アフタヌーンショーとは、テレビ朝日系列で1965年4月から1985年10月まで月曜日から金曜日の正午に放送されていたワイドショーである。
概要
NETテレビ(現:テレビ朝日)では、番組開始前年の1964年に日本初のワイドショーとなる「モーニングショー」を始め、この成功により日本のテレビ界にワイドショーというジャンルを定着させた。これを受けて、当時不毛の時間帯であった平日正午の枠にもワイドショーを投入したのがこの「アフタヌーンショー」である。
数年遅れて始まった「お昼のワイドショー」(日本テレビ)や「3時のあなた」(フジテレビ)と共に、平日正午から午後の時間帯にもワイドショーを定着させた記念碑的番組である。
歴史
番組の歴史は大きく区分けすると前期の桂小金治司会時代と中期以降の川崎敬三司会時代の2つに分けられる。
番組開始当初
当初は司会をNETアナウンサーと8人の応募で採用した素人のアシスタントで番組進行をしていたが、視聴率は苦戦をしていた。このため、女優の草笛光子をメイン司会に据えたテコ入れを行うなど徐々に軌道修正が行われる。
番組開始から10か月後の1966年1月、番組司会者に落語家・桂小金治を起用。
番組では討論コーナーである「怒りのコーナー」で主に若者に対して、桂小金治がスタッフの指示で本気で怒り出すというのが話題となる。これにより桂小金治は『怒りの小金治』という異名を得た。また、指圧療法創始者・浪越徳治郎を起用した「指圧のコーナー」、料理研究家・田村魚菜を起用した「料理コーナー」の三本立てで人気番組となった。
番組中期
この「怒りのコーナー」は桂小金治と番組自体の代名詞となっていたが、頻繁に糾弾の槍玉に上がっていた若者の間で当時強い支持を獲得したラジオの深夜放送から批判の声が上がり、後に主な視聴者でもある主婦層にも飛び火する大論争となる。この世論に押される形で、1973年8月、小金治は涙を流して番組司会を降板した。
その後すぐに俳優・山田吾一が司会を担当したが、トラブルに巻き込まれてわずか3か月で降板。
NETのアナウンサーが半年間つないだ後、1974年3月より俳優・川崎敬三に司会を交代をして以後は最終回まで担当するようになる。
番組後期
司会が川崎敬三になった頃になると、主に芸能と事件事故を追及をする形となった。同時に芸能レポーター・梨元勝と俳優・山本耕一もレギュラーとして加わった。特に梨元は女性誌の記者から転身し、芸能レポーターとしてデビューをした番組でもあり、決まり文句の「恐縮です!」は流行語となった。また山本は事件をスタジオで再現をし、川崎と山本とのやり取りで「こうなんですよ川崎さん!」「そうなんですか山本さん!」は視聴者に強烈な印象を残した。
漫才コンビのザ・ぼんちがこのやりとりをパロディーにした漫才ネタを披露したことで更に広まり、当時の流行語となった。
1981年にザ・ぼんちがこれを取り入れた『恋のぼんちシート』という曲もリリースし、これも大ヒットしている。
やらせリンチ事件発覚、打ち切り
長きに渡り君臨してきた「アフタヌーンショー」であったが、1982年に「笑っていいとも!」(フジテレビ)がスタートして以降徐々に視聴率が低迷し始める。
この視聴率低迷に焦った番組スタッフが、番組どころかテレビ朝日までも揺るがす大事件を起こしてしまう。
1985年8月、「激写、中学女番長、セックス・リンチ全告白」という企画を放送。東京都福生市の多摩川河川敷で不良60人がバーベキューをしているところで女子中学生5人が不良少女2人にリンチされる一部始終を映像で捉えたというもので、番組ではこの模様をドキュメンタリーとして放送したが、同年10月9日にこのリンチを行った少女や暴走族の元リーダーが逮捕された際に「番組ディレクターが関係者に取材協力費を払って暴行を行うよう指示した」と供述し、やらせであったことが判明。
実は、番組ディレクターとリンチを行った暴走族の元リーダーにあたる人物が知り合いであり、彼らを介して番組ディレクターが実行犯となった不良少女たちにリンチを依頼したという、マッチポンプ的な事件だったのである。
この事件の発覚により、リンチを受けた女子中学生の母親が電車に飛び込み自殺。番組ディレクターも暴行教唆で逮捕された(同時に懲戒解雇。後に罰金10万円の略式命令が下された。)。
一大スキャンダルとなったこのやらせリンチ事件により、当時のテレビ朝日社長が「アフタヌーンショー」生放送で謝罪。番組スポンサーも全社撤退し、司会の川崎敬三や番組レギュラーも降板を表明する状況となる。
テレビ朝日上層部は当初「番組内容の大幅刷新を行った上での番組継続」もしくは「後継番組の立ち上げまで1ヶ月ほど『アフタヌーンショー』を継続させた上での番組終了」を模索したものの、一大スキャンダルを起こした番組を継続させようとするテレ朝側に番組スポンサー、ネット局、視聴者が激怒。
ネット局の中には「このまま番組を継続するのなら『アフタヌーンショー』のネットを打ち切る」と通告する局が現れ、また番組スポンサーが全社降板した状態でテレビ朝日がネット局に支払わければならない営業保証を含む経費負担が莫大な金額になる見込みとなり、さらに「テレビ朝日のテレビドラマに出演すると自分もイメージが悪くなる」と出演を渋るタレントが現れるなど他部門の現場にまで影響が出始めた。そして、ついに上層部は10月17日に「翌10月18日の放送をもって番組を打ち切る」と決断した。
監督官庁である郵政省(現:総務省)が厳重注意を行い、一時は放送免許更新拒否の危機となったものの、条件付きでの更新が認められ、最悪の事態はなんとか避けられた。
なお番組ディレクターはその後自身の著書でやらせを否定している。
急遽打ち切りを決定した「アフタヌーンショー」の最終回は、歴代出演者・リポーターをゲストに招き20年間に渡った放送を懐かしのVTRで振り返るという内容となった。
やらせ発覚直前に放送スタジオが六本木(現在の六本木ヒルズの位置。2003年からはテレビ朝日が再びここに戻っている)からアークヒルズのアーク放送センターに移転しているが、そこからは僅か3週間しか放送されなかった。
番組視聴率は低迷していたとはいえ安定したブランド力のあった「アフタヌーンショー」を失ったテレビ朝日の平日正午枠はその後迷走期に入り、以降の約11年間は何をやっても長続きしない「死に枠」と言われるようになる。この視聴率低迷がテレ朝自体の大迷走時代の引き金を引くこととなり、長きに渡って「振り返ればテレビ東京」と呼ばれる存在となった。
1996年4月に「ワイド!スクランブル」が始まり、ようやくこの暗黒時代から脱している。
ちなみにやらせリンチの原因となった特集について当初は8月13日に前編、20日(いずれも火曜日)に後編を放送することになっていたが前編は前日に日本航空123便墜落事故が起きその報道に充てたため2回分を20日にまとめて放送することになった。また、大阪のABCテレビは全国高等学校野球選手権大会の中継を放送していたため放送されなかった。
ネット局
番組当初は、ネット局がNET・毎日放送・九州朝日放送で同時ネット、名古屋テレビで時差ネットを行っていた。
その後番組が人気を獲得すると、当時NETが多くの系列局を持たない弱小局であったことからNET系列外でも時差ネットで放送する局が全国に増えていく。
特に1960年代後半から1970年前半にUHF波で開局をした新設局が大量にネットを開始している。この背景には、「アフタヌーンショー」についていた全国ネットスポンサーを獲得したいネット局も思惑もあった。
こういった形でネット局を拡大していった背景があり、正午の同時ネット局は少なく、時差ネットをする局が多数を占めていた。「うちの地方では午後2時か3時に放送をしていたのを見ていた」と記憶している人が少なくない。
「やらせリンチ事件」による番組打ち切り以降もこの時差ネット枠はしばらく維持され、1993年3月まで継続していた。また、テレビ朝日も1970年代後半より自社系の新規開局を進め、徐々に正午の同時ネットへと移行するネット局も増えていった。
ただし、岩手県で当時ネットしていたテレビ岩手では、1969年の開局からクロスネット局にもかかわらず正午に同時ネットをしていたが1980年に番組を打ち切っている。 これは岩手県庁職員が番組にスキャンダルを告発をして大騒動になったため、テレビ岩手が煽りを受けて番組の終了&ANN脱退をしたという説と、東北新幹線が建設されていた時代に「無駄な公共事業」と番組で批判したことが岩手県庁の怒りを買ったという説がある。
テレビ朝日系列と他系列とのクロスネット局の中には平日正午に「アフタヌーンショー」の同時ネットを選択した局も少なくない。新潟県(新潟総合テレビ)と福島県(福島中央テレビ)では平日正午にこちらのネットを選択したため、メイン系列で放送されていた「笑っていいとも!」や「お昼のワイドショー」がしばらく放送されていなかった。
関連動画
関連商品
関連項目
- 3
- 0pt