シャルロッテ・シュリーマン(Charlotte Schliemann)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した封鎖突破船兼補給船である。主に東南アジア方面で活動し、モンスーン戦隊の補給船としてインド洋方面におけるUボートの活動を支えた。1944年2月11日、インド洋にて英軽巡洋艦ニューカッスルと駆逐艦リレントリスの砲撃を受けて沈没。
カリブ海からドイツ本国へ燃料を持ち帰っている道中で第二次世界大戦の開戦を迎え、スペイン領カナリア諸島に緊急避難。以降は密かに同島へ来訪するUボートへの給油任務に就く。1942年2月にタンカーの減少で補給船に指定されると仮装巡洋艦ミヒェル、シュティーア、ドッガーバンク(封鎖突破船)の随伴タンカーを務め、半年後に封鎖突破船として極東の同盟国日本へ移動。横浜で停泊中に横浜港ドイツ軍艦爆発事件に遭遇した。
1943年6月からはインド洋で通商破壊を行うモンスーン戦隊の給油支援船となり、ブラーケとともに作戦期間の延長と戦果の向上に一役買うなど八面六臂の活躍を見せる。しかし、シャルロッテの存在を疎ましく思ったイギリス海軍から三度に渡る大捜索を受け、1944年2月11日にインド洋にて撃沈された。シャルロッテとブラーケの喪失はドイツ海軍司令部に衝撃を与え、「マスク」と呼ばれる強力な暗号解読手順を導入。連合軍の暗号解読班を悩ませた。
要目は排水量7747トン、全長123.57m、全幅18.03m、喫水7.84m、機関はディーゼルエンジン2基による6気筒、最大速力11.5ノット、出力3500馬力、乗組員90名。しばらくは非武装であったが、横浜へ寄港した際に日本製の75mm砲1門、37mm高射機関砲1門、20mm対空機関砲4門を自衛用に装備。乗客100名分の収容スペースを持つ。
開戦以来一度もドイツに帰国していない事もあり、燃料と食糧以外の供給設備を持っていなかったり、オンボロのモーターボート1隻しか艦載艇が無かったりと補給能力に難があった。一方でローテ船長以下乗組員の勤務態度は模範的で優しさに満ちていたとの記録が残っている。余談だが、シャルロッテから補給を受けたU-196が225日間という第二次世界大戦中最長の作戦期間を記録した。
シャルロッテ・シュリーマンの前身は、ノルウェーのタンカー「サー・カール・クヌーセン(Sir Karl Knudsen)」。
1924年にノルウェーの首都オスロに拠点を置くクラベネス.A.F.社が本船の建造を発注。デンマークのナクスコウ造船所で起工し、1928年9月29日に進水、同年12月に竣工・納入された。1937年に同じノルウェーの海運会社スキップス A/S ゴールデンウェストに売却、そして1939年にハンブルクの海運会社シュリーマン&メンツェルAGが購入。シャルロッテ・シュリーマンに改名した。本船はシュリーマン&メンツェルAG社が保有する唯一の外洋タンカーであった。第二次世界大戦開戦直前にドイツ海軍が徴用。
ちなみにシャルロッテはドイツ語圏で使われる女性名。フランスではシャルロットと呼ばれる。
1939年8月21日、カリブ海のオランダ領アルバ島で石油燃料1万800トンを積載して出港。本国へ持ち帰ろうとしていた時、9月1日に第二次世界大戦の開戦を告げる、ドイツ軍のポーランド侵攻が発生。ドイツvsイギリス・フランスの戦いが始まった。大西洋を支配する強大なイギリス海軍に拿捕されるのを防ぐため、本国から最寄りの中立港へ避難するよう緊急通信が入り、9月2日(8月31日とも)にスペイン領カナリア諸島ラス・パルマスへ入港。ドイツまでの道のりを連合軍の勢力圏に閉ざされてしまい実質帰国は困難だった。
11月末、ドイツは海軍武官を通じてスペインのフランコ政権に、Uボートの行動半径を拡大させる事を承認させた。シャルロッテは、現地で一緒に留まっている独タンカーコリエンテス(4565トン)とともにジブラルタル沖で活動するUボートへの給油任務に就く。シャルロッテには「クレブラ」という秘匿名が与えられた。
マドリードの在スペイン海軍武官クルト・マイヤー・デーナーが補給プロセスを管理。カナリア諸島を訪れるUボートは人目を避けて夜間に寄港、シャルロッテや他タンカーに横付けして燃料補給を受ける間にスペイン当局が陸上の倉庫から食糧を供給し、夜明けまでに出港する。場合によっては航海図や救急セットも供給した。夜間での作業に徹していたにも関わらず陸岸に見物客が集まる事があったらしい。本来この行為は中立違反で、イギリス側も補給の兆候を掴んでいたものの証拠不十分で強く言い出せず、またスペインは親枢軸の立場だったので闇夜に紛れて寄港するUボートを見て見ぬふりをするなど様々な便宜を図った。中立国の領土という事でシャルロッテはイギリス軍に攻撃されず安全地帯から悠々と任務を遂行出来た。
シャルロッテへの補給や整備はスペイン国内で活動するドイツ人組織エッタペンディエンストによって実施され、燃料はドイツとスペインが共同出資してカナリア諸島内に作ったセプサ製油所から産油したものを使用している。
1940年5月9日、フランス船がラス・パルマスを砲撃し、コリエンテスの船体中央部に命中弾1発が生じた。6月にイタリアが枢軸国として参戦してからは伊潜水艦も補給対象に加えられた。
1941年1月20日午前6時30分、航空攻撃により手ひどい損傷を負ったイタリア潜水艦コマンダンテ・カッペリーニがラス・パルマスへ緊急避難してきた。スペイン当局から一週間の滞在許可が下りると応急修理と負傷者の退艦を開始。1月22日にシャルロッテがカッペリーニに燃料73トンを送油する。マドリードのイタリア海軍武官は、スペイン海軍を通じてラ・パルマス近海にイギリス海軍が集結しつつあるとし、出来る限り早く出港するよう警告。1月24日午前0時38分、カッペリーニは急いでラス・パルマスを出発した。
基本的にUボートへの給油はコリエンテスが対応しており、ラス・パルマスに来訪したU-124、U-105、U-103、U-123は全てコリエンテスが給油。シャルロッテが給油したのはカッペリーニだけだったとされる。これは巨大タンカーであるシャルロッテよりも、貨物船を改造したコリエンテスの方が怪しまれないからである。Uボートへの給油任務は、イギリスの諜報機関が言い逃れ出来ぬ証拠を掴み、正式に抗議してきた1941年7月まで続いた。
11月、仮装巡洋艦とUボートの補給船を意味するEtappen-V-schiff(Vシッフ)となる。ところがクラーラ(封鎖突破船)とパイソンを立て続けに失った事でドイツ海軍は水上タンカーによるUボートへの給油を断念。シャルロッテが実際に活動する事は無かった。
イギリスからの抗議を受け、スペイン領内における水上タンカーでの給油が困難になったため、ドイツ海軍司令部は様々な任務を与えてタンカーを領内から出発させていった。
1942年2月20日、パリに司令部を置くBdU(Uボート司令部)はシャルロッテを南大西洋における補給船に指定。これにより開戦から約2年5ヶ月留まり続けたテネリフェ島プルエト・デ・ラ・クルスを2月23日に出港。シャルロッテの出港は極秘であり、数名の船員が偽装のため岸に残っていたという。また付近にいたU-68とU-505にはシャルロッテの出港が事前に通告されている。
ライン演習作戦後に行われたイギリス艦隊の補給船狩りによって9隻中7隻を喪失。またクラーラ(封鎖突破船)、ベンノ(封鎖突破船)、パイソン、仮装巡洋艦アトランティスを相次いで失い、洋上補給が出来るタンカーが一気に減少してしまった。この深刻なタンカー不足を解消するべく、シャルロッテが補給船の指定を受けた訳である。
数隻のUボートに給油を行った後、仮装巡洋艦ミヒェルの随伴タンカーとなり、4月16日、赤道を超えた先の南大西洋にてミヒェルと最初の会同を行って燃料補給を施す。実はこの時点でシャルロッテに日本行きの命令が下っていたらしく、ミヒェルから士官のデュボルグ中尉、気象学者のヴァイゼ博士、無線技師兼気象学者のヴィルヘルム・オスターフェルトがシャルロッテに移乗。南インド洋のケルゲレン諸島に立ち寄って便乗者3名を下ろし、気象通報所を設置する予定だったという。またシャルロッテの民間乗組員の忠誠心を試すために下士官数名が特別派遣されていた。給油が終わるとミヒェルはノルウェー船に偽装して離れていった。
5月8日、追走劇の末に英1万トン級タンカーメネラウスを取り逃がし燃料不足に陥ったミヒェルに二度目の燃料補給。パテラとコネチカットの捕虜船員75名を引き取った。いつの間にか日本行きの命令は解除されていたようで便乗者3名はミヒェルへと帰還している。メネラウスからの通報を受けたイギリス海軍はミヒェルの捜索に軽巡シュロップシャーと補助巡洋艦チェシャー、カントンの3隻を捜索に差し向けたが、ミヒェルともども逃走に成功した。
6月10日、別の仮装巡洋艦であるシュティーアと合流し、撃沈した船舶2隻の捕虜船員68名を受け入れる。作業が終わると次の合流地点を指定されて別れた。6月21日、南大西洋にてミヒェル及び封鎖突破船として日本に向かう特設機雷敷設艦ドッガーバンク(封鎖突破船)と合流。ドッガーバンクに今まで引き受けた捕虜177名を移乗させ、ミヒェルに燃料補給を行った。1週間ほど一緒に活動したのち、ドッガーバンクはバタビアへ向かうべく出発。ミヒェルとも別れた。
7月17日にシュティーアへ送油を行う予定だったが、荒天のため洋上補給は困難と判断、日を改めて7月23日に合流して補給を実施。その際に捕虜の交換や、極東への回航の可能性があるとして両船長が会議を行っている。7月27日、シュティーアと再度合流して13名の捕虜を引き受け、8月17日の会同では南大西洋でシュティーアと夜間砲撃演習に従事。これらの任務を米英海軍の目から逃れながら行うというアクロバティックな行動をしている。
8月23日、封鎖突破船として喜望峰を抜けてインド洋へ向かうミヒェルに最後の燃料補給を実施。8月26日にミヒェルが撃沈したアラミスの捕虜43名(ノルウェー人17名、中国人26名)を収容した。捕虜となったノルウェー人曰く「サー・カール・クヌーセン」の旧名が所々刻まれていたという。8月27日、コブ島北方でシュティーアに最後の燃料補給を実施。給油出来る燃料を全て使い果たしたシャルロッテは自身も封鎖突破船として極東方面に向かう事となった。
9月1日、司令部より日本に向かうよう指示が下り、南大西洋を脱してインド洋方面へ。同時にケープタウン沖、インド洋、スンダ海峡の、船の往来が少ない航路を選ぶようにと命令もされている。このため他の船とは全く出会わなかったが、日本の船とも出会わなかったので「日本側に何かあったのでは」と乗組員を不安にさせたとか。
シャルロッテが収容していた捕虜は300名に上るとされる。彼らは石油タンク前方の船倉に監禁されていたが、本来100名の収容スペースしか持っていないにも関わらず3倍の人数を収容したため、ネズミがはびこるほど衛生環境が悪く、食事も殆どが食べられたものではなかったという。ベント・ソーセン一等兵は「ひどい味のソースと、缶から飛び出そうとするほど生き物がいっぱいなクラッカー」、グロスターキャッスルの捕虜ルー・バロンは「シチューと黒パン、ゾウムシいっぱいのビスケット」と評している。仮装巡洋艦と比べると不潔と言わざるを得なかった。
南緯40度線の近くまで行くと、船内は結露が起きるほど寒くなったが、捕虜の大半は夏服しか持っておらず寒さに震えていた。支給されたマットレスや毛布は結露で濡れて役に立たない。そんな捕虜たちを見て同情した船員は、毎晩ラム酒1杯を出すようになった。やがて捕虜たちはデッキに上がる事を許され結露で濡れた衣服や毛布を乾かす。グロスターキャッスルの捕虜であるアイルランド人コックとウェイターがみんなを励ますために歌を唄い始めると他の捕虜も一斉に唄い始め、それをドイツ人船員が聴きに来るなど平和な一幕もあった。
道中何事も無く同盟国日本が占領するシンガポールに寄港。南方のプロ・サンボに投錨した。ラス・パルマスからずっと働き詰めだったにも関わらず乗組員に上陸許可が下りず、英商船エンパイア・ドーンの捕虜約40名を退船させて日本軍に引き渡した。9月29日、日本向けのガソリンとオランダ軍の抑留から解放されたドイツ人船員31名を乗せてシンガポールを出港。機雷原を通過するまで第六長運丸と第七長運丸に先導された。
10月20日に目的地の横浜港へ到着。ここで英商船グロスターキャッスルの捕虜を降ろした後、船員にようやく休暇が与えられ、シャルロッテは損傷個所の修理を行うと同時に自衛用の75mm砲1門(日本製)と37mm機関砲1門、20mm機関砲4門を装備。人員面でも補充を受けて船員は90名になった。
11月30日13時46分、横浜の新港埠頭に係留されていた封鎖突破船ウッカーマルクが突如爆発事故を起こし、ウッカーマルクに横付けして弾薬の積み込み作業をしていた仮装巡洋艦トールを巻き込んで大爆発。同じ埠頭に停泊していた貨物船ロイテンや第三雲海丸、付近の倉庫が炎上した他、衝撃波で約1000m離れた横浜市でも窓ガラスが割れ、ドイツ人船員62名、日本人5名、中国人船員36名が死亡するという大災害に発展(横浜港ドイツ軍艦爆発事件)。シャルロッテは離れた埠頭に停泊していたため難を逃れ、日本の消防隊のおかげで延焼も避けられた。
日本寄港中にシャルロッテの船員と日本軍人が交流したようで、船員が日本軍のバッジを持っていた事が戦後判明している。
1943年3月に出港準備が整ったためフランスへの回航命令が下り、シンガポールに進出して椰子油を満載。ところがこの頃になると連合軍の暗号解析速度の向上や、アゾレス諸島での航空基地設営などの要素が重なり、封鎖突破船の成功率が著しく低下。これに伴ってシャルロッテの帰国は中止。ひとまず満載した椰子油を神戸に輸送するが、その道中に米潜水艦から雷撃を受けるという危ない一幕もあった。
去年の末、連合軍の補給港があるモザンビーク海峡で通商破壊を行ったところ、敵の油断も手伝って36隻(約23万5000トン)撃沈の大戦果を挙げた。この大戦果を再現するため4月9日から5月23日にかけて航続距離に優れたIXD2型Uボート9隻が南アフリカ沖の狩り場に向けて出撃。U-178、U-181、U-198、U-402からなる最初のグループが、4月末よりケープタウン・モザンビーク間での海域で通商破壊を開始した。また5月1日から日本海軍の伊27、伊29、伊37が順次出撃してアデン湾やマスカット沖といったインド洋北方での通商破壊を開始。同士討ちを避けるべく潜水艦への攻撃は厳禁され、狩り場も南北に分けられている。
5月25日に神戸を出港して再びシンガポールへ戻った後、インド洋にて活動中のUボートに対する給油任務が与えられ、1週間後にバタビアへと回航されて燃料を搭載。
6月初旬、BdUは十分な魚雷を持つUボートの作戦期間を延長させるべくシャルロッテに給油任務を命じ、6月4日にシンガポールを出港。補給ポイントのダーバン東方約2900km地点に向かった。
6月20日、呉に向かってインド洋を航行中のU-511は、BdUよりシャルロッテによる燃料補給が受けられると言われていたが、フリッツ・シュネーヴィント艦長は補給を選ばなかった。間もなくシャルロッテがダーバン沖で給油作業を始めるため、ケープタウン沖で活動中のUボートにはしばらく給油が出来なくなるとの通達が司令部より出されている。
6月22日午前4時、ダーバン南東の合流地点にU-181が姿を現した。既にU-178とU-196がシャルロッテに横付けして補給を受けておりU-197とU-198が新たにシャルロッテへ接近する。荒れた海で複雑な作業工程をこなすには時間を要し、またシャルロッテが保有するモーターボートは気象条件の問題で使用出来ず、各々が有するゴムボートを使って細々と食糧を運び込むしかなかった。それでも何とか60日分の食糧を補給する事には成功。しかし、肉や野菜は傷みやすく燃料よりも早く尽きるという事でシャルロッテ側が気を利かせてより多くの食糧を分けてくれたものの、それでも海の狼を満たす量にはならない。様々な問題を抱えつつも敵に見つかる事無く一先ず補給は完了した。
補給の間、U-181の乗組員はシャルロッテに移乗してシャワーを浴びる極上の贅沢を味わった。
U-196はシャルロッテの信号員の少なさ、燃料と食糧以外の供給設備を持っていない不便さ、モーターボートが1隻しかないため食糧輸送に遅れが生じたと問題点を挙げた一方、ミーティング自体はスムーズに進み、シャルロッテのローテ船長や乗組員の対応は模範的で優しさに満ちたものだったと評価している。補給後、Uボートは北西方向に向かっていった。これがインド洋で初めて行われた水上タンカーによる給油作業だった。
「インド洋でスラバヤから出港してきたドイツ船が航行中」との報告を受けたイギリス海軍東洋艦隊のジェームズ・サマビル提督はシャルロッテを撃沈すべく、6月24日、プレイヤー作戦(Operation player)を実行。まずダーバン行きのWS-29船団から分離した駆逐艦レースホース、ニザムが南緯31度/東経45度にいるとされるシャルロッテの捜索を開始。空からはPBYカタリナ飛行艇数機が監視の目を光らせる。後に重巡サフォークと駆逐艦リレントリスが合流し、Uボートに補給をした疑いのあるマダガスカル南方やアフリカ沿岸海域を捜索。給油艦ブリティッシュ・アンバサダーが支援艦艇として配備された。
イギリス艦隊が捜索を続けている6月25日、モザンビーク海峡で通商破壊中のU-181と合流し、戦死した砲手マトローゼンフライト・ヴィルヘルム・ウィリガーに代わってマトローズ・ハインリヒ・ミュラーがシャルロッテから派遣される。翌26日、U-198よりホープターンの捕虜を収容。6月30日、U-511は行動の自由をBdUから認められ、インド洋で通商破壊を開始。しかしシャルロッテがいる特定海域では攻撃が厳禁された。
徹底した大捜索は6月30日まで行われたが、シャルロッテは巧みに監視網をすり抜け、捜索のための全ての努力を空振りに終わらせた。焦燥した英東洋艦隊はキリンディニから軽巡ニューカッスルを増援に送り込むも、7月1日夜にイギリス海軍上層部はプレイヤー作戦の中止を決定。ニューカッスルとレースホースはキリンディニへ、既に脱落したニザムを除いてサフォークとリレントリスはモーリシャスへ帰投。失敗した原因はひとえに暗号解析に時間を要した事であった。
7月15日にシャルロッテは一旦バタビアへ帰投。U-198より預かった英商船ホープターン、ドゥムラ、ウィリアムキングの捕虜を降ろした後、再度出撃する。
7月21日から26日までモーリシャス南方700海里でU-177、U-178、U-181、U-196、U-197、U-198に200トンの燃料と食糧を補給。Uボートが補給を受けている間、別のUボートが敵水上艦や哨戒機に対する警戒任務を引き受けて海域を遊弋していた。対潜警戒が厳しい大西洋ではタンカーによる給油など望むべくもないが、インド洋では連合軍の対潜対策と技術が遅れており、まだタンカーによる補給が可能だった。
シャルロッテの支援によりUボートは6月中だけで10隻撃沈、7月中には17隻(9万7214トン)撃沈という大戦果を叩き出し、同時期に作戦を行っていた伊号潜水艦8隻の戦果と合わせると、大西洋に配備中の全Uボートが挙げた戦果を僅かながら上回った。落ち目の大西洋方面とは裏腹に希望を見出せる成果を得てデーニッツ元帥は満足気に喜んだ。彼女の支援によりペナンに向かうUボートやインド洋で活動するUボートは大いに助けられたと言える。
シャルロッテが停泊しているペナンにU-178が入港。上陸した乗組員たちが先着のドイツ人技術者に歓迎を受けているのを船員が目撃している。熱帯での活動を想定していないU-178は空調設備すら持っておらず、換気システムもろくに発動しないため、艦内の気温の方が外より数度高い有り様だった。船員はその様子を見て「艦内の環境は酷いものだった」と証言した。
補給任務を終わらせるとバタビアとシンガポールを経由し、8月28日に神戸へ帰投。12月上旬頃まで現地で留まる。12月24日、シンガポールに入港してUボート向けの補給物資を積載、そのままバタビアへと回航される。
1944年1月に封鎖突破船に対する正式な中止命令が下った事でシャルロッテの帰国の道は完全に断たれてしまった。
1月12日、シャルロッテはシンガポールを出港。英潜水艦が遊弋しているマラッカ海峡を避けてスンダ海峡からインド洋に進出する。しかしシャルロッテの行動は暗号解析でイギリス海軍に読まれ、護衛空母バトラー、軽巡ニューカッスル、ケニア、補助巡洋艦カントン、駆逐艦ネパール、フリケード艦バンで第62部隊を編制。スワート作戦(Operation Thwart)を発動し、1月19日から21日にかけて、シャルロッテがいるとされるモーリシャス南東に大規模な捜索網を敷く。
ところがシャルロッテを発見出来なかったため再編制を行って第64部隊(バトラー、ケニア、ネパール)に改名。1月23日から30日まで捜索を続行したものの、悪天候に阻まれて有益な手掛かりすら掴めなかった。
1月27日、モーリシャス西南西550海里の合流地点で、ヨーロッパから新たにモンスーン戦隊へ派遣されたU-510、東南アジア産資源を満載して帰国の途に就くU-178と会同。シャルロッテが2隻に400トンの燃料、90日分の食糧、真水、潤滑油を補給している間、U-178はU-510から新たなエニグマ暗号表を受け取り、同時にU-178から重度の胃疾患を患った乗組員をシャルロッテに移送している。1月30日、U-178は予定通りシャルロッテによる補給を受けたと報告。他のUボートにも補給出来るようU-178には大量の物資が供給されていた。
1月が終わるまでに、アデン湾とモルディブ諸島北方沖で活動していた4隻のUボートが単独航行中の英商船8隻(5万6213トン)を撃沈。このうち2隻はシャルロッテから補給を受けていた。またインド洋の連合国商船は港湾施設の不十分さからスケジュールに深刻な遅延が発生。少しでも遅れを取り戻すためサマビル提督が防御措置の一部を緩和したところ、その隙をUボートに突かれて被害を出したのである。
2月7日の捜索が失敗した事でイギリス海軍はスワート作戦を断念。だが、すぐに第62部隊を第64部隊に改名・再編制し、新たにキャンド作戦(Operation canned)を開始。2月8日午前2時にモーリシャスからニューカッスルとリレントリスを出撃させ、今度はマダガスカル東方及び東南東を捜索する。敵は捜索エリアをA、B、Cの三つに分け、リレントリスはAを、ニューカッスルはCを、シャルロッテがいる確率が最も低いBは航空機がカバーし、AとCにも航空支援を用意。計10機のカタリナが投入された。
狙われているとは知らずにシャルロッテはモーリシャス東方900海里で帰国するU-532への給油を予定していた。ところが、モーリシャス北北西からゆっくりと南東へ移動する中程度のハリケーンがあり、U-532との合流が遅れる。このハリケーンはイギリス艦隊の索敵も乱したようで一時的に空からの捜索を中止している。2月11日午前9時頃、やっとの思いでU-532と合流。ローテ船長とハインリヒ・ユンカー艦長が打ち合わせを行い、敵哨戒機に発見されるのを防ぐためインド洋中央部に補給ポイントを変更する事、仮に敵機が出現した時は潜水せずに対空射撃で応戦するなどの取り決めを行った。
1944年2月11日午前11時15分、モーリシャス東方でU-532に補給中のシャルロッテを、索敵中のカタリナ飛行艇が発見。U-532は事前の取り決めを破って潜航退避してしまう。カタリナが呼出符合を求めてきたためシャルロッテは偽の呼出符合で応答したが、カタリナは騙されず、90分間に渡って上空を旋回し続ける。やむなく夜の帳が下りるのを待ちながら全速力で東への逃走を図った。午後12時10分、カタリナより「不審船発見」との報告を受けた軽巡ニューカッスルと駆逐艦リレントリスが現場海域に急行。
19時25分、2隻のレーダーが反応し、その僅か3分後に月明かりによって青く照らされたシャルロッテが姿を現した。最大速力11ノット程度では正規の軍艦からは決して逃げられない。リレントリスは真正面から突撃を開始、ニューカッスルはシャルロッテが逃走を図った時に退路を潰せるように回り込む。
決死の回避運動や艦砲での応戦も実を結ばず、20時15分にリレントリスから8本の魚雷が放たれ、そのうち2~3本が船体中央部に命中。更にニューカッスルから砲弾を浴びせられて致命傷を受けた。助かる道は無いと悟った船員が自沈用の爆薬80kgに点火し、20時40分に自沈。シャルロッテは最期の意地を見せてインド洋に沈んだ。
翌12日午前2時30分、沈没地点から100海里離れた場所でリレントリスは敵船沈没を報告。二度に渡って取り逃がしたシャルロッテを今度こそ仕留めた形となった。一方、U-532は夜間に浮上してシャルロッテを捜索するも、発見出来なかった。
ペナンのモンスーン戦隊司令部はシャルロッテからの連絡が途絶した事で消息不明と判断、のちに連合軍の放送で船員が捕虜になったと知って喪失判定を出している。
急速な沈没だったにも関わらず船員の殆どが6隻の救命艇に乗って脱出に成功。このうち2隻の救命艇に乗っていた生存者40名はリレントリスに救助されたが、真夜中だったため他4隻に乗った40~50名は漂流を強いられ、その地獄の体験談をシャルロッテの無線通信士アルフレッド・モーアが後世に伝え残している。
2月12日午前5時50分頃、10人が乗った救命艇に揺られていたアルフレッドが目を覚ますとシャルロッテのものと思われる残骸が周辺に浮いていた。ありがたい事にロッカーの一つから食糧と飲み水が少しばかり発見され、赤ワインのボトルも見つかったため、毎日の配給こそ少ないものの即座に飢える心配は無かった。さっそく祝杯代わりに赤ワインを開けて飲んだ。モーリシャスかレユニオン島に辿り着く事を願って北北西に向かう。
昼はコンパスを、夜は星を頼りにオールを漕ぐ。アルフレッドが乗っている救命艇には小さな穴が開いていて浸水し続けており、パン生地を詰めて塞いでも水が入ってくるので、オールを漕げない怪我人が水をかき出していた。他の生存者たちは目を皿にして通りがかる船を探している。夜になると波風が強くなり、高波をかぶった生存者たちは寒さのあまり凍えるが、夜が明けると今度は灼熱の太陽が照り付けて体内の水分を奪い去っていく。次第に彼らは食欲を失っていった。一方喉の渇きは強くなるばかりで、生存者同士の会話は水と食糧の話題で占められた。
衰弱したアルフレッドに死の恐怖や幻覚が襲う。中にはこれ以上生きていけないとし、救命艇から飛び降りようと考える者も出始めた。確かにこの苦しみより解放されるのであれば魅力的な選択肢となりうるが夜の冷たい風がアルフレッドを正気に戻した。たまにトビウオが救命艇の中に飛び込んできて、それを捕まえた者が生でさばいて食べる。味は意外と悪くないらしい。また時々雨が降って救命艇の飲料水を満たしてくれた。彼らを苦しめるのが自然ならば、飢えや渇きを癒してくれるのも自然だった。
2月24日、ついに物資が尽きた。生存者は生きる希望を根こそぎ奪われ、2~3日漂流を続けても陸地の発見や救助が無かった場合、航行を諦めて終わりを待つ事が提案され、全員がその意見に賛同した。
2月26日午後、手足の痛みと砕けんばかりの頭痛に耐えていたアルフレッドは、突然誰かが「陸地が見える」と叫んだのを聞いた。最初は呻くような声で皆が「黙れ」と言い、全員が信じていなかった。しかし別の者が同じく「陸地を見た」と言った事で注目が集まる。やがて近づいてくる海岸線、木々、山々――救命艇は確かに陸地へ近づいていた。そこへイギリス商船アフリカンプリンスが現れる。アフリカンプリンスは生存者たちに船へ移乗するよう勧め、舷側に縄梯子を垂らす。
希望の火が灯った事で考える余裕が出てきた。アルフレッドたちはこの陸地を中立国ポルトガル領東アフリカだと考えており、イギリスの捕虜になるくらいなら上陸した方がマシと思った。しかし波風に阻まれて岸まで辿り着ける見込みが無いと分かると素直に救助される。ちなみに陸地は東アフリカではなくマダガスカル島東岸マナジャリで、波の高さからもし強引に泳いで上陸を試みていたら、全員溺死していたかもしれないとアルフレッドは述懐している。
シャルロッテの生存者を救助したアフリカンプリンスの船長は「私の船に乗っている限り、捕虜ではなく難破船の船員として扱われる」と厚遇を約束。14日間の船上生活で完全に体調が回復した。3月1日には12名を乗せた救命艇が同じくマダガスカル東岸に漂着(うち1名は過労で死亡した)。彼らは全員ケニアの捕虜収容所に送られ、リレントリスに救助されていた船員とも再会する事が出来た。
一方で残りの2隻に乗っていた約20名は消息不明となった。
シャルロッテ・シュリーマンとブラーケの喪失はモンスーン戦隊にとって痛恨事だった。作戦に必要不可欠な2隻を失った事で燃料補給計画が完全に混乱し、以降はUボート同士での給油が主流となって哨戒期間が大きく短縮してしまう。そして補給能力に劣る小型船ボゴダ、キトが戦隊のか細い補給線となる。
1944年2月8日にペナンを出発したUIT-24(元コマンダンテ・カッペリーニ)は、喜望峰を回る前にシャルロッテから給油を受ける手はずとなっていた。だが、2月26日まで補給ポイントで待機していてもシャルロッテは現れず、出し続けていた補給要請を別のUボートが中継して司令部に送ったところ、返って来たのは「既に沈没した」という不吉な返答だった。やむなくもう1隻の補給船ブラーケに給油要請するが、そのブラーケもUIT-24のもとへ向かっている途上の3月12日に沈没。その後、司令部から喜望峰南方で帰国中のU-532に燃料補給するよう命じられ、3月18日に合流してタンクに残った僅かなディーゼル燃料を使ってU-532に送油。補給が終わるとUIT-24はペナンに反転帰投した。
3月14日、ドイツ海軍司令部はエニグマ暗号が安全ではないと悟り、乗組員の名前を暗号に盛り込む「マスク」と呼ばれる強力な暗号手順を導入。3月16日にはインド洋のUボートにも導入された。これにより連合軍の暗号解析に悪影響が生じ、敵は更なる強化を未然に防ぐため解析結果に基づいた行動を取らないようになった。
1953年から1980年にかけてミュンヘンを拠点に発行された西ドイツの雑誌「SOS - ドイツ船の運命」の第68回にて、シャルロッテ・シュリーマンが取り上げられている。現存する写真を基に海洋画家ウォルター・シーデンが描いたシャルロッテの船尾が表紙を飾る。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/16(火) 13:00
最終更新:2025/12/16(火) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。