「毛利勝永」(もうり・かつなが 1577 ~ 1615)とは、忠義と武勇に優れた豊臣秀頼配下の大坂方武将内での大名首朱功記録保持者であり、真田幸村と共に徳川家康を後一歩まで追い込み、豊臣秀頼最期の時まで付き従いながらも、後世の評価を全て真田幸村に持っていかれている為に
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
と評される事に定評のある「もっと評価されるべき」真の戦国無双。
※天王寺の戦いにおいて徳川方の陣を打ち破り、徳川家康の陣に肉薄した毛利勝永の戦いぶりに関する1コマ
加藤嘉明
「ご存知、ないのですか!?」
「あやつこそは、改易の身から大坂方の心を掴み、家康殿の本陣へと駆け抜けている」
「超豊臣先鋒大将!毛利勝永です!」
※この時、毛利勝永によって本多忠朝と小笠原秀政の大名級武将二人が討ち取られた他、多くの徳川方大名の陣が破られ、毛利勝永の部隊の徳川家康本陣への肉薄を許していた。
勇士の栄光と流転
豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子として尾張国にて生まれ、豊臣秀吉の九州征伐後に豊前国内に父・森勝信が10万石を拝領した際に、豊臣秀吉のはからいにより毛利輝元の許可をとった上で、森勝信父子は毛利姓へと改姓することになった。なお、当時の文書などによると実際の諱は吉政であり、勝永の名前は後世の創作説が有力である。
慶長の役に参加して明・朝鮮の連合軍を破り、関ヶ原の戦いにおいて西軍について伏見城攻略戦にて戦功をあげて毛利輝元や宇喜多秀家より感状を賜る等、武勇に優れた父・毛利勝信の血を受け継いだ勇将ぶりを発揮した毛利勝永だったが、関ヶ原の戦いの決戦の際は、毛利秀元隊の指揮下にいた為、吉川広家の邪魔により戦いに参加することが出来ずに撤退することとなり、城を黒田孝高に引き渡した豊前小倉毛利家は改易され、毛利勝永は父・毛利勝信と共にその身柄を、加藤清正そして山内一豊といった父の旧知で親交もあった大名家に預けられた。
決戦に参加していない事もあったが徳川家康旗下の最古参の一人であり、伏見城主だった鳥居元忠が落城と共に自害した事から、感状を発行される程の活躍をした毛利勝永に対して死罪の可能性もあったが、豊臣秀吉の存命中に命令された伏見城の普請にて木材が足りなくて困っていた徳川家康を、奉行を務めていた父・毛利勝信が裏から手を回して助けた事から死罪は免れたのだった。
そして山内一豊の元に送られた毛利勝永と父・毛利勝信は、山内一豊より1000石を与えられ、弟は山内姓を与えられて山内吉近を名のるなど罪人の身には恐れ多い厚遇を受けた。
忠義の士・大坂へ
父・毛利勝信が死去した後も土佐で暮らしていた毛利勝永に豊臣秀頼からの召集をうけると、毛利勝永は妻に対して
自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。
しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう。
と一度は大坂入りに難色を示したものの、妻より
君の御為の働くは家の名誉です。
残る者が心配ならば、私達はこの島の波に沈み一命を絶ちましょう。
とのエールを受けて子・毛利勝家と共に土佐から脱走して大坂に入城し、大坂に集まった諸将の信任を得た
らと共に大坂の五人衆と称され45000を預かる身となったが、大坂冬の陣においては真田信繁と共に出撃策を献じるも篭城策が選ばれた為、さしたる戦功を挙げる事なく豊臣秀頼と徳川家康は和睦した。
大坂夏の陣
和睦は破られ、再度、豊臣秀頼と徳川家康がぶつかる大坂夏の陣がおきると、掘を埋められて防御力をそぎ落とされた大坂城に篭城せずに出撃する事となった。
道明寺の戦いでは、発生した濃霧により、真田信繁と共に後詰を務めた毛利勝永が間に合わなかった事から後藤基次らが討死し、真田信繁は毛利勝永に対して
濃霧のために味方を救えず、みすみす後藤基次らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。
遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない。
と弱音を吐いて、討死を覚悟したが、毛利勝永は、
ここで死んでも益はない。
願わくば秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか。
と言って真田信繁をなだめて退却の指揮をとり、無事に自軍を大坂城へと帰還させた。
無双の士、駆ける
徳川家康の軍との決戦となった天王寺の戦いに4000の兵を率いて出陣した毛利勝永は、大胆不敵にも徳川家康本陣の正面に布陣した。
そして天王寺の戦いが始まると、真田信繁と共に徳川方の陣につっこんだ毛利勝永は、猛将本多忠勝の次男で大坂冬の陣の際に酒がもとで失態を犯していた事から退かずに勇戦した上総大多喜5万石の本多忠朝を討ち取り、
本多忠朝・最期の言葉
「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」
続いて突撃した信濃松本8万石の小笠原秀政に、後の世の松本小笠原氏改易の際の助けとなる「父祖の勲功」となる重傷を負わせた。
※小笠原秀政はこの時の戦傷により戦場を離脱後すぐに亡くなった。
その後も突撃を続けて奮戦する毛利勝永は、浅野長重・秋田実季・榊原康勝・仙石忠政・酒井家次・諏訪忠恒らを次々と無双乱舞によって撃破し、真田信繁と共に徳川家康の本陣へと肉薄、徳川家康は切腹も考える事態にまで陥った。
兵の跡
徳川家康の首まで後一歩と迫った毛利勝永だったが、後に評価を独り占めする真田信繁の部隊が先に壊滅すると、四方より攻撃を受けはじめ、徳川家康の首に届かぬ事を見極めた毛利勝永は、反撃してきた藤堂高虎・井伊直孝・細川忠興の軍を打ち破って大坂城への撤収を完了した。
真田信繁が討死し、名実共に大坂方の一枚看板状態となった毛利勝永は、大坂落城の際に自害した豊臣秀頼の介錯を行い、自らも子・毛利勝家と共に自害して豊臣秀頼に殉じた。
もっと評価されるべき
大坂方の武将の中では、
- 三世代チートの例の一族出身で真田幸村効果で功績独り占め状態の真田信繁
- 親父が四国最強のチート・長宗我部元親で逸話も多い長宗我部盛親
- 主君・黒田長政との因縁により乞食にまで落ちぶれたエピソードに定評のある後藤基次
- みんな大好き中納言・宇喜多秀家の家臣であり、名前が読みづらいことに定評のある明石全登
といったネタ方面も含めてエピソードに恵まれずに影が薄いのが毛利勝永である。(木村重成もね)
しかし、彼の大坂城での活躍は真田信繁に劣ってはおらず、討死することなく何度戦い続けて徳川家康にも迫る等、将としての功績は一番ともいえるのだが、逆に大坂の陣の時のエピソードしかない為か各方面で評価されず完全に隠れた名将扱いであり、コーエーの「信長の野望」シリーズでも初出時の高能力がシリーズを重ねるごとに真田信繁と水を開けられ、「革新」でやっと再評価されたと思ったら、島津義弘や木村重成の様な「顔グラいじめ」にあうという状況である。
まさに毛利勝永こそ「もっと評価されるべき」戦国武将と言える。木村重成もね。
※その他「毛利勝永」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
「惜しいかな後世、真田を云て毛利を云わず」とは?
毛利勝永を語る上で欠かせない最も有名な一文が、本記事の冒頭にもある江戸時代の随筆『翁草』に著されている「惜しいかな後世、真田を云て毛利を云わず」であろう。しかし、この一文を以って「真田信繁(幸村)よりも毛利勝永のほうが優れた武将である」と主張することに関しては少々注意が必要である。
そもそもこの一文は実は『翁草』の真田信繁についてを語る「真田左衛門佐信繁略譜」に出てくる言葉であり、著者の神沢貞幹はそこに「古今独歩は真田信繁」「第二の功、毛利勝永たるべし」と記している。そしてそれに続く文章が「惜しいかな後世、真田を云て毛利を云わず」なのである。
つまり神沢貞幹は「豊臣方のMVPは真田信繁だが、ナンバー2の戦功をあげたのは毛利勝永である。それなのに人気と知名度に差がありすぎるのは残念だ」ということを記述しているのであり、勝永を信繁よりも上に置こうとする際にこの一文を引用することは神沢の意図を正しく汲み取ってるとは言えない。「真田幸村」として有名になった真田信繁の評価も過大になりがちだが、その反動で信繁を貶め勝永を持ち上げすぎることもまたフェアではないだろう。
創作物でも近年再評価の声が高くなり、大河ドラマ「真田丸」では岡本健一の好演が彼の人気と知名度上昇に大きく貢献している。
関連動画
▼真田幸村と並ぶ大坂組の両翼として豊臣秀頼の下で毛利勝永が活躍する「豊臣家の盛衰」
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング中部編に統率7位で登場。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける毛利勝永の能力一覧。シリーズを重ねるごとに能力が強くなっている。戦国立志伝では能力こそ据え置きだったが、顔グラも一新されて、大坂の陣シナリオの主役の一人として活躍。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 80 | 戦闘 | 78 | 智謀 | 36 | 政治 | 24 | 野望 | 31 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 156(A) | 智才 | 114(B) | 政才 | 62(C) | 魅力 | 72 | 野望 | 40 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 72 | 政治 | 37 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 52 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 39 | 政治 | 56 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 64 | 智謀 | 55 | 政治 | 17 | 野望 | 9 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 53 | 政治 | 18 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 53 | 政治 | 18 | 教養 | 50 | ||||||||
革新 | 統率 | 89 | 武勇 | 82 | 知略 | 67 | 政治 | 20 | ||||||||
天道 | 統率 | 89 | 武勇 | 82 | 知略 | 76 | 政治 | 42 | ||||||||
創造 | 統率 | 83 | 武勇 | 81 | 知略 | 75 | 政治 | 45 | ||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 83 | 武勇 | 81 | 知略 | 75 | 政治 | 45 | ||||||||
大志 | 統率 | 80 | 武勇 | 85 | 知略 | 74 | 内政 | 46 | 外政 | 60 |
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関連項目
- もっと評価されるべき
- ご存知、ないのですか!?
- 豊臣秀吉
- 豊臣秀頼
- 秀頼四天王
- 明石全登
- 安井成安
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