジブラルタルで活動するUボートへの給油任務に就く。シャルロッテには「クレブラ」という秘匿名が与えられた。

マドリードの在スペイン海軍武官クルト・マイヤー・デーナーが補給プロセスを管理。カナリアを訪れるUボートは人を避けて間に寄港、シャルロッテや他タンカーに横付けして燃料補給を受ける間にスペイン当局が陸上倉庫から食糧を供給し、明けまでに出港する。場合によっては航図や救急セットも供給した。間での作業にしていたにも関わらずに見物客が集まる事があったらしい。本来この行為は中立違反で、イギリス側も補給の兆を掴んでいたものの拠不十分で強く言い出せず、またスペイン枢軸の立場だったので闇に紛れて寄港するUボートを見て見ぬふりをするなど様々な便宜を図った。中立の領土という事でシャルロッテイギリス軍に攻撃されず安全地帯から々と任務を遂行出来た。

シャルロッテへの補給や整備はスペイン内で活動するドイツ人組織エッタペンディエンストによって実施され、燃料はドイツスペインが共同出資してカナリア内に作ったセプサ製所から産したものを使用している。

1940年5月9日フランスラスパルマスを撃し、コリエンテスの体中央部に命中弾1発が生じた。6月イタリア枢軸国として参戦してからは潜水艦も補給対に加えられた。

1941年1月20日午前6時30分、航空攻撃により手ひどい損傷を負ったイタリア潜水艦コマンダンテ・カッペリーニラスパルマスへ緊急避難してきた。スペイン当局から一週間の滞在許可が下りると応急修理と負傷者の退艦を開始。1月22日シャルロッテがカッペリーニに燃料73トンを送する。マドリードのイタリア海軍武官は、スペイン海軍を通じてラ・パルマス近イギリス海軍が集結しつつあるとし、出来る限りく出港するよう警告。1月24日午前0時38分、カッペリーニは急いでラスパルマスを出発した。

基本的にUボートへの給油はコリエンテスが対応しており、ラスパルマスに来訪したU-124U-105、U-103、U-123は全てコリエンテスが給油シャルロッテ給油したのはカッペリーニだけだったとされる。これは巨大タンカーであるシャルロッテよりも、貨物船改造したコリエンテスの方が怪しまれないからである。Uボートへの給油任務は、イギリス諜報機関が言い逃れ出来ぬ拠を掴み、正式に抗議してきた1941年7月まで続いた。

11月仮装巡洋艦Uボートの補給を意味するEtappen-V-schiff(Vシッフ)となる。ところがクラーラ(封鎖突破船)パイソンを立て続けに失った事でドイツ海軍水上タンカーによるUボートへの給油を断念。シャルロッテが実際に活動する事はかった。

1942年

イギリスからの抗議を受け、スペイン領内における水上タンカーでの給油困難になったため、ドイツ海軍部は様々な任務を与えてタンカーを領内から出発させていった。

1942年2月20日パリ部を置くBdU(Uボート部)はシャルロッテを南大西洋における補給定。これにより開戦から約2年5ヶ留まり続けたテネリフプルエト・デ・ラ・クルスを2月23日に出港。シャルロッテの出港は極秘であり、数名の員が偽装のために残っていたという。また付近にいたU-68とU-505にはシャルロッテの出港が事前に通告されている。

ライン演習作戦後に行われたイギリス艦隊の補給狩りによって9隻中7隻を喪失。またクラーラ(封鎖突破船)ベンノ(封鎖突破船)パイソン仮装巡洋艦アトランティスを相次いで失い、洋上補給が出来るタンカー一気に減少してしまった。この深刻なタンカー不足を解消するべく、シャルロッテが補給定を受けた訳である。

数隻のUボート給油を行った後、仮装巡洋艦ミヒェルの随伴タンカーとなり、4月16日えた先の南大西洋にてミヒェルと最初の会同を行って燃料補給を施す。実はこの時点でシャルロッテ日本行きの命が下っていたらしく、ミヒェルから士官のデュボルグ中尉、気学者ヴァイ博士線技師兼気学者ヴィルヘルム・オスターフェルトシャルロッテに移乗。南インド洋のケルゲレンに立ち寄って便乗者3名を下ろし、気象通報所を設置する予定だったという。またシャルロッテ民間乗組員の忠心を試すために下士官数名が特別派遣されていた。給油が終わるとミヒェルはノルウェーに偽装して離れていった。

5月8日、追走劇の末に1万トン級タンカーネラウスを取り逃がし燃料不足に陥ったミヒェルに二度の燃料補給。パテラとコネチカットの捕虜員75名を引き取った。いつの間にか日本行きの命は解除されていたようで便乗者3名はミヒェルへと帰還している。メネラウスからの通報を受けたイギリス海軍はミヒェルの捜索に軽巡シュロップシャーと補助巡洋艦チェシャーカントンの3隻を捜索に差し向けたが、ミヒェルともども逃走に成功した。

6月10日、別の仮装巡洋艦であるシュティーアと合流し、撃沈した船舶2隻の捕虜員68名を受け入れる。作業が終わると次の合流地点を定されて別れた。6月21日、南大西洋にてミヒェル及び封鎖突破として日本に向かう特設機雷敷設艦ドッガーバンク(封鎖突破船)と合流。ドッガバンクに今まで引き受けた捕虜177名を移乗させ、ミヒェルに燃料補給を行った。1週間ほど一緒に活動したのち、ドッガバンクはバタビアへ向かうべく出発。ミヒェルとも別れた。

7月17日にシュティーアへ送を行う予定だったが、荒のため洋上補給は困難と判断、日を改めて7月23日に合流して補給を実施。その際に捕虜の交換や、極東への回航の可性があるとして両船長会議を行っている。7月27日、シュティーアと再度合流して13名の捕虜を引き受け、8月17日の会同では南大西洋でシュティーアと演習に従事。これらの任務を英海軍から逃れながら行うというアクロティックな行動をしている。

8月23日、封鎖突破として喜望峰を抜けてインド洋へ向かうミヒェルに最後の燃料補給を実施。8月26日にミヒェルが撃沈したアラミスの捕虜43名(ノルウェー人17名、中国人26名)を収容した。捕虜となったノルウェーく「サー・カール・クヌーセン」の旧名が所々刻まれていたという。8月27日、コブ北方でシュティーアに最後の燃料補給を実施。給油出来る燃料を全て使い果たしたシャルロッテは自身も封鎖突破として極東方面に向かう事となった。

9月1日部より日本に向かうよう示が下り、南大西洋を脱してインド洋方面へ。同時にケープタウンインド洋、スンダ峡の、の往来が少ない航路を選ぶようにと命もされている。このため他のとは全く出会わなかったが、日本とも出会わなかったので「日本側に何かあったのでは」と乗組員を不安にさせたとか。

シャルロッテが収容していた捕虜は300名に上るとされる。彼らは石油タンク前方の倉に監禁されていたが、本来100名の収容スペースしか持っていないにも関わらず3倍の人数を収容したため、ネズミがはびこるほど衛生環境が悪く、食事どが食べられたものではなかったという。ベント・ソーセン一等兵は「ひどい味のソースと、から飛び出そうとするほど生き物がいっぱいなクラッカー」、グロスターキャッスルの捕虜ルーバロンは「シチュー黒パンゾウムシいっぱいのビスケット」と評している。仮装巡洋艦べると不潔と言わざるを得なかった。

南緯40度線の近くまで行くと、内は結露が起きるほど寒くなったが、捕虜の大半はしか持っておらず寒さに震えていた。支給されたマットレス毛布は結露で濡れて役に立たない。そんな捕虜たちを見て同情した員は、毎晩ラム酒1杯を出すようになった。やがて捕虜たちはデッキに上がる事を許され結露で濡れた衣服毛布かす。グロスターキャッスルの捕虜であるアイルランド人コックとウェイターがみんなを励ますために歌を唄い始めると他の捕虜も一斉に唄い始め、それをドイツ員が聴きに来るなど平和な一幕もあった。

中何事もく同盟日本が占領するシンガポールに寄港。南方プロサンボに投錨した。ラスパルマスからずっと働き詰めだったにも関わらず乗組員に上陸許可が下りず、エンパイア・ドーンの捕虜約40名を退させて日本軍に引き渡した。9月29日日本向けのガソリンオランダ軍の抑留から解放されたドイツ員31名を乗せてシンガポールを出港。機雷原を通過するまで第六長運丸と第七長運丸に先導された。

10月20日的地の横浜港へ到着。ここでグロスターキャッスルの捕虜を降ろした後、員にようやく休暇が与えられ、シャルロッテは損傷個所の修理を行うと同時に自衛用の75mm1門(日本製)と37mm機関1門、20mm機関4門を装備。人員面でも補充を受けて員は90名になった。

11月30日13時46分、横浜の新港埠頭に係留されていた封鎖突破ウッカーマルクが突如爆発事故を起こし、ウッカーマルクに横付けして弾薬の積み込み作業をしていた仮装巡洋艦トールを巻き込んで大爆発。同じ埠頭に停泊していた貨物船ロイテンや第三雲丸、付近の倉庫炎上した他、衝撃波で約1000m離れた横浜市でもガラス割れドイツ員62名、日本人5名、中国人員36名が死亡するという大災害に発展(横浜港ドイツ軍艦爆発事件)。シャルロッテは離れた埠頭に停泊していたため難を逃れ、日本消防隊のおかげで延焼も避けられた。

日本寄港中にシャルロッテ員と日本軍人が交流したようで、員が日本軍バッジを持っていた事が戦後判明している。

1943年

1943年3月に出港準備が整ったためフランスへの回航命が下り、シンガポールに進出して椰子を満載。ところがこの頃になると連合軍の暗号解析速度の向上や、アゾレスでの航空基地設営などの要素が重なり、封鎖突破の成功率が著しく低下。これに伴ってシャルロッテの帰は中止。ひとまず満載した椰子神戸に輸送するが、その中に潜水艦から雷撃を受けるという危ない一幕もあった。

去年の末、連合軍の補給港があるモザンビーク峡で通商破壊を行ったところ、敵の油断も手伝って36隻(約23万5000トン)撃沈の大戦果を挙げた。この大戦果を再現するため4月9日から5月23日にかけて航続距離に優れたIXD2Uボート9隻が南アフリカ狩り場に向けて出撃。U-178U-181U-198、U-402からなる最初のグループが、4月末よりケープタウンモザンビーク間での域で通商破壊を開始した。また5月1日から日本海軍27、伊29伊37が順次出撃してアデン湾やマスカットといったインド北方での通商破壊を開始。同士討ちを避けるべく潜水艦への攻撃は厳禁され、狩り場も南北に分けられている。

5月25日神戸を出港して再びシンガポールへ戻った後、インド洋にて活動中のUボートに対する給油任務が与えられ、1週間後にバタビアへと回航されて燃料を搭載。


6月初旬、BdUは十分な魚雷を持つUボート作戦期間を延長させるべくシャルロッテ給油任務を命じ、6月4日シンガポールを出港。補給ポイントのダーバン東方2900km地点に向かった。

6月20日に向かってインド洋を航行中のU-511は、BdUよりシャルロッテによる燃料補給が受けられると言われていたが、フリッツ・シュネーヴィント艦長は補給を選ばなかった。間もなくシャルロッテがダーバン給油作業を始めるため、ケープタウンで活動中のUボートにはしばらく給油が出来なくなるとの通達が部より出されている。

6月22日午前4時、ダーバン南東の合流地点にU-181が姿を現した。既にU-178U-196シャルロッテに横付けして補給を受けておりU-197とU-198が新たにシャルロッテへ接近する。荒れたで複雑な作業工程をこなすには時間を要し、またシャルロッテが保有するモーターボートは気条件の問題で使用出来ず、各々が有するゴムボートを使って細々と食糧を運び込むしかなかった。それでも何とか60日分の食糧を補給する事には成功。しかし、野菜は傷みやすく燃料よりも尽きるという事でシャルロッテ側が気を利かせてより多くの食糧を分けてくれたものの、それでもを満たす量にはならない。様々な問題を抱えつつも敵に見つかる事く一先ず補給は了した。

補給の間、U-181の乗組員はシャルロッテに移乗してシャワーを浴びる極上の贅沢を味わった。

U-196シャルロッテの信号員の少なさ、燃料と食糧以外の供給設備を持っていない不便さ、モーターボートが1隻しかないため食糧輸送に遅れが生じたと問題点を挙げた一方、ミーティング自体はスムーズに進み、シャルロッテロー船長や乗組員の対応は模範的で優しさに満ちたものだったと評価している。補給後、Uボートは北西方向に向かっていった。これがインド洋で初めて行われた水上タンカーによる給油作業だった。

インド洋でスラバヤから出港してきたドイツが航行中」との報告を受けたイギリス海軍東洋艦隊のジェームズ・サマビ提督シャルロッテを撃沈すべく、6月24日プレイヤー作戦(Operation player)を実行。まずダーバン行きのWS-29団から分離した駆逐艦レースホース、ニザムが南緯31度/東経45度にいるとされるシャルロッテの捜索を開始。からはPBYカタリナ飛行艇数機が監視のらせる。後に重巡サフォーク駆逐艦レントリスが合流し、Uボートに補給をした疑いのあるマダガスカル南方アフリカ沿域を捜索。給油ブリティッシュアンバサダーが支援艦艇として配備された。

イギリス艦隊が捜索を続けている6月25日モザンビーク峡で通商破壊中のU-181と合流し、戦死した手マトローゼンフライト・ヴィルヘルム・ウィリガーに代わってマトローズ・ハインリヒ・ミュラーシャルロッテから派遣される。翌26日、U-198よりホープターンの捕虜を収容。6月30日U-511行動自由BdUから認められ、インド洋で通商破壊を開始。しかしシャルロッテがいる特定域では攻撃が厳禁された。

底した大捜索は6月30日まで行われたが、シャルロッテは巧みに監視網をすり抜け、捜索のための全ての努力を空振りに終わらせた。焦燥した東洋艦隊はキリンディニから軽巡ニューカッスルを増援に送り込むも、7月1日イギリス海軍上層部はプレイヤー作戦の中止を決定。ニューカッスルレースホースキリンディニへ、既に脱落したニザムを除いてサフォークとリレントリスモーリシャスへ帰投。失敗した原因はひとえに暗号解析に時間を要した事であった。

7月15日シャルロッテは一旦バタビアへ帰投。U-198より預かったホープターン、ドゥムラウィリアムキングの捕虜を降ろした後、再度出撃する。

7月21日から26日までモーリシャス南方700里でU-177U-178U-181U-196U-197、U-198に200トンの燃料と食糧を補給。Uボートが補給を受けている間、別のUボートが敵水上艦や哨戒機に対する警任務を引き受けて域を遊していた。対潜警が厳しい大西洋ではタンカーによる給油など望むべくもないが、インド洋では連合軍の対潜対策と技術が遅れており、まだタンカーによる補給が可だった。

シャルロッテ支援によりUボート6月中だけで10隻撃沈7月中には17隻(9万7214トン)撃沈という大戦果を叩き出し、同時期に作戦を行っていた潜水艦8隻の戦果と合わせると、大西洋に配備中の全Uボートが挙げた戦果を僅かながら上回った。落ち大西洋方面とは裏希望を見出せる成果を得てデーニッツ元帥満足気に喜んだ。彼女支援によりペナンに向かうUボートインド洋で活動するUボートは大いに助けられたと言える。

シャルロッテが停泊しているペナンU-178が入港。上陸した乗組員たちが先着のドイツ技術者に歓迎を受けているのを員が撃している。熱帯での活動を想定していないU-178空調設備すら持っておらず、換気システムもろくに発動しないため、艦内の気温の方が外より数度高い有り様だった。員はその様子を見て「艦内の環境は酷いものだった」と言した。

補給任務を終わらせるとバタビアとシンガポールを経由し、8月28日神戸へ帰投。12月上旬頃まで現地で留まる。12月24日シンガポールに入港してUボート向けの補給物資を積載、そのままバタビアへと回航される。

1944年

1944年1月に封鎖突破に対する正式な中止命が下った事でシャルロッテの帰全に断たれてしまった。

1月12日シャルロッテシンガポールを出港。潜水艦が遊しているマラッカ峡を避けてスンダ峡からインド洋に進出する。しかしシャルロッテ行動暗号解析でイギリス海軍に読まれ、護衛空母バトラー軽巡ニューカッスルケニア、補助巡洋艦カントン、駆逐艦ネパール、フリケード艦バンで第62部隊を編制。スワート作戦(Operation Thwart)を発動し、1月19日から21日にかけて、シャルロッテがいるとされるモーリシャス南東に大規模な捜索網を敷く。

ところがシャルロッテを発見出来なかったため再編制を行って第64部隊(バトラーケニアネパール)に改名。1月23日から30日まで捜索を続行したものの、悪に阻まれて有益な手掛かりすら掴めなかった。

1月27日モーリシャス西南西550里の合流地点で、ヨーロッパから新たにモンスーン戦隊派遣されたU-510東南アジア産資を満載して帰の途に就くU-178と会同。シャルロッテが2隻に400トンの燃料、90日分の食糧、、潤滑を補給している間、U-178はU-510から新たなエニグマ暗号表を受け取り、同時にU-178から重度の疾患を患った乗組員をシャルロッテに移送している。1月30日U-178は予定通りシャルロッテによる補給を受けたと報告。他のUボートにも補給出来るようU-178には大量の物資が供給されていた。

1月が終わるまでに、アデン湾とモルディブ北方で活動していた4隻のUボートが単独航行中の8隻(5万6213トン)を撃沈。このうち2隻はシャルロッテから補給を受けていた。またインド洋の連合は港湾施設の不十分さからスケジュールに深刻な遅延が発生。少しでも遅れを取り戻すためサマビ提督が防御措置の一部を緩和したところ、その隙をUボートに突かれて被害を出したのである。

2月7日の捜索が失敗した事でイギリス海軍はスワート作戦を断念。だが、すぐに第62部隊を第64部隊に改名・再編制し、新たにキャンド作戦(Operation canned)を開始。2月8日午前2時モーリシャスからニューカッスルとリレントリスを出撃させ、今度はマダガスカル東方及び東南東を捜索する。敵は捜索エリアをA、B、Cの三つに分け、リレントリスはAを、ニューカッスルはCを、シャルロッテがいる確率が最も低いBは航空機カバーし、AとCにも航空支援を用意。計10機のカタリナが投入された。

狙われているとは知らずにシャルロッテモーリシャス東方900里で帰するU-532への給油を予定していた。ところが、モーリシャス北北西からゆっくりと南東へ移動する中程度のハリケーンがあり、U-532との合流が遅れる。このハリケーンイギリス艦隊の索敵も乱したようで一時的にからの捜索を中止している。2月11日午前9時頃、やっとの思いでU-532と合流。ロー船長とハインリヒ・ユンカー艦長が打ち合わせを行い、敵哨戒機に発見されるのを防ぐためインド洋中央部に補給ポイントを変更する事、仮に敵機が出現した時は潜せずに対射撃で応戦するなどの取り決めを行った。

最期

1944年2月11日午前11時15分、モーリシャス東方U-532に補給中のシャルロッテを、索敵中のカタリナ飛行艇が発見。U-532事前の取り決めを破って潜航退避してしまう。カタリナが呼出符合をめてきたためシャルロッテは偽の呼出符合で応答したが、カタリナは騙されず、90分間に渡って上を旋回し続ける。やむなくの帳が下りるのを待ちながら全速力で東への逃走を図った。午後12時10分、カタリナより「不審発見」との報告を受けた軽巡ニューカッスル駆逐艦レントリスが現場域に急行

19時25分、2隻のレーダーが反応し、その僅か3分後に明かりによってく照らされたシャルロッテが姿を現した。最大速力11ノット程度では正規の軍艦からは決して逃げられない。リレントリス正面から突撃を開始、ニューカッスルシャルロッテが逃走を図った時に退路を潰せるように回り込む。

決死の回避運動艦砲での応戦も実を結ばず、20時15分にリレントリスから8本の魚雷が放たれ、そのうち2~3本が体中央部に命中。更にニューカッスルから弾を浴びせられて致命傷を受けた。助かるいと悟った員が自沈用の爆薬80kgに点火し、20時40分に自沈。シャルロッテは最期の意地を見せてインド洋に沈んだ。

翌12日午前2時30分、沈没地点から100里離れた場所でリレントリスは敵沈没を報告。二度に渡って取り逃がしたシャルロッテを今度こそ仕留めた形となった。一方、U-532間に浮上してシャルロッテを捜索するも、発見出来なかった。

ナンモンスーン戦隊部はシャルロッテからの連絡が途絶した事で消息不明と判断、のちに連合軍の放送で員が捕虜になったと知って喪失判定を出している。

生存者の漂流

急速な沈没だったにも関わらず員のどが6隻の救命艇に乗って脱出に成功。このうち2隻の救命艇に乗っていた生存者40名はリレントリスに救助されたが、真夜中だったため他4隻に乗った40~50名は漂流を強いられ、その地獄の体験談をシャルロッテ線通信士アルフレッド・モーアが後世に伝え残している。

2月12日午前5時50分頃、10人が乗った救命艇に揺られていたアルフレッドを覚ますとシャルロッテのものと思われる残骸が周辺に浮いていた。ありがたい事にロッカーの一つから食糧と飲みが少しばかり発見され、ワインのボトルも見つかったため、毎日配給こそ少ないものの即座に飢える心配はかった。さっそく祝杯代わりにワインを開けて飲んだ。モーリシャスかレユニオンに辿り着く事を願って北北西に向かう。

コンパスを、を頼りにオールを漕ぐ。アルフレッドが乗っている救命艇には小さなが開いていて浸し続けており、パン生地を詰めて塞いでもが入ってくるので、オールを漕げない怪人がをかき出していた。他の生存者たちはを皿にして通りがかるを探している。になると波が強くなり、高波をかぶった生存者たちは寒さのあまり凍えるが、が明けると今度は灼熱の太陽が照り付けて体内の分を奪い去っていく。次第に彼らは食欲を失っていった。一方喉の渇きは強くなるばかりで、生存者同士の会話はと食糧の話題で占められた。

衰弱したアルフレッドに死の恐怖幻覚が襲う。中にはこれ以上生きていけないとし、救命艇から飛び降りようと考える者も出始めた。確かにこの苦しみより解放されるのであれば魅力的な選択肢となりうるがの冷たいアルフレッドを正気に戻した。たまにトビウオが救命艇の中に飛び込んできて、それを捕まえた者が生でさばいて食べる。味は意外と悪くないらしい。また時々が降って救命艇の飲料を満たしてくれた。彼らを苦しめるのが自然ならば、飢えや渇きを癒してくれるのも自然だった。

2月24日、ついに物資が尽きた。生存者は生きる希望を根こそぎ奪われ、2~3日漂流を続けても陸地の発見や救助がかった場合、航行を諦めて終わりを待つ事が提案され、全員がその意見に賛同した。

2月26日午後、手足の痛みと砕けんばかりの頭痛に耐えていたアルフレッドは、突然かが「陸地が見える」と叫んだのを聞いた。最初は呻くようなで皆が「黙れ」と言い、全員が信じていなかった。しかし別の者が同じく「陸地を見た」と言った事で注が集まる。やがて近づいてくる海岸線、木々、山々――救命艇は確かに陸地へ近づいていた。そこへイギリスアフリカプリンスが現れる。アフリカプリンス生存者たちにへ移乗するよう勧め、舷側に縄梯子を垂らす。

希望の火がった事で考える余裕が出てきた。アルフレッドたちはこの陸地を中立ポルトガル領東アフリカだと考えており、イギリスの捕虜になるくらいなら上陸した方がマシと思った。しかし波に阻まれてまで辿り着ける見込みがいと分かると素直に救助される。ちなみに陸地は東アフリカではなくマダガスカルマナジャリで、波の高さからもし強引に泳いで上陸を試みていたら、全員溺死していたかもしれないとアルフレッドは述懐している。

シャルロッテ生存者を救助したアフリカプリンス船長は「私のに乗っている限り、捕虜ではなく難破員として扱われる」と厚遇を約束。14日間の生活全に体調が回復した。3月1日には12名を乗せた救命艇が同じくマダガスカルに漂着(うち1名は過労で死亡した)。彼らは全員ケニアの捕虜収容所に送られ、リレントリスに救助されていた員とも再会する事が出来た。

一方で残りの2隻に乗っていた約20名は消息不明となった。

影響

シャルロッテ・シュリーマンとブラーケの喪失はモンスーン戦隊にとって痛恨事だった。作戦必要不可欠な2隻を失った事で燃料補給計画が全に混乱し、以降はUボート同士での給油流となって期間が大きく短縮してしまう。そして補給力に劣る小ボゴダ、キトが戦隊のか細い補給線となる。

1944年2月8日にペナンを出発したUIT-24(元コマンダンテ・カッペリーニ)は、喜望峰を回る前にシャルロッテから給油を受ける手はずとなっていた。だが、2月26日まで補給ポイントで待機していてもシャルロッテは現れず、出し続けていた補給要請を別のUボートが中継して部に送ったところ、返って来たのは「既に沈没した」という不吉な返答だった。やむなくもう1隻の補給ブラーケ給油要請するが、そのブラーケUIT-24のもとへ向かっている途上の3月12日沈没。その後、部から喜望峰南方で帰中のU-532に燃料補給するよう命じられ、3月18日に合流してタンクに残った僅かなディーゼル燃料を使ってU-532に送。補給が終わるとUIT-24はペナン反転帰投した。

3月14日ドイツ海軍部はエニグマ暗号が安全ではないと悟り、乗組員の名前暗号に盛り込む「マスク」と呼ばれる強力な暗号手順を導入。3月16日にはインド洋のUボートにも導入された。これにより連合軍の暗号解析に悪が生じ、敵は更なる強化を未然に防ぐため解析結果に基づいた行動を取らないようになった。

余談

1953年から1980年にかけてミュンヘン拠点に発行された西ドイツ雑誌SOS - ドイツ運命」の第68回にて、シャルロッテ・シュリーマンが取り上げられている。現存する写真を基に海洋ウォルターシーデンが描いたシャルロッテ尾が表を飾る。

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